フランスは今この時、この場所に、どうしても立っていなければならなかったのだ。
*
「美しいあなたの手にキスをしても、マダム?」
豪奢な椅子に座った妙齢の婦人の前で、美しい金髪の青年が跪きそう乞うた。
彼女は扇で口元を隠し、少し逡巡する。
「『あなた』がキスをすべきなのは夫の手だけではなくて?」
まさか、と肩をすくめ、青年はわざとらしく鼻白んだ。今初めて言葉を交わす彼女にも、ポーズであるとわかる程度の大げさな仕草で。
「俺の右手は全ての女性の手をとるために、俺の右足は全ての女性とダンスを踊るためにあるのです」
「あなたは国であるのに?」
「女性の前では等しく愚かな男です。その代わり左手で盾を持ち、左足で戦場の土を踏むことは厭いませんとも」
「まあ」
生まれ育った土地の『彼』とはあまりに違う悪戯っぽい口調に、彼女は自分でも知らぬうちに微笑んでいた。こうして自然に微笑んだのなんて、いったいいつ振りのことだろう。
「でも剣を持つ手は右手じゃありませんこと?」
「それでは全ての女性のために剣を振るいましょう」
マリー・アントワネットは今度こそ扇を置き、青年――フランスその人に手を取らせ、口付けることを許した。
手の甲に落とされるのは、夫に捧げられた忠誠のキスとは似て非なるものなのであろう。人の形をした彼が人ではないのと、どこか似た意味でもって。
「あなたは知ってるのかしらフランス。心臓は左にあるってことを」
独り言めいた呟きを逃さずに聞き取ったフランスは、跪いたまま顔を上げた。
いかにも青年然とした見かけよりもずっと老獪に、彼は彼女を見上げて笑ったのだった。
*
体調は最悪だった。それはもうずっと以前から続いているもので、はじめは鬱々とした倦怠感に過ぎなかったものが体を割るような痛みに変わったのは、いつのころだったか。これ以上酷くなることはないだろうと思うたびに底を割ってさらに落ち込むのを何度も繰り返し、最早何が通常で何が異常か自分でもよくわからない。
しかし、久しぶりに日の光の下に出ていざ地に足を着けてみると、ああ確かに俺は体調不良だ、しかも過去最悪と言っていい程に、と懲りずに思うのだった。
パリ中心部の広場には断頭台を何重にも囲むように大勢の民衆がつめかけ、そのときを今か今かと待ち構えている。フランスはその輪の一番外側に、カンテラに惹かれる虫のようにふらふらと並んだ。
体調と相俟って、まるで夢の中のように時間がゆっくりと流れていた。
一段高くなった場所に白いドレスがひらめくと、刑場全体がわっと歓声に沸く。かろうじて、腕を後ろ手に縛られた女性だということがわかる。造作がどうであるとか、表情がどうであるとか、そういったことはここからはわからない。
確かに見えているのに、しかし干渉することのできない距離、というのは、なにか暗喩めいた響きを伴ってフランスに襲い掛かった。見て見ぬ振りをし続けていたものを、何も今こんなところで突きつけなくてもいいのに。
歓声はいよいよ高く、熱狂する市民の声が執行人の合図をかき消していた。いや、実際にはそんなことがあるはずもなく、正義の名の元に刃は下ろされる。
断頭台から重たい石榴が落ちる音が、だがフランスの耳には確かに届いたのだ。
耳鳴りと頭痛がいや増した。人々が唱和するのは共和国を称える大合唱だった。
はじめから確かでなかった視界は、心なしかさらに狭まった気がする。よく前が見えない。焦点がおかしなところで合わさったまま外れなくなったような具合だ。
右隣に立っていた見物人の一人が、フランスを見てぎょっと目を丸くしている。
なるほど公開処刑を楽しんでいるようには見えない姿は、ここでは異質だったかと、フランスはなにかあらぬ疑いをかけられる前にと踵を返した。
シャンゼリゼ通りを過ぎ、セーヌ川のほとりまで無心に歩いてから、フランスは改めてその理由に得心した。
死人のようにやつれ青い顔をした男が濁った川面からフランスを覗き返していた。
右の目からだけ一筋涙を流し、左目を爛々と輝かせた男は、人の形をしていながらも、やはり人には見えなかったのだろう。
1793年10月16日 マリー・アントワネットの処刑


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