愛は静かな場所へ降りてくる

2,200 文字

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 まだ日も昇り切らない時分だった。些細な違和感がカナダの目を覚ました。ベッドが広い。シーツの間で身じろぎすると今まで肌に触れていなかった部分がひんやりとした温度を伝えてくる。眠りにつくときには確かに隣にあったはずのぬくもりが消えていることに気付いたカナダは、カーテンの外から滲む弱い光をしばらくぼんやりと見つめて、まだまだ朝と呼ぶには早い時間だということを確認してからのっそりと起き上がった。
 サイドテーブルの眼鏡を手探りで見つけ、ガウンを羽織ってから部屋を出る。木でできた階段をぺたぺたと裸足で降りた。全体がパインウッドでできたこのロッジはそこかしこから木の匂いがする。一階に降り立つと、それに加えて昨日の夕飯の名残か、ほんのりとチキンブイヨンの香りがした。
 暗がりの中でキッチンに立つと、ゆっくりとコーヒーの準備をする。視界がきかないというよりは、ただ単に眠気が取れないせいだった。ケトルに注いだ水がちゃぷんとはねて手を濡らす。森の朝だ、それは氷で冷やしたように冷たかった。
 湯気の立つカップを二つ持って、リビングを突っ切った向こうに見えるカーテンへカナダは足を向ける。重たい生地でできたカーテンは大きくはためくことはなかったが、さっきからゆらゆらと風に揺れていた。デッキへと続く窓が開いているのだ。
 両手がふさがっているので肩を使ってカーテンをめくり半身を外に出す。と、予想以上に冷たい空気がカナダを包んだ。鳥の声が大きくなる。朝日はまだ森の向こうに隠れているらしく、薄青い風景が朝霧の中に浮かんでいた。
 広く作られたデッキの奥、森に一番近いところでフランスが、こちらに背を向けて座っている。カナダの気配には気づいているだろうが、彼の視線は一心に森へ、そしてその前にあるキャンバスへと注がれている。
 裸足のままのカナダはデッキの床が湿っているのに敏感に気がついた。霧ははじめ、今よりもっと濃かったのだろう。それこそ湿気が床に移るくらいに。カナダの視界に映るフランスの背中は薄いシャツ一枚の姿だった。カナダは自分でも気づかぬくらい微かに眉を寄せたが、結局何も言わないでフランスのそばまで近づいて、カップの片方を木目の浮かぶ手摺の上に置いた。持ち手をそっとフランスの方へ向けると、ありがとうと頬笑みが返ってくる。
「寒くないですか」
「ああ、大丈夫だ」
 しかし現にカナダは薄ら寒い風を感じて身を震わせている。ガウンを羽織った自分でさえそうなのに、フランスが大丈夫というのはあまり信用できなかった。
「フランスさん」
 名前を呼ぶだけで、彼はカナダが何を言いたがっているのか理解したのだろう。空いている手をひらひらと振って、もう少しで終わるからと嘯いた。カナダは一つ溜息をついてそれを許容する。彼がカナダなんかの指図を諾々と聞き入れるような人ではないということなど、重々承知している。
 ウッドチェアに浅く座ったフランスは、熱心に利き手を動かしていた。何も言わない代わりに、カナダは彼が向かっているキャンバスを横から覗き込んだ。
 フランスが描いているのは白く濁った森だった。空が白む前の、静寂の中の森だった。鉛筆一本で描かれたとは思えないほどにそこには精妙な風景が写し取られていて、それはスケッチというよりはすでに一つの芸術のようですらあった。
 暗い針葉樹の森が、明けきらない夜の空気を纏って鎮座している。彼が描く世界には白と黒しかないはずなのに、見えない青が見えたような気がした。夜の青である。
「カナダ。お前はきれいだなあ」
 キャンバスの向こうに森を透かし見ながらしみじみとフランスが呟いたのを、カナダはくすぐったい気持ちで聞いた。彼の持つ鉛筆の先が手前の木の枝のラインを濃くなぞる。視線はキャンバスに戻っている。俯きがちな横顔は真剣な面差しをしていた。
「お兄さん、きれいなものは無条件で好きよ」
 それが大粒のルビーでも、ブルネットの女性でも、荘厳な宗教画の架けられた聖堂でも、緻密な設計の橋であっても、彼はきっと同じように言うのだろう。それでカナダは構わなかった。彼が言う「きれいなもの」はそう、真に正しく美しいものなのである。そこに邪なものは存在しない。この世の良い部分だけを切り取ってできたような、そういう集合なのである、彼が言うのは。
 だからその一つに数えられて、カナダは満足だった。

 大方スケッチを完成させたフランスがカップに手を伸ばしたのは、ちょうどその時だった。
 朝日が差し込む。と同時に、強い風が霧を払った。清涼な空気がにじむ。森の黒に、空の青が映り込んで何とも言えない色彩を醸す。先ほどまでの沈鬱な青ではなく、夜明けの空の複雑な青だ。
「ほら、お前の眼の色だ」
 空を見上げ、フランスは眩しそうな顔をして笑った。カナダは景色などよりも、そちらに気を取られていた。生まれたばかりの陽光が彼の仄暗い金髪を照らし、それが神々しいまでの光を放っている。
 きれいなのは、美しいのはフランスのほうだとカナダは知っていた。告げたら何と答えるだろう、この人は。当たり前だと胸を張るかもしれないし、少しは照れてみせるかもしれない。しかしカナダは、実際にはそれを口にはしなかった。愛を囁くのは、美しきを語るのは、自分の口ではなくていいのだ。

 羽化を終えたばかりの空がある。彼が数えた、カナダの目と同じ色の。

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