鎮守の森を守るもの

2,705 文字

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 イタリアが日本の家に遊びにきた。肩には大きなキャンバスをかけ、頭には麦藁帽子を乗せている。玄関口に立ったまま彼は、キャンバスを指差して日本に尋ねた。
「絵を描きたいんだけど、いい場所ないかな?」
「どのような絵を?」
「なんでも!」
 日本は顎に手を当ててしばし悩んだ。なんでも、というのは難しい注文だったが、イタリアに限ってその言葉に裏はない。彼は日本を困らせたくてそう言ったのではなく、本当になんでもよいと思って日本に尋ねているのだ。
 あまり遠くに出掛けるわけにもいくまいから、日本はまず距離の問題を優先して、一つの場所を思いついた。

 イタリアを連れてやってきたのは、近所の神社である。周辺を道路や住宅街に囲まれたその神社は、まるで場違いに、しかし粛々とそこに存在していた。
「わーお」
 イタリアは感嘆の声をあげて鎮守の森を見上げる。みんみんと蝉が鳴いていた。真夏の日差しが木々に遮られているせいか、この場所は意外なほどに涼しい。
 鳥居の手前の石灯籠を、イタリアはそっと触った。その表面を苔が這い、黒く古びて今にも崩れそうなそれを、まるで子供みたいな目で見つめる。同様の色をした鳥居を、その奥の木造の社殿を、イタリアは目を皿のようにしながら観察していた。
「すごいや、日本」
「それは何よりです」
 イタリアは最終的に、社殿を目の前に据えて地べたに座り込んだ。持ってきたキャンバスを広げて、ふと日本を振り返る。
「日本も何か描かない?」
「いえ、私は――」
 やんわりと断ろうとした日本は、ふと考えを変えて、せっかくだから一枚画用紙を貰うことにした。鉛筆も借りる。そうして、イタリアを見習い自分も石灯籠の根元に腰をおろすと、まずは一本、さっと線を走らせる。
 こうやって絵を描くのは久しぶりだなあと、日本は回想した。今まで様々な絵を描いてきたとは思ったが、こうやって地面に尻をついて絵を描いたのなんていつ以来だろう。幼いころに鳥や獣の絵を書いて中国に褒められた、あの頃以来のような気がして、日本は思わずめまいを覚えた。なんて古い記憶だろう。
 利き手と逆をだらりと垂らすと、土の感触にあたった。指先がやわらかい土の表面を摘む。爪の中に砂が入り込む感覚があったが、日本は気にせずに指先で土をこねた。冷たい温度が心地よい。それを鼻元にもっていくと、むっと生々しい臭いがした。久方ぶりに嗅ぐ、土の匂いだった。
 向こうで絵を描くイタリアの背中が見えた。蝉の鳴き声に紛れて、ふんふんと小さな鼻歌。湿った風が吹いて、木々が地面に落とす陰が形を変えた。隙間から陽光が差し、まばゆい白が一瞬だけ鳥居を照らした。
 日本は大きく息を吐いた。鉛筆を持つ右手が、ゆっくりと動き出した。

 きゃあきゃあと子供がはしゃぐ声がして、イタリアは我に返った。周りの音も耳に届かないくらい集中していたみたいだった。六歳くらいの男の子がイタリアの後ろからキャンバスを覗き込んでいる。
「なに描いてるのー? うわ、お兄ちゃん、上手だね!」
 その子の歓声に引かれるように、周りで散り散りに遊んでいた何人かが一斉に駆け寄ってくる。
 イタリアの手元には、鉛筆画ではあるが風景をそのまま写し取ったような丁寧な絵が出来上がっていて、子供たちは次々にそれを見て声をあげた。イタリアは少し照れて、こそこそと鼻の頭を掻く。
 そう言えば日本はどうしただろうと後ろを振り返ると、少し離れたところでゆるゆると手を動かしている姿が見つかった。
「日本、できた?」
「さて、どうでしょうか」
 日本はあいまいな答えを返す。すぐそばまで寄って画用紙を覗き込むと、そこには古ぼけた鳥居の絵があった。ぼこぼこと粗いタッチではあったが、どこか神聖な空気が漂う絵だった。やっぱり日本は絵がうまい。イタリアとは別の種類の絵ではあるけれど、そういった境界を超えた巧さがある。
 ふと、絵の中の鳥居の周りに、あるものを見つけてイタリアは首をかしげた。何度か日本の絵と実際の鳥居を見比べて、現実の鳥居には何もないことを確かめてからイタリアは、日本の絵を指で辿ってゆく。
 鳥居の右の根元に、大きな狐がいた。尻尾が何本も生えていて、目が恐ろしく細長い。左の根元では猫が二三匹戯れている。こちらも尻尾に不思議な特徴があった。極めつけは鳥居のてっぺんにいる一人の子供。日本の古い衣装を着て、下駄を履いた足をぶらぶら揺らしながらじっとこちらを見ている。
 イタリアが辿った後を目で追っていた日本が、くすりと笑う気配がした。いつもと変わらない日本の笑みだというのに、なにか違和感を感じてしまう。まさか、いつもと同じ日本だ。自分の考えをイタリアは慌てて否定した。
「何か見えるの?」
「イタリアくんには見えませんか」
「うーん」
 もう一度絵と実物を見比べたけれど、やはりそこには何もいない。
「さて、もうそろそろ帰りましょうか」
 日本が空を仰いだことで、いつのまにか夕暮れが迫っていることに気がついた。さっさと先を行く日本の後を追おうとして、背後でカランと鳴った乾いた音にイタリアは足を止める。
「?」
 振り返ってみるが、そこには何もない。確かに、何か木片のようなものが落ちる音がしたのだけれど。
 そこでイタリアはもう一つの異変に気がついた。自分の周りで遊んでいたはずの子供たちの姿がどこにもないのだ。イタリアの絵を見て驚いていた、あの子供たちの姿が。何時の間にいなくなったのかさっぱり覚えがない。そもそも、あの子たちが何時の間にいたのかの記憶もなかった。
 蝉が鳴く。みんみんと、何重にも重なって蝉が、鳴く。背筋に冷たいものが走った気がして、イタリアは駆け足で日本の元まで走った。
「日本っ!」
「どうしたんですか、そんなに急いで」
 木々が隠していた日差しが二人をかんかんに照らした。日暮れだというのにさっぱり涼しくならない、日本の夏の日差しである。置いていきやしませんよ、と日本が笑った。なんということはない、普通の笑みだった。
 騒がしいまでの蝉の声が、道路を走る車の音と取って代わっている。
「日本、あの絵……」
「はい?」
 日本が手に持っていた絵を見せる。そのどこにも獣や子供の姿は描かれていなくて、それはただの鳥居の絵だった。イタリアは泣きそうな顔をしてその場に立ち尽くした。
「帰りましょう」
 日本が優しく声をかけるのにも気づかずに、イタリアはただ、自分たちがさっきまでいたはずの空間を見つめた。
 鎮守の森が、場違いな静寂を保って佇んでいる。

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