そこはひどく寒々しい場所だった。あたりは暗闇で、そこがどんな場所なのか、どんな広さなのか見当もつかない。それどころかあまりにも真っ暗なので、イギリスは自分が本当に目をあけているのかどうか自分で瞼をなぞって確かめなければならなかったほどだ。
寒い。暗い。何も見えない。自分の手足さえも。空を見上げても星ひとつ見えない。そもそも屋外かどうかも疑わしい。しかしどこかに閉じ込められているという風でもない。
ふと、足もとから湿った土の臭いがした。どこかで嗅いだことのある臭いだったが、すぐには思い出せない。さて、なんだっただろう。
何もしないでいても事態は解決しないと踏んだイギリスは、ゆっくりと足を踏み出した。見えぬ目前になにか障害物があったとしても、そのときはそのときだ。転んで擦り剥くくらいで、死ぬほどの大けがにはなるまい。
はじめはゆっくりだった歩調も、懸念していたような悪路ではなかったため次第に普段通りになってくる。何も見えないながらも随分と距離を歩いたころだった。
「――光だ」
ずっとむこうに、ぽつりと小さな白い点が浮かんでいた。唐突に出現したようにも思われるが、闇に感覚が麻痺していて気がつかなかったのかもしれない。とにかく、イギリスは安堵した。迷わず向かう目標ができたのだ。なんのあてもなく歩くことほどつらいものはない。
それがトンネルの出口の太陽の光だとしても、小さなろうそくの光だとしても、イギリスはかまわなかった。光は、光だ。こんな暗く寒々しい場所にいつまでもいたら気が狂ってしまう。早くあそこにたどり着きたいと思うと、歩調が乱れた。慌てるな。そう自分に言い聞かせるが、早足になるのは止められない。
近づくうちにイギリスは、その光が輪郭を伴うことに気がついた。はじめは、暗い海の先に見える灯台の形だと思った。航海の不安を拭う地上の光の形だと思った。もう少し近づくと、それは人間の形だとわかる。頭がある。細い肩がある。しゃがみ込んでいるためか、腰と足の境は朧だった。胸の前で組んだ両手。こんなさびしい場所で、なにをやっているのだろう。こんな、まるで生の気配の感じられないところで。
イギリスは唐突にあの湿った土の香りの意味を思い出した。あれは薄暗い墓場の臭いだ。今も足もとから立ち上る、それはすなわち、死の香りだ。それを思い出してイギリスはぞっとした。ここが一体どこなのか、それが急に気になりだした。
いつの間にかイギリスの足は完全に止まっていた。まるで地面に根付いてしまったかのように、立ちつくす。
そこにいたのは、一人の女だった。光を放っていたのは、灯台と見間違えたのは、女だった。生の気配の感じられない暗闇の中で、手を組み合わせ一心に祈っている女性。否、少女と言ったほうがしっくりくるような。知っている、その横顔を、イギリスは知っていた。
まばゆいばかりの光がイギリスの足元を照らす。
「――……」
忘れるわけもない女の名を、かすれた声が辿る。少女は、イギリスの声など届いてもいないみたいにただひたすらに、神の名を唱えていた。
それは、イギリスがもう何度もみた夢だった。何度も見たのだが、見るたびに忘れるのでいつも夢の始まりは不可解な思いをしなければならない。目が覚める段になってようやく、ああ、またあの夢だったかと思いだす。不毛な行為に他ならなかった。
ずいぶん久しぶりに見た気がするが、実際はどうだったろう。最後に見たのは一年前だったかもしれないし、十年前だったかもしれない。朝の訪れぬ薄暗い部屋でイギリスは、上半身だけを起こして眼を閉じた。夢の中の闇はこの瞼の裏よりなお暗かった。真の闇。この世に存在しえない、本当の闇。いつもそうだ。いつも、あの闇がイギリスを責める。
十分に仮初めの闇を堪能したあと、イギリスはようよう起き上った。ベッドのつもりで足を出すと変な所に床があって、それでああ、ここは日本の家だったなと気づく。一度大きく深呼吸すると、い草の香りに混じってほのかに甘い匂いがした。そういえば玄関に山百合が飾ってあった。その強く甘い匂いが、客間にまで届いたのだろう。このせいであの夢を見たのだろうか。
