わにの恩返し

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 その朝、図書館の池に棲む謎の生物は、普段とは違う気配に目を覚ましました。
 図書館の池に棲む謎の生物というからには、図書館の池に棲む謎の生物は図書館の池に棲んでいるわけですが(わかりづらいので、今後図書館の池に済む謎の生物のことはかっぱわにと呼ぶことにします)、その池に、この冬初めての氷が張ったからです。
 氷の張った池というのは、独特の雰囲気があるものです。いつもより外の音が聞こえづらく、日の光が届きづらいので、氷の下はしんと押し殺したような静けさと薄暗さに包まれます。それが、かっぱわには嫌いではありませんでした。朝になって、太陽が顔を出し、氷に反射した朝日がぴかぴか光るのも、頭の上でみしっ、みしっと重たい音を立てて徐々に氷が溶けていくのも、かっぱわにの冬の楽しみでした。
 かっぱわには世間的には変温生物に属するらしく、雪が降ろうが氷が張ろうが寒さという点では全く問題ありません。その朝も彼(?)は目を覚ましてすぐ、元気にちゃぷちゃぷと池の中を泳いでいました。小さいながらもかっぱわには、この池の主でもあります。通り過ぎる鯉やらなまずやらが挨拶をしてくるのに鷹揚に応えつつ、異変がないか池の中を一周くるりと見回る、それが彼の毎朝の習慣でもありました。
「あ! 氷が張ってるぜ」
 と、その時池の縁で誰かの声がしました。こんな朝早くに珍しいことです。かっぱわにが縄張りとするこの池は帝國図書館という大きな図書館の敷地内にあるのですが、なにせそこの住人といったら、揃いも揃って宵っ張りの朝寝坊ばかりなのですから。たまに夜遅くに、酔っ払いが酔い覚ましと称して池の周りを散策することはあれど、朝日が昇るか昇らないかというこんな時間には酒飲みもさすがに寝ています。子供の姿をした者たちなどはわりに早起きですが、それでもあと一時間は夢の中でしょう。
 今朝の来客は、そのどちらでもないようでした。氷越しに聞こえる声は、若いと言っても子供よりは低く、酔っ払いのように酒焼けもしていません。
「ほんとうだ。初氷じゃないか」
 そこにもう一つ、別の声が聞こえます。どうやらお客さんは二人組の様子。かっぱわには氷の下から目をこらします。はっきりとは見えませんが、黄色と桃色の影が二つ並んでいるようでした。
「今朝は格別冷えたからなあ」
「ああ……季節の移ろいを感じるな」
 ふと、かっぱわには、二人の声に聞き覚えがあることに気が付きます。どこで聞いたのだろう、ここにはたくさん人がいて、全部を覚えていられるほどかっぱわには暇ではありません。ですが、その声は特別、忘れがたい声である気がしてしょうがありませんでした。
「あいつ、どうしてるかな」
「あいつ?」
「あいつって言ったら、あいつに決まってる。去年の夏、スクープ狙って、キュウリで釣り上げようとして失敗した、」
「ああ、かっぱ!」
 それでかっぱわには思い出しました。
 なんでこんな大切な声を忘れていたのか、この二人は、かっぱわににたくさんのキュウリを恵んでくれた、あの二人組に違いありません。
「綺麗にキュウリだけ持って行かれたもんなあ……。やっぱ、ほんとにかっぱだったのかな」
 かっぱわにはキュウリに直接齧り付くようなお行儀の悪いことはしません。ちゃんと前足を使って針を外して、いただきますと手(?)を合わせてからいただくのです。だから、二人がかっぱわにを釣ろうとしていたなんてこと、気にもしませんでした。
「かっぱだろ、どう考えても。キュウリを食べる魚なんて聞いたことない」
 そのとおり、心優しいかっぱわには、他の魚たちにも分け与えようとしましたが、みな一様に首を振り、いらないというので、彼らの垂らした釣り餌のキュウリは全部一匹でたいらげました。その小さい体の一体どこにあの量のキュウリが収まったのかは、今世紀最大のミステリーかもしれません。
