蛍冷え

5,223 文字

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「田山さん、これ、預かりましたよ」
と、そっけない茶封筒に入って手渡されたのは、手紙のようだった。
 花袋はとても疲れていたので、それをその場で開けることもせずに、とりあえず自室に戻って、それからでいいと判断した。
 なにせ午後いっぱいの潜書からようやく上がったところだった。それも、わりと新参の部類である花袋がいつも任されているのより数段上の、侵蝕の度合いの比較的進んだ本だったので、敵も味方も練度がある。周りの動きについていくのが精一杯で、たまにお膳立てしてもらったところに攻撃を打ち込むことはあっても、ほとんど逃げ回って、ろくに狙いも定めずに矢と体力を浪費していたような、そんな数時間だった。
 本来今日の午後、花袋に割り当てられたのは司書の助手職であり、書類の整理やら本の補修やらを手伝っていれば定時にはきっぱり上がれる予定だったのが、こんな厄日に取って代わったのは同じ弓使いである独歩が午前の潜書中に敵の刃をまともに食らって、動けなくなってしまったせいである。
 ごく初期に図書館に迎え入れられた独歩は練度の上でも秋声と肩を並べるほどに高く、花袋がひいひい言いながらこなしたこの度の周回も普段鼻歌交じりにやってのけるというのだが、そのときはなにか気にかかることでもあったのか。本人に聞いても「たまたま目にごみが入ったから」としか言わないが、どうも一緒に潜っていた森鴎外の話によれば、萩原朔太郎が銃弾の再装填にもたついていて敵の気配に気がついていなかったのをかばったのだという。萩原は確かに線の細くて、守ってやらないとすぐどうにかなってしまいそうな儚げな外見をしているが、かといって独歩だって、折れそうな柳腰でとても盾になんかなりそうもない躰をしている。それでいて彼は親分肌というのか、兄貴肌というのか、弱い者やら身内やらを助けずにはいられない性質なのだった。結果的に、その時までほぼ無傷だった独歩だからかろうじて中傷で済んだのだが、すでにいくらか傷を負っていた萩原が太刀まで食らっていたら、耗弱、あるいは喪失も免れなかっただろうから、彼の無茶をそこまで責めてやるのも筋違いだった。
「これだけ侵蝕されていると午後は熱が高くなるだろうから、安静にしているように」
と森はそれだけはよくよく言い含めて、午後から再び、花袋と一緒に異界巡りの途に就いた。独歩にしても森にしても、よくもまあこんな苦行を午前も午後もぶっ通しでできるものだと感心したが、「元々軍人だからな」と言われれば納得できる森と違って、独歩のはあれは、完全にワーカホリックじゃないかと思ったりもする。

