幻肢痛

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 独歩は潜書で消耗すると、決まって熱を出す。その侵食の度合いがひどければひどいほど熱は上がり、敵の鞭の先がちょっと掠ったくらいであれば微熱の子どものように頬を赤くする程度で済むのだが、耗弱にでもなれば熱は一気に上がって一晩は寝込む。
 今回も独歩は寝込んでいる。
 喪失一歩手前まで追い詰められて、潜書から上がると崩れ落ちるように倒れた。それをとっさに捕まえたのは一緒に潜っていた花袋だったが、ジャケット越しに掴んだ腕が燃えるように熱くて、こんなのが幻であるわけがないと強い危機感を抱かずにはいられなかった。
 幻、というのは以前に森から聞いた話である。
 曰く、潜書の後に現れる諸症状というのは実際に病にかかっているわけではなく、「そうであった」という記憶を強く思い出しているせいで脳がさも今現在「そうである」ように勘違いしているだけなのだという。森と仲の良い正岡なども、少しの消耗でも必ず咳が出るが、じっさい体はまったくの健康体で肺腑にもなんら問題がないのだと、これは森がよくよく彼の体を診断して出した結論なのだという。
 戦場で兵士が手足に怪我を負って、経過が悪くて壊死などしてやむを得ずそれを切断する処置がある。そういう患者の中に、不思議なことに、もう失ってしまったはずの手や足の先が痛むと訴える者があるという。こういう症状には薬や麻酔が効かない。存在しない部位の痛みに効くはずがないのである。それと似ている。幻肢痛というのだそうだ。
 だから薬は出さない、と花袋も一度ならず断られたことがある。自分のことではない、独歩のことだ。毎回毎回こうも高熱で苦しんでいるのを見過ごせずに、どうか熱冷ましかなにか、処方してくれないかと頭を下げて頼んだことがある。花袋がこの図書館に来たころにはもう、「森先生は薬を出さない、吝嗇だ」というような噂がまことしやかに一部の文豪の間を流れており、それを承知の上ですがりつくように懇願した花袋に、森が聞かせたのがこの話だった。
「咳が出るなら背を撫でておやり。熱が出るなら氷枕を乗せておやり。喉が渇くなら湿った綿を口に含ませておやり。それが一番の薬になる」
 あるいは、空咳を繰り返す正岡の背を、森もそうして撫でてやったことがあるのかもしれないと、思うような声だった。
 潜書から戻ったのが夕時で、今はもう深夜に差し掛かろうという時間である。補修が終わったあとも昏々と眠り続ける独歩に、森は病牀を一晩貸してくれると言った。氷枕を取り替えるついでに触れた頬は未だ熱く、かさかさと渇いていた。熱い息を繰り返しこぼす半端に開いた唇は荒れ、彼を焦がす熱が未だくすぶり続けているのを感じる。
 こうして独歩を看病することは、もう数度あった。あんまり無茶をしなければここまで寝込むことにはならないんだからと何度注意しても、彼は同じことを繰り返す。さっぱり学習しない独歩に、その度、もう愛想をつかした、看病なんかこれっきりしない、と花袋は思うのだが、同じ会派で潜っていても、いなくとも、また彼が倒れたと聞けばこうして医務室を訪れ、一晩付き添ってしまう。必然、眠る彼を前にしている時間が増える。そういう時、決まって花袋は考える。
 この幻の熱は、一体どこから来るのだろう、と。
 森の仮説のとおりだとすれば、彼の死因である結核の熱の記憶であるとあたりを付けることもできるが、物の本によれば結核とはそう高い熱を併発するものではないという。花袋の記憶にも、あの頃の独歩は微熱に浮かされていたことはあっても、高熱で眠り続けているような印象はない。かといって、もしかしたら花袋の知らないところでそういうこともあったかもしれぬ、と思えば、森の仮説を否定する気は起きなかった。
 そうでなく、いや、そうあるうえで、花袋にはこの熱が、彼自身に由来するものであるように思えてならない。どうしても消えねばならぬ命の火が、燃え尽きたくなくとも尽きなければならないときに、轟々と音を立てて天を焦がせと立ち上る、畦火のごとき大きな火のように思えてならない。
 そうであれば、彼の幻肢とは、失ってなお痛むのは、決してあの病ではなく、彼が使おうとした命数のぶんの、行き場の無くなってしまった情熱ではなかろうか。
 そう思うから、花袋は独歩を慰めることができない。ただの病の記憶であればよかった。そうであれば、「お前を脅かすものはもうどこにもないよ」と気休めを言うことができたかもしれないのに。お前がお前自身の劫火で焼かれているというなら、それこそどんな薬でも癒えない瑕のようなものじゃないか。

 夜は更ける。何もせずとも更ける。益体のないことを考えるのをよして、花袋は彼の熱が冷めていくのを、まんじりともせずじっと見ていた。

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