 二人は水辺でひとしきり夏の思い出話に花を咲かせ、かっぱわにもあの夏のキュウリの味を懐かしく思い出していました。図書館の裏の畑で作った無農薬のキュウリは、かじるとぱりっと歯ごたえがあって、なのに飲み込むときは皮が喉に引っかからない、絶妙なバランスでした。ここ数年でも特にできの良かった一昨年と同じか、それを超える味わい。歴史に刻まれるでき映えと言っても過言ではありません。
 そんな素敵なキュウリをたっぷり振る舞ってくれたこの二人は、なんていい人たちなんだろう。なにかお礼ができればいいんだけれど。
 そのとき、桃色の髪の方が言いました。
「見ろ、日が差したところから氷が割れそうだぜ。もうちょっと見て行こう」
「ええ? 氷ってそんなにすぐに割れるもんか? 俺は寒くなってきたよ。そろそろ帰って、あったまって、朝飯食おうぜ」
「アンタにはまるで情緒ってものがないな。いいよ、俺はここで見てるから」
「ばか、いつまでかかるかわかんないんだから、風邪引いちまうぞ」
「すぐだって言ってるだろ。少し黙って見てろよ」
 それきり二人は、黙ってじっと水面に張った氷を見つめているようでした。かっぱわには静かになってしまった氷の上を気にしながら、ゆっくりと一周、二周、池を回遊しました。三周目に入ろうとしたときです。
「割れねえじゃん」
 黄色い髪がとうとう、あきれたように言いました。
「きっともうすぐ……っくしゅ」
「ほらー! だからすぐには割れないって言ったじゃん! お前そんな体強いわけじゃないんだから」
「さっきから聞いていればアンタは……俺の言うことを否定ばっかりして」
「いや、心配してやってんだろ」
「心配の押し売りは結構だ。いいから黙って見てろ」
「はあ、もう……いいか、あと五分だけだぞ」
「おう」
 かっぱわにははらはらと氷の上を窺います。かっぱわにと違って、人間は恒温動物。体が冷えると弱ってしまいます。それに、話を聞いた限り、くしゃみをした方は体があまり丈夫ではない様子。果たして、あと五分で氷は割れるでしょうか。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
「おい、もう五分」
 かっぱわには覚悟を決めました。今が恩返しのときに違いありません。
 心の奥にふつふつと熱いものが滾ります。その熱を勇気に変えて、かっぱわには一度、池の深くまで潜りました。水草の生い茂る底まで潜って、それから勢いをつけて、泳ぎ始めます。尾をくねらせて、前足で水を掻き、精一杯の早さで、水面に向かって。
 きら、と日の光がかっぱわにの目を刺しました。あそこだ、と本能が告げます。一番氷の薄い場所。一番割れやすそうな場所。かっぱわには小さな体で精一杯、氷に向かっていきました。かっぱわには衝撃に備えて目を閉じます。
 さん、に、いち……ぱりんっ!
「割れ……たあっ!?」
「なんっ!?」
 そのとき、二人の目に、かっぱわにはどう映ったでしょう。かっぱわにには知る由もありません。
 朝日を浴びて、きらきらと、氷のかけらを撒き散らし、冬の空に飛び出したかっぱわに。冷えた空気に驚いて目を開けると、一瞬、二人と目が合った気がしました。ぽかんと口を開けて、目を見開いてかっぱわにを見上げる二人。
 永遠にも感じる刹那の邂逅でした。
 かっぱわには空中でくるくるくると三回転し、氷の割れ目にぽちゃんと落ちて、再び池の深いところまで沈んでいきました。
 ですから、池の畔で二人がどんな話をしていたか、やはりかっぱわにには知る由もありません。
 わかるのは、次の夏。
 きっとたくさんのキュウリが、釣り針を引っかけて降ってくるでしょうから。

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