そっと部屋を出てキッチンに向かい、不作法なことだと思いながらも勝手に冷蔵庫からミネラルウォーターを出してコップに一杯注いだ。冷たい水を飲み干して、口の端に零れた水滴をぬぐった手をそのまま、目の上にやってイギリスは嘆息する。
遠くでホトトギスが鳴く声が聞こえた。もう朝が近いのだ。それだというのに、イギリスの心は未だ明けない夜を彷徨っている。
*
「すみませんが、今日は少し用がありまして」
「いや、押しかけたのはこっちだから」
朝食の合い間に、日本が申し訳なさそうに切り出した。そもそも日本の家に泊まることが決まったのは、日本で行われた会議が終わった当日のことだった。イギリスが数日後にまだこの国で用事があると知った日本が、それならうちに泊まっていってください、と進言したのだ。なんの遠慮もなしに誘いに乗ってしまったが、彼には彼の用事があるとしても仕方がない。
そう思って、おとなしく留守をしているか、なんなら彼が外出している間自分も外に出ているのでもかまわないと提案しようとしたイギリスを、日本がやんわりと遮った。
「いえ。よろしければ、ご一緒にどうかと思いまして」
「いいのか?」
「ええ。仕事の用事でもないんです。それにイギリスさん、なんだかお疲れの御様子」
「……そう見えるか」
日本はそれに答えず、ただ小さく微笑んだ。
「気分転換にでも、ね?」
*
「そういえば、イギリスさんのところは土葬なんでしたっけ」
ぼんやりしていた。その自覚があった。夢見が悪くて睡眠時間が足りていないのかもしれない。目は開いていたが意識はどこかに浮遊しているような状況からイギリスを引き戻したのは、日本のやわらかな声だった。
言われるまま日本について行った先は、郊外にあるこじんまりとした寺社であった。観光地にあるような大きな寺ならともかく、こうして人々の生活に根ざした寺に入るのは初めてだったから、興味深く辺りを見回していると、日本はすぐに用事を済ませてくるから、とイギリスを好きにさせてくれた。
何気なく散歩していたつもりだったが、いつの間にか裏手の墓地に入り込んでしまっていたらしい。用事が済んだらしい日本が声をかけるその時まで、イギリスはそこで何をするでもなく、暫く突っ立っていた。
「ああ……いや。最近は衛生上の観点から火葬も増えてきてるって話だけどな。……でも、やっぱり根強いな、土葬にこだわるのも」
イギリスが、見なれない墓地の形態に興味でも持っていると思ったのか。日本の質問にイギリスは反射的に答えていた。
夏が始まる直前のじめじめとした空気が立ち込めている。時折いい風が吹き込んで澱んだ空気を払うのだが、その度に風は匂いまでを巻き上げてゆく。香ったのは、少し湿った土の匂いだった。
日本はその場の水っぽさと対照的に、実にあっけらけかんとした口調で言った。
「不思議ですよねえ。死んでしまったら、土に埋められようと火に焼かれようと、変わらないと思いますのに。かえって生きている人が気にするんですからね。――ああ、失礼。もしかして私、すごく不用意なことを言いましたか」
「そんなことはねーよ。まあ、そうだなあと思うし」
話しながら日本はイギリスの横を通り過ぎて、一つの墓石の前に立った。だいぶ古い石で、他の墓石より明らかに一時代違うように見える。日本は手に持っていた籠と水桶を一度脇に置くと、籠の中から手拭いを取り出し、それで墓石を拭き始めた。
「何か手伝うか?」
「いいえ、大丈夫ですよ。住職さんが掃除をしてくれてますんで、そんなに汚れてないんです」
そう言われてしまうとイギリスには何もすることがない。日本が手拭いを片づけ、柄杓で打ち水をし、線香と花や菓子を手向ける様をただぼんやりとみているしかない。
イギリスはなんとなく思いついたことを口にした。
「お前は死んだら、火に焼かれたいと思うのか」
自分で質問して、ずいぶんおかしなことを聞いたとすぐに後悔した。
