涙と飴

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 独歩に近づくと妙に甘い匂いがすることに最初に気がついたのはいつの頃だったか。洒落者で通っているあいつのことだ、また新しい香水でも手に入れたのだろうとその時は思ったのだが、それにしてもいやに甘ったるい。今時はこういうのが女受けするのかなと僻み交じりに藤村に聞いてみたが、
「そんな匂い、するかな」
 どうも彼にはわからないらしい。
「花袋だからじゃない?」
「……どういう意味だよ」
「そのまんまの意味だけど」
 女の蒲団の匂いを嗅いで小説にしたのは前世の田山花袋であって厳密には自分ではない。別に恥じるわけではないが、藤村までそんなこと言わなくってもいいだろう。そう拗ねてみせれば、藤村はまだ不思議そうな顔をしていた。
 それからまた暫くあって、再びその匂いに気がついたのはとある日の夜のこと。独歩の部屋の前を通ったら廊下にまで例の甘い匂いがしている。まさかあいつ、部屋に女でも連れ込んでいるんじゃあるまいか。ろくでもない想像を思いついたのはなにも自分だけが悪いのではないと信じたい。親友に対して酷い言い草だが、彼が人誑し女たらしの名を恣にしているのは前世も今世も大差が無いのだ。そういう事が絶対にないとは言い切れない。
「おい独歩?」
 二回ノックして声を掛けると、中からは慌てたような物音。ますます怪しい。
「入るぞ」
「ま、待て!」
 制止の声を聞き捨てて扉を押し開ける。とたんに余計強く立ち上る甘い香り。灯りの点いていない薄暗い室内、ベッドの辺りで人影がもぞもぞと動く。
「……えっ?」
 驚いたのは裸の女が出てきたからというわけではなかった。そもそも部屋には独歩以外の人影は見当たらない。急いで隠れたというわけでもなさそうだ。隠しているとしたらそれは独歩自身だろう。ベッドに腰掛けて必死に花袋から顔を背けている、だがその肩が震えているのは隠しきれていない。
「独歩? おまえ……」
 後ろ手に扉を閉める。よくよく耳を澄ませるとしゃくり上げる声さえ聞こえていた。
「泣いてるのか?」
「……っ、ばか、言うやつ、あるか……ッ」
 蛍光灯を点けるのは躊躇われて、デスクの上のシェードランプだけ点す。振り返れば、眩しそうにこちらを見上げる友の頬の上に見間違えようもない光の筋ができている。花袋は慌てて駆け寄って、また俯こうとする彼の顔を両手で掬い上げて留めた。
「どっか痛いのか!?」
「違う……」
「じゃあ侵蝕が残ってるのか?」
「別に……」
 とりあえず体に異常が無いのはわかった。良かった、と胸をなで下ろすと同時、もう他に問う言葉がなく花袋は困り果ててしまう。
「それじゃあなんで泣いてるんだよ」
「アンタには関係ない」
「関係ないって——ん?」
 そこでふと気がついた。例の甘い匂いが先ほどよりもずっと濃くなっているのだ。くん、と匂いの元を辿る。香水を付けるなら手首か、首筋。だがどちらも違う。風呂上がりの石鹸の香りしかしない。それなら整髪料かと髪を一筋掬って確かめるが、これも違う。すっきりとしたハッカのシャンプーの香りがする。
「……」
 原因を突き止めるのに夢中になりすぎて、花袋は己のやっていることがどれだけ非常識なのか気付かなかった。至近距離で視線が合う。友人としてさえ余りにも近い距離、目と鼻の先で見開かれたさみどりの瞳からまたひとしずく、ぽろり、と涙が溢れて伝う。その時のはじけるような香りの馨しさ、みずみずしさよ。つい花袋はその頬に舌を伸ばして、零れるまえにすくい取ってしまう。
「あま」
 い。
 最後まで言わせてもらえず、独歩の地を這うような低い声に恫喝される。
「出て行け」
 部屋を追い出されてから、指で掬って確かめれば良かったのかと、後から気付いて反省した。舌の上にまだ残る、砂糖で煮詰めたスグリの香りは彼の涙の味だった。

 匂いの元を知って以来、一際香りの強い日などは彼がまた泣いているのではないかと思うと居ても立ってもいられずに、度々部屋を訪ねてしまうようになった。そういうときは案の定、独歩は暗い部屋で一人ぼろぼろ泣いている。涙の理由を彼は決して話さない。無言の内に零れ落ちるそれが、またなんとも言われず強く甘い香りを放つので、よくないと思いつつも花袋は時々、舌で掬って口に含んだ。
 不思議なことに彼の涙は日によって、また、右目と左目とでも味が違った。ある日はすみれと金柑、またある日はスイカに巨峰。こないだはスモモとキウイフルーツの味がした。
 こんなことばかりしているのだから当然、どうしてそんなことをするのだと強い口調で窘められるのは毎回のことだ。
「お前の涙は水飴みたいに甘い味がする」
 そう言っても独歩には信じてもらえない。それを聞くと彼は悔しそうな、悲しそうな顔をして、いつも「もういいから、出て行け」と花袋を部屋から追い払った。
 ——しかし最近困ったことに、どうも理由がそれだけではなくなってしまった。
「どうしてこんなことをする」
 今も独歩が、目の縁を滲ませて詰問する。お前の涙が甘いからだと、そう答えれば良い。きっと独歩はいつも通りに花袋を部屋から追い出すだろう。
 だが別の答えならどうか。
(昔から、お前が泣く理由はいっつも恋愛関係だと決まっていたな)
 自分にしか甘く香らない涙の正体を、受け取ってもいいだろうか。濡れた頬でなくとも、唇を寄せていいだろうか。
 今日も彼の涙は右と左で別々の味がする、「す」と「き」の味がしている。


(第14回花独ワンドロ参加作)

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