真鍮の輪

16,914 文字

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 野営地に戻ると、すでに食事の準備が始まっていた。薄暮の中、従騎士たちがせわしなく行き交っている。薪を拾う者、火をつける者、薄焼きパンを焼く者、スープを作る者——。
 従騎士は騎士見習いであると同時に、騎士たちの身の回りの世話も仕事のうちだ。宿舎においては洗濯や掃除の合間に稽古や勉学の時間があるが、遠征任務の場合は、随伴はするが野営地にとどまり、討伐や戦闘から帰ってきた騎士を労う。
 ほんの少し前まで従騎士だったカインは、その光景を感慨深く見つめた。つい先日の春の叙勲において、史上最年少で正式な騎士に任命されたばかりである。だから今回が騎士として、初めての遠征任務だった。任務自体は無事に終わったが、やはりどこか気が張っていたらしい。野営地に灯された火を見た瞬間、ふと肩の力が抜けるのがわかった。帰りを待っていてくれる人がいるというのは、これほどまでに安心することなのか。あの頃には分からなかった仕事の意味を、今になって実感する。覚めやらぬ興奮と心地よい疲労の中で、カインは従騎士であった頃の自分と、騎士になった自分の両方を、改めて誇らしく思った。
「あ、カイン! 戻ってたのか!」
 馬を引き連れたままぼんやりと感慨に浸っていたカインは、その声で我に返る。従騎士の仲間のフリッツが、手に鍋を持ってやってくるところだった。カインと同い年で、入団も同期の彼は、カインよりも明るい色の赤毛に青い目をしている。鼻頭に散ったそばかすが、彼を年齢よりも幼げに見せていた。
 駆け寄ってきた馴染みの顔に、カインも安心する。体の大きな騎士たちに混じって働くのは何でもないことだと思っていたが、やはり同年代、同じくらいの体格の相手の方が、視線が近い分落ち着くものだ。
「フリッツ! ただいま」
「お帰り! 初任務、どうだった?」
「無事終わったよ。怪我人もいない」
「おー、よかった。お前も無事で何より……って、当たり前か、新入りだし。一番に帰ってきたくらいだもんな」
「あ、いや……」
 フリッツと話しているうちに、大切なことを思い出した。
 カインが本隊に先行して帰ってきたのは、まさに全員が無事で怪我人もないことを、待機している医療班に知らせるためだった。そのために、身軽なカインが伝令役として馬を走らせて、一番に野営地に戻ってきたのだ。
 考え事をしている間に、随分時間を無駄にしてしまったらしい。続く道の向こうから、徐々に馬のいななきが近づいてくる。本隊が戻ってこようとしているのだ。
 カインが自分の役目を思い出すと同時、フリッツも蹄の音を聞いたようだ。あちゃあ、と焦りの色をその幼い顔に乗せた。
「なあ、ちょっと手伝ってくれよ。手が足りないんだ」
「えっと、でも、実は俺もやることがあって」
 医療班のテントはどこだろう。今回の任務は魔法生物の駆除で、怪我人が出てもおかしくない任務だった。彼らは今も、いつでもすぐ治療に当たれるようにテントの中で待機しているはずだ。きょろきょろと辺りを見回すが、カインの目にはどのテントも同じようにしか映らない。
 そんなカインの気など知らず、フリッツはしきりとカインの裾を引っ張ってせがんだ。実家では五人兄弟の一番下だというフリッツは、こういう仕草が板についている。
「ええー、頼むよカイン。飯がまだ全然できてないんだ。いつものぶっ込んで煮るやつでいいからさあ、手伝ってくれよお」
「わかった、わかったから引っ張らないでくれ! 俺の用事はすぐ終わるからさ、その後ちゃんと——」
 カインが言い終わるか終わらないか。
 二人の上にぬっと陰が落ちたのは、そのときだ。
「小僧。お使いの一つもできないのか」
 頭上のずっと高いところから落とされた声に、少年たちは身をすくめて振り返る。そこには、黒い馬に騎乗した騎士団長ニコラスが、夕闇の中でも分かるほど冷たい眼差しで立っていた。
「げっ」
「団長!」
 カインは露骨に嫌な顔をし、フリッツは畏まって頭を下げる。対照的な二人の様子を意に介さず、颯爽と馬から飛び降りたニコラスは、二人の立っていたすぐ脇のテントの入り口をめくった。そこは入り口から一番近いテントでもあった。
「怪我人はなしだ。休んでいい」
 中から「了解」と明朗な声が返る。
 よく見ずとも、そのテントには赤い十字のマークが付いていた。どういうわけか、その十字の印をカインは見落としていたらしい。
「医療テントは野営地の一番入り口に設営すると習わなかったか?」
「う……。習った……ような、気もしなくは……ないような……」
 戻ってきたニコラスはカインを一瞥すると、それ以上何を言うでもなく、黙ってフリッツに自分の馬の手綱を差し出した。畏まりきっていたフリッツは、慌てて手綱を受け取ろうとして、鍋を抱えていたのを思い出し、手を上げたり下げたり忙しい。
「馬なら俺が」
 その様子を見かねたカインが、横から声をかけた。どうせ自分の馬も繋ぎに行かねばならないのだ。今ので自分の仕事は片付いてしまったが、フリッツはまだ他に仕事が残っている。早く持ち場に戻りたいだろう。
 そう思ったのだが、ニコラスは頷かなかった。
「いつまでも従騎士のつもりか? それなら騎士位は陛下にお返ししろ」
「そんな言い方は——」
「いいから、馬はそいつに預けて、お前は私とともに来い」
 カインの言葉は再び途中で遮られた。
 文句を重ねようとしても、野営地の入り口は続々と帰還する本隊の騎士たちでごった返している。カインが何か言うよりも先に、ニコラスは馬を置いて、人混みを避けるように野営地から離れていってしまう。一体どこへ?
