五条夜話

2,403 文字

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「死ぬんですか」
 まるで道ゆきでも尋ねるような気軽さだった。どちらまで? ちょい寺町までお参りに。今日は縁日さかいに団子やて買うてこようかしら。
 鴨川に架かる五条大橋、昼間ともなれば人の行き来の絶えないものも、こうも夜が更ければ犬猫しか通らぬ。その大橋のなんと欄干の向こう側で川面を覗き込んでいた修治は、そっと耳元に声を掛けられて飛び上がらんほどに驚いた。
 早鐘を打つ心臓を押さえたい所ではあったが、今手を欄干から離してしまえばこのまま鴨川にドボンである。数日前に降った雪こそ残ってはいないが、睦月の川はさぞや冷たかろう。
 修治はなんとか心臓をなだめながら首だけ声の方向へ回した。
「なんだい君は」
「いいですね、死ぬんですか」
 夜闇は深かったが、今宵は月が明るい。そしてそれ以上に、星がちかちかとうるさいくらいに瞬いている。その明かりの下で一見したところ、男はどうということのない町人のように思われた。不良学生、悪漢、ごろつきの類にも見えないし、かといって公安のようでもない。この寒い中に、提灯も持たずに羽織一枚で突っ立っている。濃い色目の羽織にこれまた地味な色の単を重ねている。帯だけが月明かりをはじいて白っぽく輝いていた。
 それにしても、妙にきれいな言葉を話す男だった。
 男はにこにこと呉服屋の旦那みたいに笑っている。お客を相手にするならわかるが、これでは気味が悪いばかりだ。
「なんだと聞いてるんだ」
「通りすがりですよ。それにしても」
 男はたった今まで修治が眺めていた水面を、隣で同様に覗きこんだ。もちろん欄干を跨ぐようなことはしない。
「これは、落ちたら生きては帰れないでしょうね」
「さっきから君は分かってるじゃないか」
 修治はもう男の身分を問い詰めることをあきらめた。こちらがなんと言おうと聞いちゃいないのであれば、それは問うだけ無駄というものである。
 よくよく見ればその男はまだ若い。口調が落ち着いていたからさっぱり気がつかなかった。修治と同じか、年下なくらいだ。二十歳かそこらに見える。それに、まっすぐな髪は男にしたらずいぶん長めで、どこか奇妙だな、と修治は思った。この時代に狐狸妖怪などばかばかしいが、しかしお誂え向きに時刻は丑の刻、空には更待月がこうこうと輝いていて、まるで浮世離れした雰囲気が橋の上に広がっていた。
「やっぱり死ぬんですか」
 何度めか、男は言った。修治はもう、これは狸か狐の仕業に違いないと高をくくって答えることにした。そうと決めてしまえばなんだか口も滑らかになる。まるで銀座のカフェーで、大学のサロンで、仲間と討論するような気軽さである。
「そうだよ、死ぬんだよ」
「いいですねえ。死んでしまえたらどんなに楽でしょう」
「君も死にたいのかね」
「ええ。消えてなくなってしまいたいと、この時期はいつもそうですね」
「ふうん」
 欄干の向こう側とこちら側で、はたからみたらどれほど可笑しな光景だろう。尤も、はたから見る人などどこにもおらぬ。
 修治は川面を見ていた。横目で窺うに、男は月を見ているようだ。それとも星空だろうか。修治はひとつ、自殺願望のある狸とはどんなものか試してみたくなった。
「なんで消えてなくなってしまいたいんだね」
「恋を失くしたからです」
「失恋か」
「そういうことです」
 これは傑作だと思った。化け狸の恋とはいかほどか。しかし頭の中とは裏腹に、修治はそれらしく相槌を打っていた。
「振られたのかね」
「さて……。振ったといえばよいのか、振らざるを得なかったといえばよいのか。はたまた、振るように仕向けられたといえばよいのか」
「親かだれかにか」
「いいえ。いうなれば、そう……時代でしょうか」
 ううむ、と修治は呻った。
「その人と二人、死んでしまえばよかったのだよ、君」
 修治はしばらく考えた末に、そう言った。男は、はははと笑った。大根役者の芝居のような笑い方だった。
「それができたら、どんなに素晴らしかったでしょうか。……そうですね、そうできなかったから、だから私は今でもこうして、消えてなくなってしまいたいと思うのかもしれない」
 優柔不断なやつだった。我の弱いやつなのだ、きっとこいつは。町人にみえたが、いや違った、ただの狸かと思ったが、それにしても時代とかいうよく分からないものに左右されてしまうような、狸の風上にも置けないようなやつなのだ。
 修治は男の境遇に同情するつもりだったのだが、かえってあきれた気分になって、ぶっきらぼうに言い放った。
「それなら、もういっそ死んでしまえばいいだろう」
 修治が男をねめつけたのと、男が修治を不思議なものでも見るように見やったのとで、この時二人は初めて互いに目を合わせた。きらきらと中心で星のようなものが揺れている黒目が、面白そうに細められた。
「男が二人並んで浮いていたら、男色の心中ではないですか」
「だれも今死ねとは言ってない」
 はあ、とため息をついてみせたが、実のところ修治はこの時、川に飛び込むつもりの覚悟がどこかにいってしまっていたのだった。男が飛び込むというのなら止める筋合いなどどこにもなかったのだ。
 見透かしたように男が言った。
「私はもう帰ります。あなたも帰って、早く寝たほうがいいですよ」
 修治が何か言う前に男は小さく微笑み会釈して、修治がもたもたと欄干のこっち側に戻って顔を上げたころには影も形もなくなっていた。
 とぼとぼと三条の宿屋にかえった修治は、裏口から自分の寝床までたどり着き、せんべい布団にくるまって、今晩の出来事を反芻した。狸に化かされたのでは明日になったら忘れているかも知れぬと思い、何事か書きつけなければと万年筆に手を伸ばしたのだが、どうしても眠くなってそのまま寝てしまった。
 翌朝になっても修治は昨晩のことを覚えていたが、そのかわりどうにもただの夢だったのではという気がして、生涯誰にも言うことがなかった。

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