図書館のある街は有り体に言って田舎だが、田舎なりに催し物もなくはなく、例えば八幡様で月に一度開かれる蚤の市などは、古書骨董からハンドメイドクラフト、手作りのビスケットやケーキ、果てはお好み焼きにかき氷の屋台まで出る、ちょっとしたお祭り騒ぎである。
たまたま会派のメンバーでそこへ繰り出していた独歩は、骨董の店先できらと光を弾くそれに目を盗られて立ち止まった。
「なにかいいものありました?」
後ろから宮沢が顔を出す。ちなみにほかの二名——小林と志賀——は食い気に走ったのかいつの間にかはぐれているが、小さな境内のことだ、どうせすぐに合流できるだろう。
日よけに張られたテントの下には年代物の薪ストーブやら薬箪笥やらといった大物から、木箱に山と入れられた虫食いの漢籍まで、所狭しと並んでいる。独歩が気になったのは、店主の前にそこだけは折りたたみテーブルの上にきちんと並んだ小物の類いで、竹の長煙管と真鍮の懐中時計の間に挟まっている一本のループタイだった。ウズラの卵くらいの大きさの平たい飴色の宝石が、金具で組紐を留めている。
「これは……鼈甲か?」
「うわあ、琥珀ですね」
独歩の疑問に答えたのは、別の客の相手をしている店主ではなく宮沢だった。独歩が手に取ったのを、見せてとせがむので渡してやった。そういえば彼は石に詳しいのだった。高村が彫刻のために形のよい木を探して集めるのが趣味ならば、宮沢は川辺や山で角の取れた丸こいのやら花崗岩の欠片やらを見つけてきては大事に持ち帰ってくるようなところがある。
「うわっ、虫入りだよ、国木田さん。ほら、ここのところ、見てごらんよ」
「どれだ? ああ、確かに、何かある」
石をくるくる回しながら矯めつ眇めつ眺めていた宮沢は、小指の爪の先でその真ん中のところをちょんとついた。ちょっとかがんで独歩もそこを覗き込むと、なるほど、蚊のような羽虫が一匹、気泡と見まごうようなささやかさで紛れ込んでいる。
「虫入りのはとっても珍しいんだよ。その分お値段も……ああ、ほら、ねえ」
裏側についていた値札を見つけて、宮沢はため息をこぼした。確かに、そうしたくなるのもわかるくらいのいい値段がそこには記されていた。
「でも、これはいいものだよ。ボクが言うんだから間違いないよ。国木田さん、買うの?」
■
「で、それがこれだ」
「……買ったのか?」
帰って早速、花袋に見せると、彼はぎょっとしたような顔でまずそんなことを聞くので独歩は呆れるしかない。
「はあ? 買ったからここにあるに決まってるだろう」
「だって宮沢が言ったんだろう、高いって」
「まあ、来月と再来月節約すればどうにかなる」
「ど、どんぶり勘定……っ! そうだよ、お前、そういうやつだったよな……!」
勝手に頭を抱えたり天を仰いだりしている友人に、独歩はだんだんと機嫌が悪くなってくる。
「なんだよ、俺の買い物にケチをつける気か」
「そういうわけじゃない、そういうわけじゃないけどさあ。衝動買いで買う値段じゃないだろうに」
「俺の金を俺がどう使おうが勝手だろ。せっかく見せてやったのに、その言い草はないだろう」
さすがの花袋も、独歩の急降下する機嫌を察したようだ。
「悪い、悪かったって。だからほら、見せてくれよ」
随分あからさまに取り縋るので、独歩は一瞬もう少し言い募ってやろうかとも思ったが、ひとまず溜飲を下げることにする。
ほら、と渡してやれば、彼の手の内側にその虫入りの琥珀はすっぽりと収まってしまう。これが俺らの給料二ヶ月分……などと情緒のないことを呟きながら、花袋は琥珀を撫でたり、宙に翳したりした。
独歩はその様子を、口をへの字にして見ていた。
(誰のせいだと思ってやがる)
それを衝動買いしたのは、まあ別に、全部が全部を花袋のせいにするつもりはないが、やはり一部は彼のせいなのである。
■
この図書館に転生した当初、独歩は眠れぬ夜を過ごすことが多かった。理由はいくつかあって、一つは前世の終わり頃に感じた、睡眠への漠とした恐怖の記憶である。その頃の記憶は曖昧なもので、一日一日に何があったかなどほとんど覚えていやしないのだが、眠りに対するぼんやりとした不安のようなものはまるで洗っても消えないシミのように彼を惑わした。転生などという荒唐無稽な話も相まって、もしや眠って再び目を覚ましたときには、またあの茅ヶ崎のうそ寒いベッドの上にいるのではないかと思うと、どうしても進んで眠ろうとは思えなかった。胡蝶の夢ではないが、妄想と言い切るには現実があまりにも夢のようである。その想像がことに強く襲ってくる夜などに、彼は夜遅くまで本を読むか、あてどなく深夜の館内を散歩した。
その頃に何度か、石川と飲んだことがある。彼も彼で夜更かしのたちだった。食堂の隅っこか、天気のいい日には文豪寮の玄関ポーチか庭先あたりで、彼は誰かの酒を勝手に飲んでいることが多かった。日によってそれは、日本酒だったり、焼酎だったり、ウィスキーだったりした。そういうところに居合わせると、石川は軽く杯を掲げて見せて、お前もやるかい、と誘ってくれた。彼は借金魔ではあるが、ケチではなかった。まあ、どっちみち人の酒なのだが。
「お前も眠れないのか」
そう言うからには、彼も眠れないのだろう。二人とも黙って飲む夜もあった。共通の時代を生きているので、思い出話に花を咲かせることもあった。