 戸惑って立ちすくむカインの手から、ふと手綱が奪われた。
 いつの間にやら鍋をどこかへ置いたフリッツが、ニコラスの馬を引いていくところだった。
「……早く行けよ」
「うん……そうだな」
 去り際、フリッツに促されて、カインはようやくニコラスの背を追いかけることにした。
「悪いな、フリッツ」
 振り返って声をかけたが、その姿は騎士とその騎馬の陰に紛れて、もう見えなかった。

 ◇

 ニコラスには、街道沿いで追いついた。
「なあ、どこ行くんだ?」
「……敬語」
「どこへ行くんですか?」
「……」
 敬語で言い直したのに、答えはない。ちぇっといじけた気持ちで、カインはおとなしくニコラスの後をついて行く。
 騎士団長ニコラスは、カインにとってよくわからない人だった。いや、カインにしてみれば、騎士団長というだけで憧れの対象であり、剣の腕も、騎士団をとりまとめる手腕も一流、さらに王家からの信も篤いとなれば、嫌いになる理由など一つもない。できる限り教えを受けたいし、強さの秘訣を盗みたいし、いつかはあんな風になりたいと素直に思う相手だ。
 だが、ニコラスのほうは、そんなカインをよく思っていないらしい。いつもカインのことを苦々しい顔で見ているし、何を言ってもまともに取り合ってくれない。どうやら嫌われているらしいと思い至ったが、しかしその理由が分からない。確かに敬語は忘れてしまいがちだが、それだけが理由とは思えない。なにか悪さをした覚えもない。
 そもそも、正騎士と認められてからまだ日が浅いカインは、ニコラスと知り合ったのだってこの数ヶ月のことなのだ。騎士団長と一従騎士の間には純然たる壁がある。先程のフリッツのように畏まるのは何もおかしなことではなかった。正騎士に叙勲されるまでは、おそらくカインが一方的にニコラスのことを知っていたに過ぎない。
 憧れていた人に嫌われるのは悲しい。でも、理由もないのに引き下がるのはカインの流儀に反する。だから、少しでもニコラスのことを理解しようと、こうして一生懸命話しかけているのだが、一向に距離が近づいた気がしない。やり方が何か間違っているのだとして、何がどう間違っているのかわからない。
 よくわからない——どうしていいか、よくわからない人、というのが、正確なところかもしれない。
 そんなことを考えていると、前をゆく騎士服の黒が、いよいよ深くなる夕闇に紛れようとする。時間にしたら、野営地を出て五分か、十分ほど歩いただろうか。道の先に、明かりが見えた。
 今回の作戦の前に地図を見せられていたカインには、それが何の明かりかすぐに思い当たった。
「村?」
「そうだ」
 ニコラスから、今日初めて肯定的な言葉が返る。気をよくしたカインは続けて話しかけた。
「今回の討伐の依頼主なんだよな……ですよね。閉鎖されたはずの近くの鉱山から奇妙な声が聞こえるって。被害が出る前でよかった……ですね」
「……」
 ニコラスはたどたどしい敬語で話すカインを、胡乱な目で振り返った。カインにしたら、また怒られないようにと気を遣ったつもりだったのだが、あまり効果はないようだ。
 大きなため息を一つついたニコラスは、
「お前は、もうしゃべるな」
と忠告のようにひとつ言葉をくれたきり、もう振り向きもしない。ニコラスの見ていないところで、カインもこっそりとため息をついた。
 ようやくたどり着いた村は、一目見て分かるほど、ごく小さな村だった。人口は百は超えても二百には届きそうもない。家の数もまばらだが、明かりの数は片手で数えるほどしかなかった。ほとんどが農業を生業としているのだろう。日の出とともに仕事を始める彼らは、日が暮れるとともに寝床に入る。だから今の時間、村に明かりの数は少ない。ニコラスが馬を置いてきたのも、もしかしたら休んでいる村人たちをいたずらに騒がせないためなのかもしれない。
 薄闇の中、ニコラスは迷うことなく、明かりのついた家の一つへと向かう。他の家より一回り立派な家は、この村の長のものだろうか。据え付けられたノッカーで素早く三回、ノックをすると、すぐに扉が開いた。現れたのは初老の男性だり
「はい、どなたかね……ああ、ああ、これは」
 ニコラスの顔を見た男性は、すぐに相好を崩して扉を大きく開けた。顔見知りらしい。中へ、と言いたいのだろう。ニコラスはそれを片手で押しとどめる。この場で用事を済ませたいようだ。
「村長。依頼の件、先ほど片がついた。詳しい報告は後日させてもらうが」
「本当ですか。ああ、なんて素晴らしい。本当に、大変喜ばしい。これで儂も一安心です。何百年も昔に閉鎖された鉱山とはいえ、野草やきのこをとりに山へ入る若者もいますから、心配しておったところです。そうと分かっていれば歓迎の支度をしたところですが、見ての通り、我が村は夜が早いものでして。いやいや、今からでも何か」
「いや、結構」
 村長は話し好きらしい。黙って聞いていればいつまでも話し続けそうなところを、ニコラスが失礼にならない程度に遮った。
「今晩は用件だけ。あなたは城へ調査依頼をしに来た時に『人にも作物にも被害はない』と言っていたが」
「ええ、そうですとも。山に入った若者が恐ろしい声を聞いただけで、逃げ帰ってきました。なにせ閉鎖された鉱山です。村でも決して立ち入ってはならないと定めている場所です」
