今日もまた一睡もできなかった。
カーテン越しに昇る朝日が瞼の裏を明るく染める。その後もまだ諦め悪く目を閉じベッドに横になっていたが、睡魔は一向に訪れる気配がない。暗いうちでも眠れなかったのだから、明るくなってはなおさら眠れるはずもないのに、無駄な努力をしている自覚はあった。しかし、かといって体を起こすだけの気力もないのである。
このまま呼吸を止めてしまいたい。あるいは植物のように、眠らない生き物になりたい。睡眠などという概念があるのがいけない。朝も夜もない世界に生まれ直したい。からくり人形のように螺子を回して動く体になりたい。
益体もないことを考えて時間を潰す。時計の針の音が嫌に耳に付く。時計など部屋に置くものではない。しかし、時計がなければ時間が分からない。時間が分からないと、《彼》がいつ部屋に来るかが分からない。
億劫だが目を開ける。机の上の置き時計に視線をやって——ああ。嘆息する。時計の針はもうすぐ九時を回ろうとしていた。秋が深まるにつれ、夜明けはどんどん遅くなっている。夜が長いのは良いことだが、定時法の普及した現代では夜明けが早かろうが遅かろうが、朝九時は朝九時のままである。夜が長くなればなるだけ朝が遅くなった頃とは違う。
現実逃避のために、もう一度目を閉じた、その時だった。
「四迷さん、起きてる? 四迷さーん」
気忙しいノックの音と共に、若々しい声がドアの向こうから名を呼んでいる。こうなってはもうおしまいだ。質問の体をとりながらも、声の主は四迷が起きているかどうかを知りたい訳ではない。起きていないなら起こしたくて声を掛けているのである。一度狸寝入りで返事をしなかったところ、五分も十分もえんえんと扉を叩き続けた、それ以来四迷は彼に対して二度と寝たふりはすまいと決めている。
冬眠明けの熊のようにのっそりとベッドから起き上がって、素足にスリッパをつっかけ、数歩も行かないうちに扉に突き当たる。簡易錠を回して把手を引き、半分だけ開けて、廊下に顔を出す。目の前で赤い髪がさらり、と揺れる。
「あ、起きてた」
「起きている」
正確には、寝ていない。が、そんなことまでは口にしない。寝起きはいつもより五割増しで目つきが悪いと美妙などには言われるが、彼、国木田独歩はまるで気にした様子がない。
「おはよう、四迷さん。朝飯、今日はアンタの好きな洋食だぞ。はやく行かないと食いっぱぐれるぜ」
「……わかった」
「おう、じゃあな」
たったそれだけの会話で満足して、未練なく背を向ける。その後ろ姿を扉の隙間から見送って、釈然としない面持ちで、ゆっくりと扉を閉めた。
こうして、国木田は毎朝、なんだかんだと理由を付けて四迷の部屋の扉を叩く。ある日は昨日読んだ本が面白かったから。ある日は庭に見かけない猫が来ていたので。またある日は、午後からの散策の約束を取り付けに。様々の理由を付けて、ここ一月近く、ほぼ毎日、朝の訪問が続いている。例外は、四迷が潜書で傷を負って補修室泊になった一日だけだ。
国木田の意図を確認したことは、今のところまだ、ない。
そもそも何がきっかけで、突然毎朝扉を叩くようになったのかもわからない。この図書館に転生してしばらく経つが、今までは知り合い以上友人未満の、当たり障りない付き合いをしてきただけというのに。
四迷の朝の遅さを気にして、というのなら今更である。転生以来、というより、転生以前から不眠に悩まされ続けていたのだ、一度死んだくらいで治るものではない。最近はこうして強制的に起こされるから、逍遙や美妙といった昔馴染みにはかえって驚かれるくらいである。
もちろん、彼が部屋替えをして、突然近くに引っ越してきた、という話も聞かない。これだけ文豪が転生していると寮も複数棟に分かれており、詳しい場所は覚えていないが、比較的最初の頃に転生した国木田の私室はこことは棟自体が違ったはずだ。
扉に肩を預けて思案する。理由の分からないことは苦手だった。予想がつかないからである。例えば、ここ一ヶ月のモーニングコール代として、突然金品を要求されるのかもしれない。あるいは、司書からの言いつけで、ただ義務的に毎朝四迷を起こしにきているのかもしれない。またあるいは、友人たちとの罰ゲームの一環で、一月経った瞬間にもう来なくなるのかもしれない。
思わぬ方向に転ぶかもしれないし、転ばないかもしれない。それすらわからない。国木田の奇行はいまや、四迷の眠りを妨げる要因の一つである。
それなら、こんな風に悩まずに、さっさと国木田を掴まえて理由の一つも聞き出せば良かったのだが、機を逃してずるずるとここまで来てしまった。こうなると、今更聞くに聞けないものなのである。
おかしな習慣が付いてしまった。規則正しい生活、という意味では歓迎するべき習慣である。しかし、睡眠不足は全く改善していないのだから、これが健康に良いかと言われると疑問が残る。
もう一度ベッドに横たわるわけにもいかず、四迷はとうとう諦めて、のそのそと着替えを始めた。
迷惑なはずの国木田のモーニング・コールを、なぜ止めようとしないのか。その理由についても、思いつかないまま。


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