しかし日本はひとつも笑うことなく、ごく真面目に答えてくれる。
「はい。……というよりも、灰になりたいのかもしれません。灰になって、土に還って、次の命の糧となりたい。そういう意味では、土に埋まりたいといっても変わらないかもしれませんが」
日本の声は穏やかだった。
それにつられたとしか言いようがない。
「川に流れた灰は、どうなるんだろうか」
唐突な質問だった。イギリスの中では一つの線でつながっていたけれど、日本にはそれが分かっただろうか。わからなければいいと思ってしまう。
イギリスの思いを知ってか知らずか、日本はイギリスに背を向けたまま、浮かぶ雲を数えるように空を仰いだ。
「水に溶けて、海に出るでしょう。海に出て、そうして、すべての生き物の母になります」
「母……」
「やがて雲となり、雨となって、世界を廻る、命に変わります。海というのは」
しばらく二人とも何も言わなかった。日本は墓の前にしゃがみ、目を閉じて手を合わせていた。深呼吸をゆっくりと一回分ほどの時間そうしていたかと思うと、日本はさっと立ち上がりイギリスを振り返ってにっこり笑う。
「さあ、イギリスさん、このお菓子食べちゃってくださいね。置いていくとカラスが来ますから」
*
永遠の闇の中、祈り続ける乙女はきっと、イギリスのことなんて一つも気にしてはいないだろう。彼女の意識のひとかけらにでも干渉することは不可能のように思われた。それでも呼ばずにはいられなかった。
「ジャンヌ……」
呼びかけ、たまらず視線を落とす。眩いばかりの姿を、イギリスは正視できなかった。
「はい」
しかし予想外なことに、返事が返る。鈴を鳴らすような声。はっと顔をあげると、オリーブ色の双眸がイギリスをまっすぐに見つめている。なにも含むところがない、むしろ穏やかな視線だというのに、射すくめられた気分になってイギリスは、しばらく声を失った。
それでも彼女の視線は変わらなかった。それに励まされるように、イギリスはずっと聞きたかったことを聞く。
「お前はこんなところで、未だに何を祈っているというんだ。――フランスの勝利か。俺の敗北か」
「あら」
心外だわ、とでも言いたそうな明るい声。
「ただあの地の平穏を。あの方の幸せを。私、あなたが言うようなこと今も昔も、ひとつだって祈ったことありませんよ」
イギリスはどう反応していいか分からず、無意識に眉を寄せていた。ジャンヌはそれを指の先で指摘する。イギリスの不可解はさらに極まった。なんだってこんなに、彼女は楽しそうにしているのだろう。
「ねえイギリス。彼は幸せに生きているかしら」
「……ああ」
よかった。そう、蕾の綻ぶように笑う。そうして、
「あなたはどう?」
「おれ、か?」
今度は急に質問の対象にされて、イギリスは戸惑った。なんと答えることもできずに、的外れなことを言ってしまう。
「なあ。許してくれるか、俺を」
「あなたは私に、許されないことをしたと思っているのですか?」
彼女は小首をかしげて、それから緩く笑う。わがままなことをいう子どもを宥める、母のような笑い方だった。
「私はそんなこと、一度も思ったことがないから。それじゃあ、許すも何もできませんね。――ねえ、イギリス。あなたは本当に、不器用な人ね」
目が覚めた。
あの夢を見ていた、と思うのだが、どうも記憶があいまいで、イギリスは首をかしげる。
外はすでに白んでおり、昨日目が覚めた時間よりも朝に近いようだった。それでも、まだ眠りの時間だ。当然のように家主が起きている気配もない。こちこちと掛け時計の針の音が大きく響く。
まだ眠っていてもいいか。イギリスは怠惰なことを考えた。頭は眠気でうすらぼんやりしていて、そのくせなんだか、妙にすっきりした気分でもあった。
もう一度布団をかぶって、イギリスはふと大きく息を吸ってみる。
昨日はあんなに薫っていた百合の匂いが、今日はもうどこにもしなかった。


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