「彼奴等の巣で、こんなものを見つけた。見覚えはないか」
 そう言ってニコラスが懐から取り出したのは、色褪せた古いリボンだった。いつの間にそんなものを。カインも初めて見るものだった。煤と埃に塗れて元の色は判然としないが、繊細なレースの飾りが辛うじて見て取れる。
「これは……」
 村長の目の色が変わった。
 差し出されたリボンを、枯れ枝のような両手が怖々と受け取る。今までの明朗な声が嘘のように、喉に詰まったような声で、村長が誰かの名前をつぶやいた。女性の名前のように聞こえた。
「見覚えがあるか」
「孫の……十年も前に行方の分からなくなった、孫娘のものに、違いありません……」
 急に言葉少なになった村長は、すがるようにニコラスを見た。
「これは……つまり……」
「最近になって繁殖したらしいが、小さいのに混じって体の大きな個体が一体いた。あれは十年以上生きているだろう」
「そんな……そんな、ああ……」
 震える声からは村長の無念が伝わってきた。カインにはどうすることもできないことだ。
 今回の件の調査依頼は、ほんの数ヶ月前に入ったものだった。カインが騎士に任命された直後だったから、よく覚えている。初めに少人数の斥候隊が調査に向かった。その結果、至急討伐が必要との判断で、今回の遠征が組まれることになったのだ。数多の依頼が舞い込む中央の騎士団にしたら、かなりのスピード感だ。
 だから村長はこの無念を誰かに押しつけることができない。たまたま若者が山へ入って、たまたま奇妙な鳴き声を聞いた。それがなければ、今も廃鉱の魔法生物は退治されないままで、行方不明者が出たとしても、理由も分からないままだったかもしれない。現に、十年前にいなくなった村長の孫娘は、行方不明のまま、今まで生死も分からなかった。
 素直に喜べる結末ではなかったにしろ、知らないままがよかったとも言えない。カインは複雑な心境で、嗚咽を堪えるような村長の声を聞いていた。
 と、玄関口を塞ぐように立っていたニコラスが、急にカインの前に道を空けた。
 背の低い村長には、今までいると思っていなかったもう一人が、突如現れたように見えただろう。仕方ない。ニコラスはカインを連れてくるだけ連れてきて、カインを紹介もしていなかった。
 ニコラスの手がカインの背中に周り、強引に前へと押し出される。
「騎士カイン」
「はいっ?」
 呼ばれたと思って、反射的に返事をした。だがニコラスはカインを見ていない。視線の先を確かめるようにニコラスを見上げる。前を向く彼の表情は読めなかった。
「これが、あなたの孫娘の仇を討った。今日はそれだけ伝えに来たのだ」
「彼が……」
 カインは戸惑った。
 確かにそうだ。カインは今日、魔法生物の中で一際大きな個体を倒した。小さいのは数が多く、騎士たちはその対処で手一杯で、逆に体が大きなそいつは誰もが手を出しあぐねて手薄になっていた。誰も相対しようとしないから、ならばとカインが切り込んだのだ。新米らしく無茶なことはするなと重々言い含められていて、かなり後方に配置されていたおかげで、カインには他の団員よりも全体の状況がよく見えた。だからこそ、完全にノーマークになっていたそいつを、誰かが仕留めないといけないのがわかった。
 呼び止める声が後ろから聞こえた。後から考えると、それは指揮を執っていたニコラスのものだったに違いない。でも、それはカインを止める理由にはならなかった。体の大きなそいつは、他の騎士たちの動きに気をとられて小柄なカインの接近には気づいていないようだった。今ならチャンスがある。逆に、今やらなければ誰かがやられる。天性の嗅覚で、カインはその可能性を嗅ぎ分けた。
 死角から音もなく肉薄する。飛び上がる。でかぶつが気づいたときには、カインはもう目と鼻の先まで迫っていた。一閃。両目を的確にえぐられたそいつは、がむしゃらに肢体を振るったが、もう遅い。カインは悠々と、そいつの急所に剣を突き立てた。断末魔の雄叫びが上がる頃には、カインは返り血を避けるほどの余裕があった。
 確かに、そういった経緯は、あることにはあった。
「騎士カイン……あなたが」
「いや、俺は、別に」
 だが、熱烈な視線を村長から向けられることにはたじろいでしまう。
 カインがやらなくても、いずれ誰かが倒しただろう。討伐という意味では、騎士たち全員の手柄だった。それに、カインには誰かの仇討ちという意識は微塵もなかった。危険な魔法生物を駆除する任務。それ以上でもそれ以下でもない。あの場で魔法生物だけに気を取られず、広い視野を持ち、古びたリボンを見つけて持ち帰った、ニコラスのほうがよほど感謝されてしかるべきだ。
 村長の皺くちゃの手が、今度はカインの両手に添えられた。驚いて引き下がろうにも、後ろはニコラスに塞がれていて逃げようがない。
「ええ……?」
 カインは戸惑うことしかできなかった。
 どうしてニコラスがカインを連れてきたのか分からない。
 討伐の前にも後にも、無茶をするな勝手をするな、独断専行をするな、と散々言い聞かせられた。結果、カインのしたことは無茶で勝手で、独断専行だった。だとしたらはこれは罰なのだろうか。それとも褒美か。
 目を付けられている自覚はあっても、目を掛けられる謂われはない。