 致命傷のような大怪我は負わないにしろ、あちこち削られて十分に煤けてしまった自著をさっさと司書に預けて補修を頼むと、花袋は我が家たる独身寮に帰ることにした。潜書中にいくら負傷しようとも、上がると同時に跡形もなく消えてしまう怪我の代わりに、前世の病や気塞ぎをぶり返すというあの独特の症状――森などは「潜書症」などと命名している――が、花袋の場合はそう重くはないのが幸いだった。人によっては起き上がれないくらい躰を痛めるものもあって、独歩などはそれが発熱という形であらわれる。今頃うなされていやしないだろうか、着替えたらもう一度図書館に見舞いに戻ろうと決めて、そう決めると疲弊しきっていた精神と心とがにわかに息を吹き返すような心持ちがした。
 図書館の本館から独身寮までは、広い庭や散策道を有する帝国図書館とはいえ、同じ敷地内のことなので五分とかからない。外へ出ると、夕日の残り火に照らされて、空は群青と茜との間でかえって色味をなくしていた。それにまだ六月だと言うのにどこかでセミが鳴いている。確かに今日はここ数日の雨が嘘みたいに朝からよく晴れて気温も上がったから、それでひぐらしも勘違いして出てきたのかもしれない。
 このあたりは一応都内ということになっているが、西部の自然の多い地域で、有体に言って田舎である。そのため都会に出たいのなら人通りの少ない道を十キロばかし行って、さらに鉄道で何回か乗り換えなければいけないほどで、一部の都会派の文士には不満もあるようだが、花袋などは山のほうが好むところであり、それは独歩も同様であるらしかった。少し時間が空けば周辺を散策して、やれ古い林道の跡があっただの、だれそれの句碑があっただのと新情報を持ち帰る。
 先日などは、夜も九時を回った頃にいきなり独歩が部屋にやってきて、風呂上がりに涼んでいたところを、
「蛍の季節だ。見に行こう」
と連れ出そうとする。
「ちょっと待て、何時だと思ってる」
 彼はまったく昼間のままの格好で、少し首を傾げて花袋の卓上時計に目をやり、おやという顔をした。
「何やってたんだ今まで」
「有魂書の潜書。四時間の大物を引いてきたぞ」
「そりゃおつかれ。なら疲れてるんじゃないのか」
「それとこれとは別だ。今日はあんたに会う機会がなかったから、会ったら必ず誘おうと思ってたんだ」
 そういうことを、なんの気負いなく言うのが、彼が人誑したる所以だと重々承知はしているものの、やはり悪い気はしないので話くらいは聞いてやることにする。
「蛍ったって、最近じゃあめっきり減ったっていう話だぞ。あてはあるのか」
「独歩さんのリサーチを甘く見るなよ。駅へ行くのとは反対方向だが、あのあたりはまだ昔のままの田んぼがあって、《蛍の里》だのって触れ込みで都会から人を集めてるらしい」
「ふうん、そりゃいいけど、どっちにしたって距離があるだろ。駅までと同じくらいかかりそうじゃないか」
「それがな、ここからスクープだが、うちの裏門を出て林をちょっと行くと、細い脇道がある。ふつうなら行き止まりかと思うが、そこをあえて突っ切ると農業道路に出るのさ。そしたら田んぼ道までなんてすぐだ、二十分とかかりやしない」
 それは確かに、駅まで出るのに歩いて二時間はくだらないのを考えると、近いと言っていい。だから行こう、ほら行こう、と夜着代わりの浴衣を引っ張るので、花袋にしたらたまったものじゃない。花袋だってこれがあと三時間、いや二時間でも早ければやぶさかじゃあなかったが、明日も朝から潜書番が回ってきているし、風呂だって入ってしまって、これからまた着替えて外に出るのは正直なところ、億劫だった。
「畦に落ちると困るから明日にしようぜ。明日なら付き合ってやる」
 そう言うと、彼はむっと黙り込んで、往生際悪くふくれっ面をしていたが、しばらくすると、そうか、わかった、と渋々ではあるが納得した。
「だが絶対だぞ。晴れていたら絶対に行くからな。日暮れに裏門に待ち合わせだ。忘れたなんてのはきかないからな」
 そしたら案の定、翌日からは雨続きで、機嫌をとるのに随分苦労した。
 今日なんかは、梅雨とは思えないくらいに天気が晴れて絶好の機会だったが、花袋もそうだがなにより独歩が昼の潜書でやられているので、延期するしかあるまい。
 そんなことを思い出していたら、なんだかすぐにでも彼に会いに行ってやらねばいけない気になった。寝込んでいるのでなければ、熱で頬を赤くしながらまたこの間みたいに機嫌を悪くしているかもしれない。もうそこに寮の入り口が見えているというのに、花袋はもと来た道を引き返すことにした。出たばっかりの職員用通用口に上がって、開架書庫とは反対の医務室の方へと廊下を曲がる。遠目にも部屋には電気が明るくついているのが見えたので、司書か、森あたりが詰めているに違いない。
「お邪魔します」
と、声をかけて引き戸を開けると、そこはちょっとした騒ぎになっていて、花袋は一瞬、部屋を間違えたかと表札を確認してしまった。
 部屋の中には森と、秋声、それから花袋の代わりに助手を代わった正岡がいて、花袋が部屋に入るとそれぞれが一斉にこちらを振り向いた。
「ああ、田山くん。ちょうどよかった」
 と森がまずそう言った。
「ちょっと走って呼んでこようかと思ったところだ」
 とは正岡の言だった。
「なんですか、俺がどうかしましたか。おい秋声、説明しろよ」
 いったい訳がわからず、気の置けない旧友に苦言を呈すると、彼はすっかり癖になってしまった眉間の皺をほぐすようにそこに指を当てて、大げさにため息をついてみせた。
「国木田がいないんだよ」
「えっ」
 秋声が何か続ける前に、花袋は部屋の奥の寝台の並んだ一角に素早く寄って、どのカーテンも開けっ放しになっているのを確認した。一番手前の寝台の、蒲団がまるで抜け殻のように使われっぱなしになっている、その敷布に手を這わせてみるが、すっかり冷たく体温の名残すらどこにもなかった。
「その様子じゃあ、君も知らなかったようだね」
「知らねえって。ここにいるもんだと思って見舞いに来たんだから」
 花袋は森のほうを振り返って尋ねた。
「もう治って、部屋に戻ったってことじゃあないんですね?」
「徳田君が確認済みだ。なによりあの侵蝕の具合だったから、今晩は夕食はここで取らせようと手配してたくらいだよ。あれは耗弱一歩手前だ」
 昼に潜書室前ですれ違ったときは、「中傷だ、心配ない」と笑っていたが、案の定ごまかしていたとわかると心配より先に腹が立った。
「国木田くんは長引くからなあ。まだ熱があるだろうに」
 自分も潜書の後は長い時間咳に苦しむ正岡が、遠い目をしてぼやいた。どっかで行き倒れてないといいが、などと続けるものだから、花袋はぎょっとする。
「寮にも戻ってない、田山君にも心当たりがないとすればお手上げだ。司書に知らせるか」
「何かあってからじゃあ遅いですからね」
 森と秋声がそう算段をつけているのを聞いて、ふと花袋は、ジャケットの内側に入れっぱなしの封筒を思い出した。その司書が、潜書上がりの花袋に渡したものだった。あのとき司書はなんと言っていたか、あまり覚えていないが、誰かからだと名前を聞いただろうか。
 取り出すとそれは、あんまり丁寧にしまった覚えもなかったがあちこちに皺が寄っている。これ以上縒れないようにそっと開封して中から規定便箋を取り出すのを、周りで三人が興味深そうに見つめている。