「なあ」
あるとき、独歩は聞いてみたことがある。その日は梅雨前にも関わらず真夏みたいな一日で、日が暮れると風が出てきて、夕涼みにはもってこいの夜だった。二人は玄関ポーチの二段しかない階段の上と下にそれぞれ腰掛けて、若山の隠し酒をやっていた。
「置いてかれるってのは、そんなに堪えるもんなのかな」
「……それ、聞く相手間違ってると思うぞ」
石川は杯を干そうとした手を止めて、半眼で独歩のことを見やった。もちろん、独歩とて彼が早世したことは聞いている。だからこそ彼に聞いてみたかったのだ。
独歩は物言いたげな彼に一つ手を振って見せただけで、気にせずに続けた。
「花袋のやつがさあ、俺のことをたまに、なにか眩しいものでも見るような目で見るんだよ。目を眇めて、何かを堪える風に、でも俺が気づいて何か言う前には、何事もなかった風にさ」
それが、不眠のもう一つの原因だった。
花袋が図書館に転生してきたのは、独歩よりよほど前のことだったらしい。随分待ったと、再会の際に彼は涙を流して喜んだ。独歩とてもちろん、昔からの友人、それも親友と認めた男がこの場にいることがどんなに頼もしかっただろう。またあの頃みたいに、存分に文学を語り、自然を語り、恋愛を語れるのかと思えばこれほどうれしいことはなかった。
それなのに、花袋はたまに、独歩の知らない顔をする。あの頃の姿形で、あの頃のようなことを話しながら、目だけがまるで知らない色を湛えて独歩を見る。
「そりゃあ、俺はあいつより先に死んだから、あいつなりに思うところはあったろう。けどな、そんな目で見られたらたまったもんじゃない。俺があいつに何をしたっていうんだ」
「聞いてみればいい」
「聞く前に目をそらされる。聞かれたくないんだろうよ」
一通り聞いた石川は、手の中で空になった杯をしばらくこねくり回していた。切子細工のびいどろの杯だった。黄みの強い飴色のそれを、彼は玄関ポーチにひとつきりの、羽虫の飛び回る電灯に掲げてみせた。
「たぶん、結晶化するんだ。人間は。死ぬと」
酔っ払いの与太話だ、あんまりちゃんと聞いてくれるなよ、と彼はそう前置きした。独歩もはそれを、片耳だけで聞いていた。
「そいつは、腐らないし膿みもしない。蛆も涌かなければ蠅もたからない。一番綺麗なところですっかり固まっちまって、それで誰かのポケットの中で転がっている。ちょうど、そう、琥珀みたいに。……知ってるかよ国木田。琥珀ってのは、中に虫やら葉っぱやらが入ってた方が高値がつくんだってさ。アリンコだって蚊の一匹だって、琥珀の中に閉じ込められちゃあ、それだけでありがたがられるってんだから、楽な商売だ」
杯の影と羽虫の影が一緒くたに重なって地面に落ちているのを、石川はざりりと足で蹴った。
「そんでまあ、ポケットの中のそいつをたまに取り出しては、眺めてみたりもするやつがいるんだろう。こうやって明かりに透かして、それで酒を飲んだりするんだろう。……ああ、俺様にもいるわなあ、そういうやつが」
ふと横目で盗み見た石川の横顔は、甘いのと苦いのを一緒くたに飲み下したような、半分笑って半分しかめ面のような、言葉にし難い表情をしていた。
「アンタはいいのか、それで」
「いいも悪いも、仕方ねえ。それはもう、そいつの持ち物だもの。置いてくってのはそういうもんだ。置いてかれるってのも、そういうもんなんだろう」
その夜が更けても、明くる日になっても、独歩はその話が忘れられない。だから今日も、市で琥珀を見つけてしまったのだ。衝動買いは衝動買いなのだが、ずっと前からそうすることが決まっていたように独歩には思えるのだった。
花袋のせいというのは、回り回って、そういうことだった。
■
部屋に戻ってベッドに体を放り出し、独歩は琥珀をポケットから取り出しみた。いくら眺めても、独歩には特別の感慨はわかなかった。花袋も、別にその琥珀を見て、きれいだなあ、という以上の感想はなかった。——当たり前だ。一体、何を期待していたのか。
独歩の不眠はだんだんに治った。必然的に、夜に漫ろ歩くことも減って、石川との奇妙な飲み会もあれきりなくなった。だが、花袋は今でも時折、独歩のことを眩しそうに眺めることがある。概して独歩の目がよそに向いているうちに、花袋は石川が言うところの、「仕舞い込んだ宝石をたまに取り出して日に透かす」ような目で、独歩のことを眺めるのである。そのたびに花袋が遠くなるような気がした。そのままいつかは、手の届かないところまで離れてしまうような気がした。
だから、同じことをしてみれば、あるいは花袋の感ずるところが多少はわかるのかもしれないと、そんなことでも考えていたのか。
白熱電球の明かりの下で見る琥珀は、日中よりやや色味を濃くしたようだった。まるで花袋の瞳の色だ。煮詰めた蜜の橙色だ。その中心で、何万年の昔からずっと時を止めている虫のことを考える。そこはそんなに居心地がいいものか。俺は百年ちょっとでもう飽き飽きだ。はやくそこから出してくれ。
図らずもそのとき、彼が琥珀を眩しそうに見つめていたことに、どうして気づくことができよう。


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