 その意図を知りたくて顔色をうかがっても、ニコラスは相変わらず、微笑みもしなければ眉根を寄せることもしていない。完全なる無表情のように、カインには見えた。
「に、ニコラス——」
「素晴らしい!」
 言葉を失っていた村長が、急に大声を出したので、思わず助けを求めたカインの声はかき消される。聞こえたとして、果たしてまともな助けが得られたとは思えないから、それでよかったのかもしれない。
「このような未来有望な方が騎士団にいらっしゃる。なんて素晴らしいことでしょうか! ああ、やはり、きちんとお礼をさせていただかないと! こんなところで立ち話で済ませるわけにはいきません。あなた方は我が村の救世主なのですから! さあさあ、中へお入りください!」
 村長はすっかり元の調子を取り戻し、しきりとニコラスとカインを誘った。
「えーと……?」
「申し訳ないが、これはまだ子供なので」
 言い淀むカインの代わりに、すかさずニコラスが断った。するり、とごく自然に、カインの両手が解放される。村長は離された手を一瞬残念そうな顔で見たが、すぐに気を取り直した。
「仕方がありませんな。では、ニコラス様の分の御支度だけでも、すぐにさせましょう」
「いや、私も残務が——」
「ニコラス様は、子供ではいらっしゃいませんな?」
 今度ばかりは村長の方が上手だった。こう強く言い切られては、さすがのニコラスも苦笑するしかない。
「それではありがたく招かれるとしよう」

 ◇

 帰り道はすっかり暗い。街道の踏みならされた土の上を、荷車にくくりつけられたカンテラの明かりがゆらゆらと照らしている。
 荷車を引くのは村長の家の使用人で、後ろから押しているのがカインだ。
 帰り際、村長が「手土産を持って帰りなさい」というので、言われたとおりに待っていると、屋敷の奥から荷車がごとごとやってきた。荷台にはカインがすっぽり入れそうな酒樽が三本も載っている。引いてきたのが村長とそう年のかわらないご老人だったので、何事かと驚く暇もなく、カインは助けに走らねばならなかった。
「こんなにもらっちゃってよかったのか? 村のお祭りで飲むやつだったりしないか?」
「なあに、全部村長の個人的な買い物だから気にすることはないわい。ああ見えてあの人、昔は一晩に一樽開けたものじゃ」
 持ち前の人当たりの良さで老人とすぐに打ち解けたカインは、荷車を押しつつ会話する。この人もまた村長と同じくらい話し好きだ。村を出てから会話は途切れることなく続いた。
「今夜も団長さんの話を肴に浴びるほど飲むだろな。それが分かってたから団長さんも、坊主のこと逃がしたんじゃないかい?」
「坊主はやめてくれよ。もう十六だ」
 苦笑気味に訂正すると、老人はほほう!と驚きを声に出す。
「ほう、十六。十六で騎士団員か。そりゃ団長さんが目を掛けるわけだな」
「目を掛ける? 目を付けるの間違いだろ?」
 いやいや、とカインは肩をすくめた。
 だって、今日もずっと叱られてばっかりだった。何を言ってもまともに取り合ってくれないし、俺の意見は無視するし、ちゃんと教えてくれない。名前だってまともに呼ばれたことがない。小僧とか、ガキとか、そんなんばっかりで。
 一度こぼれ始めた愚痴は止まらない。老人が黙って聞いてくれているのをいいことに、カインは今日一日の鬱憤をぶちまけるように喋った。たまたま知り合っただけの他人という距離感がちょうどよかった。加えて、あたりが真っ暗なのもよかった。すねた顔を相手に見られずに済む。
「だからあの人が俺を帰した理由だって、そんないいもんじゃないよ。そもそも、なんで俺を村まで連れてきたのかもわからないもの」
 それきり黙ったカインの耳に、くつくつと笑い声が聞こえてきた。
「なんで笑ってるんだ?」
「だって、坊主、そりゃあ」
「だから坊主はやめてって」
 ほっほ、と今度こそ、大きな笑い声が上がった。
「それがわからないのは、やっぱりお前さんが子供で、団長さんが大人だってことさ」
「……じいさんはわかるってのか?」
「そりゃ儂は大人だからの」
 むっとしたカインは、勢いを付けて後ろから思いっきり荷車を押し込んだ。
 ごとごと、ごとごと、大きな音で車輪が回る。
「おお、勝手に進むぞ。こりゃ楽だ! 仕事が早く終わってよろしい!」
 老人の言葉を聞くうちに、早く帰りたいという気持ちが強くなる。体を動かしたせいで、空腹も増してきた。
「今頃、ニコラス、うまいもん、食ってるんだろう、なっ、と」
「そんなことはないぞ。村長も儂も連れ合いに先立たれたからのう、基本ぶっ込んで煮るだけの男の料理じゃ」
「ぶっ込んで煮る? ……あ!」

 野営地に帰り着いたカインは、すぐにフリッツを探した。
 すっかり遅くなってしまった。料理の手伝いどころか、馬の世話まで押しつけられて、きっと怒っているに違いない。
 たき火や松明に照らされて、すれ違うどの髪もいつもと違う色に見える。その中でも一際明るい髪を見つけると、カインは親しげに駆け寄った。フリッツは石を組んで作った急ごしらえの竈で、鍋の中身をかき回しているところだった。
「フリッツごめん、遅くなったな!」
 ぱしん、と手で背を叩く。すぐにでも、痛いな!と文句が上がるかと思ったのに、フリッツは振り向かない。黙ってぐるぐると鍋をかき回し続ける。
「フリッツ?」