 ——早く来たれかしと待つ。

 わずか四行。宛名と差出人を除けば二行。一息に目を通した花袋は一言、
「あっの大馬鹿野郎が……っ!」
 と唸るように吐き捨てて、一目散に医務室を出ていった。

 残された面々は、お互いに顔を見合わせて、これで一件落着としていいものかと判断をつけかねている。
「国木田くんからの手紙だったんでしょうな」
「そうでしょうね……」
「何が書いてあったんだか」
「すごい剣幕だったな」
「司書には連絡しなくていいですか」
「いいだろう。あの人も大概忙しいから」
 そんなことを話していると、出ていったばかりの花袋がまたすごい勢いで戻ってきて、
「すみません、これ借ります!」
 椅子に掛けてあった病人用のひざ掛けを引っ掴んで、慌ただしくまた駆け去っていったので、これ以上はどうにもなるまいとその場を解散する流れになった。

 裏門の、正門に比べたら随分貧相な鉄の扉に半分体を寄っかけて、独歩は彼がずんずんと大股で向かってくるのを見つけると、よう、と軽く手を上げた。
「待ちくたびれたぞ」
 すぐ隣までやってきた花袋にそう声をかけたが、彼はだんまりで、口などはぎゅっと左右に引き結んで、まっすぐに独歩のことを見つめて、いや、睨んでいると言った方が正確か。とにかく花袋が何も言わないので、表情ばかりはいつもの不敵さを心がけながらも、独歩は十中八九、これは連れ戻されるかなと覚悟していた。まあ具合は良くない。だるいし、寒気がする。悪化することはないにしろ、出かける体調でないのは確かだ。しかし今日を逃せば、梅雨のさなかのことだから、また何日雨が続くかわからない。
 今度はなんて説教が始まるか、そう簡単には折れてやらんとあれこれ口撃の種を考えながら、独歩は花袋が口を開くのを待った。待ったが、花袋は何も言わなかった。その代わり、ん、とさも不機嫌そうにしかめっつらで、右手に持っていた布を差し出した。
「なんだこれ」
 布と言うよりは、毛布のような厚手の生地だった。柄はどこかで見たことがある。差し出された布を手に取りもせずに記憶を巡っていると、埒が明かないと思ったのか、彼はそれを乱暴に広げ、だが正反対に壊れ物にでも触れるように、そっと独歩の肩に載せたのだった。
「なんだこれ」
 もう一度同じことを口にすると、花袋はぎゅっと独歩の左手を右手で掴み、門の先へと引っ張って行くのである。
「おい花袋」
「行くんだろう、蛍」
「行くけど、花袋」
「なんだよ」
「そっちじゃない、反対だ」
「早く言えよ!」
 花袋の手は冷たかった。独歩のほうが熱があるので当たり前だ。それでも寒くはないな、と夕闇に暮れる道を指差して独歩は笑った。

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