 カインが顔をのぞき込むようにすると、ようやくフリッツの視線があがる。そこには、カインが期待していたような膨れ面も、笑顔もなかった。
「騎士カイン。何かご用ですか」
「え? いや、料理を手伝おうかと……」
「支度が遅れて申し訳ありません。もうすぐできますから、お待ちください」
「はは、なんだよフリッツ。怒ってんのか?」
 たちの悪い拗ね方だ。フリッツは甘え上手だが、あまりこういう拗ね方はしない。もう!と文句を言ってすぐに許してくれる。だから今回はよほど機嫌を損ねてしまったらしい。どうにか取りなそうと、カインは彼の肩に手を回そうとした。スキンシップはいつだって有効な手段だ。
 そのはずだった。
 カインが伸ばした手は、音を立ててはたき落とされる。
「え……?」
「英雄カイン。みんなお前の話で持ちきりだ。魔法生物の親玉を倒したんだってな」
 聞いたこともない、低い声だった。カインは払われた手からフリッツへと視線を移す。彼の青い瞳は炎に照らされて、全く違う色をしているように見えた。
 彼の表情が変わる。つまらないものを笑うような顔。カインにはその表情の意味がわからない。どうして笑われるのか、その理由が分からない。
「お前はもう従騎士じゃない。俺らにかまってる暇なんてないだろ」
「フリッツ」
「あっちへいけ。話しかけてくるな」
 それでも、わかることはあった。
 あの瞳は、拒絶の色だ。

 ◇

 カインが留守にしていた間に、討伐の一部始終が全体に知れ渡ったらしい。といっても、討伐に参加した正騎士たちには、帰りの道中ですでに散々もてはやされた後だというのに。彼らは何度も同じ話題で盛り上がっている。
「あの度胸、あの判断、あの身のこなし! とても新人とは思えねえなあ!」
「ぼやぼやしてるとそのうちに蹴落とされるぜ」
「身の丈三倍のでかぶつにだぞ」
「いやいや、俺たちにしてみたら二倍ちょっとだ!」
 がはは、と大声があがるのは主に正騎士たちの集まりだ。従騎士たちはそれを遠巻きに見つめている。宿舎でも遠征先でも、食事時には正騎士と従騎士で別れて集まることが多い。決まりというわけではないが、どうしてもそうなりがちなのは仕方のないことだ。
「でかぶつを倒しただけでなく、酒樽まで獲ってきた! とんでもないやつだ!」
「英雄カイン!」
「そうだ英雄だ!」
「英雄カインに乾杯!」
「乾杯!!」
 木製のジョッキがぶつかり合う。団長の不在に加え、思いがけず酒が振る舞われたことで、熱気は上がる一方だ。
 そんな中、カインは空元気で笑っていた。
 半分は酒樽の手柄だとしても、英雄とたたえられて景気の悪い顔をしているわけにはいかない。一人になりたい気分だったが、こうして皆で明るいところにいた方が気が紛れていいと無理矢理思い込もうとする。だが、うまくいったかはわからない。
 右や左から小突かれて、スープの入った椀が揺れる。中身がこぼれないように死守しつつ、なんとか食事を続けている有様だった。トマトと干し肉の煮込み料理。不格好な芋がゴロゴロ入っている。フリッツが切ったのかもしれないと思うと、なぜか喉を通らなくなって、一瞬食事の手が止まってしまう。
 その一瞬を見咎められた、とカインは思った。実際はただの絡み酒だったが。
「なんだ新人! 元気がないな?」
「いや、そんなことはない! 元気だよ」
「元気がないときは、これを飲むといい」
 答えなど関係ないとばかり、ぐい、と突き出されるジョッキ。鼻を刺すアルコール臭。なみなみと注がれたそれから、カインは顔をのけぞらせた。
「俺は、酒はちょっと」
「嫌いか?」
「いや、飲んだことがないんだ」
 言うと、相手は大げさなほど驚いて見せた。
「こんなうまいものを飲んだことがないなんて!」
 その様子を見て、他の連中も再びカインの周りに集まってくる。
「なんだなんだ、どうした?」
「こいつ、まだ酒を飲んだことがないらしい」
「そりゃあ大変だ! 人生の半分を損しているも同然だ」
「半分? 全部じゃないのか?」
「もう半分は女だ」
「ああ、じゃあ半分だな! 半分の損失だ!」
 好き勝手なことを言う騎士たちの話を、カインもまともに聞いていたわけではない。だが、いつもはもう少し節度があって、もう少し真面目な顔をしている彼らがここまで陽気になるのだから、酒というのは不思議な飲み物だ。故郷の栄光の街でも、祭りのたびに大人たちは酒を飲んで、歌い、踊った。そんな様子を見て、自分も飲んでみたいとねだったことがある。
『お前はまだ子供だから』
 そのときは、そう両親に止められたのだったか。
 ——申し訳ないが、これはまだ子供なので。
 両親の声に、ニコラスの声が重なった。思い出して、カインの口がへの字に曲がる。
「……飲む」
「お?」
「やっぱり俺も飲む!」
 顔の前から遠ざけられようとしたジョッキを慌てて摑む。たぷり、揺れた中身がわずかにこぼれた。カインはその水面をじっと見つめた後、思い切りよく、ぐいと煽る。
「おおー! さすが英雄!」
「いい飲みっぷりだ!」
「あんなちびに酒を飲ませてよかったのか?」
「ちびはちびでも正騎士だ、騎士に酒を飲むなという掟はないさ」
「それもそうか」
 周囲から無責任な歓声が上がり、俄に場が盛り上がる中、カインは人知れず目を白黒させていた。
(にがっ!? あま……? か、からい……?)
飲んだ瞬間感じた苦みは、舌の上で甘さに変わる。飲み下した瞬間喉の奥からかっと湧き上がる熱。口を離すタイミングを逃して、二口三口、ジョッキの半分ほどを干してしまって、ようやくぷは、と顔を上げる。くらりと揺れる視界。目に映るたき火の炎が急に大きくなった気がした。
「今夜は宴だ!」
 誰かが言った。
 ここに来て団長の不在が騎士たちの箍を外していた。今回の討伐自体、騎士団の全員が参加したものではないため、副官も随行していない。ブレーキ役となるような存在が誰もいない状況で、一度外れた箍は容易には戻らない。
「誰か踊らないか!」
「音楽は?」
「さすがに楽器は持ってきていないぞ!」
「歌でいい、歌で!」
 ええ、とか、わはは、とか、囁き声や笑い声、怒鳴り声がカインの頭の中で反響した。その真ん中に炎がある。ぱちぱちと燃えてはじけている。何か考えなければいけないことがあった気がするのだが、炎を見ていると気が安らぎ、この安らぎを手放したくないと思う。手の中のジョッキをもう一度ぐいと煽って、その辛さに喉を焼き、カインは立ち上がった。
「おれが踊る!」
 ひゅう、と口笛が上がった。
「いいぞ新人!」
「さすが英雄だ!」
「何を踊る?」
「やっぱりここは《英雄の踊り》だろう!」
 その一言で、曲目が決まった。英雄の踊り。中央の国の人間ならば誰もが知っている、年に一度の祭りの曲。舞手は飾りのついた模造刀で演舞の型のように決められた動きを繰り返す。たおやかで力強く、優美な舞だ。普通の街では。
「よし、まかせろ」
 カインは腰に佩いたままだった剣をすらりと抜いた。それを見ても酔っ払いたちは笑っている。本来ならあり得ないことだが、酔いに意識をまどろませた彼らは、危ないな、間違って斬りかかるなよ、と暢気なものだ。
 カインは踊りのための空間を求めて、人の輪の内側、炎のそばに一歩踏み込んだ。顔に熱気が当たり、頬が火照る。気にせず、抜いた剣を刃先を上に、顔の前で掲げた。それがはじめの構えだった。
 歌に自信のあるものが口火を切って歌い出した。歌い出しはゆったりとしている。続くように一人、二人と歌に混ざる。手拍子が始まる。それを聞いて、カインははっと深く息を吐き踊り出す。
 刃を地面と平行に高く頭上へ。足は地面を擦るようにして腰を低く。限界まで身を低くすると、次の拍子で足を元に戻して剣を突き出す。くるりと一度剣を回して、元のように刃先を上に掲げる。ここまでで一周。あとは左右の向きを変えてこれの繰り返しだ。だが、カインはそうしなかった。
 次の音の始まりで弾かれるように飛び上がる。くるりと、体を回すと、うなじでくくった赤い髪が丸く円を描いた。足は複雑なステップを踏み、剣先がたき火の炎を反射して鈍く鋭く輝き光る。
 その場はわっと盛り上がった。
 一度見せた正規の型も美しかったが、突如始まった型破りの足運びはそれ以上だったからだ。
「あいつ、栄光の街出身か!」
 剣と踊りと祭りの街。カインの出身地、栄光の街は《英雄の踊り》の発祥地でもある。各地に広まった後も独自の進化を続け、今では他の街にはまねできないような複雑で激しい踊りになっていた。だが、それがカインにとっての《英雄の踊り》だ。
 ゆったりと口ずさまれていた歌が、カインの動きに合わせてテンポを上げた。口笛と指笛が場をかき乱す。手拍子が激しくなる。男たちが足を踏み鳴らす。
 その様子を見て、カインは踊りながら笑った。皆が笑っている。皆が楽しいならカインも嬉しい。笑みを振りまいてカインは炎の周りをくるくると踊った。途中暑くなって上着を落とす。白いシャツ一枚になって、ボタンを上から二つ三つ外すと、なぜかその場の熱気がさらに上がったようだった。
「美しい……」
「まるで炎の女神のようじゃないか」
 歓声に紛れる感嘆の声は、カインには届かない。
 炎の女神は戦の女神だ。白い肌に赤い長髪、剣を持った姿で描かれる。戦の女神は手を伸ばすものを拒まない。炎をまとい触れること自体が難しいからと言われる。ただ、その炎を恐れずに手を伸ばした戦士には、惜しみない愛と祝福が与えられるという。
 そんな伝説にあやかってか、踊るカインに次々と手が伸ばされた。剣を持って踊っているのに、怖いもの知らずだと、カインも笑うばかりで気にとめない。
 伸ばされた手はシャツの裾を乱し、ボタンをいくつか弾いた。髪をとめていた組紐も、誰かが奪ってゆく。はらりと舞う髪が汗みずくのカインの首筋に張り付いた。
 ——その様に、ごくりと生唾を飲む者がいたとして、一体誰が気づくだろうか。
「従騎士に手を出してはいけないという掟があるが、……騎士にはないな?」
「女みたいな顔をして」
「いっそ女の代わりに」
 炎があたりを明るく照らせば照らすほど、夜の闇はますます濃く、影は長く伸びる。熱狂の下で、悪意が蠢いている。気付かないままでは、いつか足を絡め取られるだろう。
 危うい均衡の上で、カインが踊る。伸ばされる手はすべて好意と善意でできていると、疑いもせずに。
 その時。
 風が吹いて炎が揺らいだ。涼しい風だと思ったのは、全身に汗をかいていたカインだけだったろう。カインの足が止まった。
 その一瞬後だ。
「何を、している……っ」
 地を這うような声だった。
 決して大声ではないはずなのに、地獄の底から響いてくるような恐ろしさがあった。その声に、酔いに酔った空気が冷水を浴びせ掛けられたかのように静まりかえった。カインを除く全員の背筋がピンと伸びた。静寂の中を軍靴が砂を踏む音だけが響いた。
「何を、している」
 炎の照らす場所までやってきて、ニコラスがもう一度問うた。暗いまなざしが睥睨する。蛇ににらまれたカエルのように、誰も何も答えられない。
 カインは一人暢気に、俺が答えるべきなのか?などと考えていたが、その必要はなかった。
「答えられぬのなら、さっさと片付けて、寝ろ!」
「はっ!!」
 ニコラスのその一言で、張り詰めた空気が一刀両断される。酔いなどどこかへ行ってしまったように、騎士たちは機敏に立ち上がり、小走りで各自のテントに戻ってゆく。散らばっていた食器も、脱ぎ散らかされた衣服も、倒れていた酒樽さえ、綺麗に引き上げられ……残ったのは剣をぶら下げて突っ立っているカインと、仁王立ちしたニコラスだけになった。
「じゃあ、俺も……」
「どこへ行く」
「? 俺のテントにいくけど」
 他でもないニコラス自身がそう命じたのに、おかしなことを聞く、とカインは思った。
 六人で一つ使うテントはほとんど野宿と大差はないが、屋根があって風が凌げるだけ十分快適だ。今までは従騎士だったから従騎士用のテントだったが、今日からは騎士たちに混じって寝ることになる。明るいうちに自分たちで設営したので、場所が分からないと言うことはないだろう。医療テントの場所がわからなかったのとは違って。
 それを聞いてニコラスは何故か舌打ちした。その上、カインが思ってもみないことを言う。
「お前はこっちだ」
「え? でも」
「いいから、来い」

 ふわふわとした心地でニコラスの後をついて行く。なんだか今日はこんな景色をよく見る気がする。黒い軍服に包まれた大きな背中。あちこちに焚かれた篝火が明るいせいで、見失うことはない。
 連れて行かれたのは誰かのテントだ。ニコラスは声も掛けずに中に入った。いいのかな、と思うが、入ってみて気が付く。中は誰もおらず、戦術会議用の簡易デスクに、チェアが何脚か。寝袋の代わりに簡易ベッドまである。ここは団長用のテントだ。
 ニコラスがデスクの上のランタンにマッチで火を入れて天井に吊った。明るくなったテントの中をぼんやりと眺めていると、無言でコップと何かの草が差し出される。なみなみと満たされた無色透明の液体は水だろうが、一緒に渡された草は何だろうか。
「飲め。全部だ」
「……こっちは?」
「噛め」
「……」
 逆らうのも面倒で、言われたとおりに水を飲んだ。思いがけずよく冷えていた水は、火照った体に心地よい。ごくごくと半分以上飲み干して、次によくわからない草を噛む。
「にっが!?」
「酔い醒ましだ。二日酔いにも効く」
 チェアの一つに腰掛けたニコラスが、同じものを噛んでいる。表情は変わらないが、噛んだ後に勢いよく水を飲んだところを見ると、やはり苦く感じているらしい。
 カインも口の中を漱ぐように残りの水を飲み干した。舌の上から苦みがなくなってほっと息を吐き出すと、見計らったようにニコラスが話しかける。
「少しは酔いが覚めたか」
「……俺、酔ってたのか?」
 疲れたようなため息。
 確かにさっきまでの、ふわふわとして地に足がついていないような感じは薄くなっている。まだ少し心許ないが、自分と他人が同化してしまったような、雰囲気に支配されて自分が自分でなくなってしまうような不安定さは、すっかりどこかへいってしまった。あれが酔っていたということなのだろうか。
 またニコラスの視線が刺さる。
「それで、その格好はどういうわけだ」
「えっ? ……うわっ!?」
 言われて、ようやく目を向けた自分の姿に、カインは悲鳴を上げた。
 まず、シャツはほとんどボタンが取れて、前が完全にはだけていた。自分で一つ二つボタンを外した記憶はあるが、ここまでした覚えはない。それになぜかベルトが外れて、ズボンが腰骨のあたりまで下がっている。カインは慌てて、ズボンだけでもと臍が隠れるまで引き上げた。
「髪は」
「あー、組紐、どっか行っちまったみたいだな。最近よく無くなるんだ」
「は? 今日だけではなくか」
「うーん。多分俺が悪いんだけど、風呂場とかでよく無くす」
「……上着は」
「あ、それは自分で脱いだ」
 あとで回収しに行かなくちゃな、と脱いだ上着の行方に気をとられていたカインは、ニコラスが頭痛を覚えたように眉間を揉むのに気づかない。
「お前には、危機感というものがないのか」
「ん? どういう意味だ? ……ニコラス、眠いのか? 今夜は村長の家に泊まるんだと思ってた」
 ニコラスの様子に気が付いたカインが純粋な心配の気持ちから尋ねた。ニコラスは何かを堪えるように、深く深くため息をついた。
「……あの従騎士がわざわざ呼びに来た」
「ん? ああ、フリッツか?」
 かすかに首肯が返る。
「『早くしないとお前が食われる』と喚いていた」
「俺が?」
 カインは脳内で言葉の意味を吟味した。フリッツが。わざわざ。俺が。食われる?
「よくわからないが……寝ぼけて変な夢でも見たのかな? でも、俺を助けようとしてニコラスを呼んでくれたのなら」
 それなら、嬉しい。
 夕方の一件で、フリッツはカインのことを嫌いになってしまったのかと思っていた。でも、本当に嫌いになっていたら、夢の中だってカインを助けたりはしないはずだ。どうしてあんな態度を取られたのかはわからないが、だとしたら一安心だ。夕飯の支度を手伝えなかったことで、あんなに怒らせてしまうとは思わなかったから。
「……お前は、」
 カインの様子を眺めていたニコラスが、何か言いかけてやめる。
 ニコラスはこうして、よく言葉を飲み込むことがある。カインなどは、思ったことはすぐに口に出す方だから、どうして言わずにおくのかわからない。
「何を言おうとした? ちゃんと言ってくれないとわからない」
 ニコラスはそれでも何も言わなかった。
 代わりに懐に手を入れ取り出したものを、カインに向けて放ってよこす。過たず胸の真ん中に向かって落ちてきたそれを、両手で摑む。開いた手のひらに載っていたのは、鈍く金色に光る、小さな輪っかだった。
「何だ、これ?」
 ささやかではあるが装飾の施されたそれは、おそらく装身具だあろう。だが、指に通すには大きすぎ、かといって腕にはめるには足りない。いじっているうちに金の輪は途中でかぱりと二つに割れて、カインは焦った。壊してしまったかと思ったのだ。だがよく見ると、元々そういう機構のようだ。蝶番のような部品がある。それに、内側には紐かなにかを引っかけるフックもついている。
 ニコラスが言った。
「真鍮の、髪飾りだそうだ。村長がお前に、と」
「え? なんでだ?」
「真鍮は銅と亜鉛の合金だが、今日討伐に向かったあの鉱山、かつてはその両方がとれた。今はもうないが、真鍮を生成する工房やそれを細工する職人たちが集う街もあったと言う。それはそのころの名残で、村長の手元にはそういうものがいくつか残っているそうだ」
「俺が聞きたかったのは、なんでこれを俺にってことだったんだけど……」
「知らん。自分で考えろ」
 なんとなくそう言われるような気がしていたので、カインはそう強くは食い下がらなかった。
「えーと、ありがとう」
「私に礼を言ってどうする」
「いや、よくわかんないけど……たぶん、俺にふさわしくないと思ったら、あんたは俺に渡さなかったと思ったから」
 ニコラスが椅子から立ち上がる。
 眉間の皺は今日見た中で一番深かった。
「怒ったのか?」
「……そう見えるのなら、それでいい」
 それきり、そのままテントを出て行こうとするので、いよいよカインは混乱した。
「どこ行くんだよ」
 ニコラスはいくらかためらった後、カインを見ずに一方的にこう告げた。
「私は……今とても気分が悪い。だからこれから医療テントで休む。代わりにお前がここで寝ろ。いいな」
 確かに、とても具合が良さそうには見えない。カインに噛ませたのと同じ草を噛んでいたので、村長の家でしこたま飲まされたのか。今日初めて飲酒したカインにはわからないが、酒は飲み過ぎると具合が悪くなることがあるというし。
「え? いや、気分が悪いならここで寝た方が」
「お前は、ここで、寝ろ。団長命令だ」
「は、い」
 命令とまで言われればカインに選択肢はない。釈然としないまま頷くと、ニコラスはさっさと寝ろと目でベッドを示して、テントを出て行ってしまう。
 一人きりになって、手の中の真鍮の髪飾りをもてあそびながら、カインはつぶやいた。
「……やっぱり、よくわからない人だな」

 ◇

 翌朝、自分のテントに戻ったところ、同じテントを使っていた騎士たちに質問攻めに遭ったので、カインは正直に、昨夜は団長のテントで寝たと話した。
「その髪飾りは?」
「団長がくれた」
 言ってから、村長がくれた、のほうが正しかったかと思ったが、些細な違いだったのであえて言い直すことはしなかった。
 その後、団長とカインの仲を怪しむ噂が騎士団の間でまことしやかに囁かれたが、カインは到底あずかり知らぬ話だ。
 ただ、カインの髪紐がなくなることは、それからめっきり減ったという。

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