傷あと

2,269 文字

5

 非常に強い勢力を保って本州に上陸した台風は、ここ帝國図書館にも小さくない爪あとを残していった。本館のステンドガラスが割れる被害、庭木の折れる被害、中庭の池の増水する被害……そのどれよりも深刻だったのが、文豪寮の屋根瓦や窓の被害である。
「絶対いつかこうなると思っていた」
 嵐の翌日、住人達はしたり顔で頷き合った。老朽化が激しく、ちょっと普段より激しい雨でも降ろうものならあちこちで雨漏りする建物なのだ。台風前夜には有志による対策委員会があちこち補強して回ったおかげで、人的被害こそ出なかったのは不幸中の幸いだった。住むのには問題ないのだから、と予算の出し渋りを続けてきた中央政府も、さすがにもう見て見ぬ振りはできまい。
 ——が。
「修理が入るまで一週間だって?」
 今、花袋の部屋には折りたたみのベッドが持ち込まれ、ただでさえ狭い室内をさらに圧迫していた。もともと単身職員用の宿舎だったのを転生文豪に使わせているものなので、かろうじて一人部屋の体裁は整っているがそう贅沢な作りをしていないのだ。
 その折りたたみベッドに、自室から持ち込んだ掛け布団を敷いて満足そうにしている友の姿を、花袋が複雑な表情で自分のベッドの上から眺めている。
「自分たちで直したほうが早いんじゃないか?」
「市内いたるところで被害が出たみたいだから、物資が足りないらしい。まあ、一週間の辛抱じゃないか」
 主に被害を被ったのは文豪寮のなかでも最上階部分だった。修理が済むまでの間、最上階の住人は各々身近な友人の部屋に寄宿する運びになったのだ。
「早く直ればいいけど」
「旅行のようで楽しいじゃないか」
「お前はそうだろうけど、俺は自分の部屋だもん」
 花袋と枕を並べて寝るのなんていつぶりだろうか。転生以来、お互いにお互いの部屋を行き来することはあっても、寝泊まりまですることはなかった。洋室でベッドが各部屋一台しかないのだから当然だし、いくら夜遅くなったって同じ建物内に部屋があるのだからわざわざ余所に泊まる必要はない。
 こんなことがなければ訪れない機会に、独歩は自分の部屋の窓が吹き飛んだことなどすっかり忘れて却って上機嫌だというのに、花袋はそうは思わないようだ。さっきからどうも態度が煮え切らない。
「じゃあ修理が終わったら、今度はアンタが泊まりに来いよ。このベッド、また借りてさ」
 なかなか良い思いつきだと思ったのだが、花袋はそれにも乗ってこなかった。苦笑がちに断られる。
「別に、いいよ。俺はここで。……もう寝ようぜ」
「もう?」
「おれはお前と違って早寝早起きなの。それに、明日も朝一で潜書だし」
「それなら仕方ないか」
 釈然としない感は残ったが、潜書を持ち出されたら引き下がるしかない。寝不足で怪我でもされたらたまらない。
 互いにおやすみを言いあって、豆電球を残して灯りを落とす。自分にしたらまだ寝るには早い時間、寝付けなければデスクランプを借りて読書でもするつもりだったが、灯りが消えるととろとろと眠りの気配が迫ってくる。敢えてそれに抗うことはせず、重たくなった瞼を閉じる。直前に横目で窺った隣のベッドには、花袋の背中が見えるばかりだった。

「どっ、ぽ……独、歩——……、」

 夜半。
 名を呼ばれた気がして、目が醒めた。
 豆電球一つの灯りも、外から聞こえる虫の声も、寝る前と何一つ変わっていない。きっとまだ真夜中だ。
 布団の中で体を起こす。声はすぐ隣から聞こえていた。
「独歩……」
 寝る前にはこちらに背中を向けていた花袋は、いまは仰向けに、わずかに布団をはだけて寝ていた。その口から譫言のように、自分の名前が漏れている。
「なんだ、寝言か」
 一体どんな夢を見ているのだか。隣で寝ているというのに、夢の中でまで一緒にいるのだとしたら、なかなか面映ゆい。
 その布団がはだけているのが気になって、起こされたついでにと独歩は床に足を下ろした。床のひやりとした温度がつま先に伝わる。
「独歩、——」
「はいはい——っと、寝言に返事はいけなかったか?」
 誰も聞いていない軽口を呟いて、はだけた布団に手を伸ばし、
「——ごめん」
 触れる直前で、手が止まった。
「ごめん……ごめんな……会いにいけなくて、ごめ……」
 彼の眉が苦しそうに寄っているのに、肌にびっしりと汗が浮いているのに、独歩はその時ようやく気付いた。一歩、二歩、後じさると膝裏に自分のベッドが当たる。そのままそこへ座り込み、独歩は伸ばし掛けた手を自分の胸元に引き寄せる。
「……ごめん、ごめんなあ」
 相変わらず、花袋の口からゆくあてのない謝罪の言葉が漏れている。白けた静寂を、秋の虫が埋めてくれるのが唯一、救いのように思われた。
 もしかしたら、全く違う夢をみているのかもしれない。でもきっと、そうではないのだろう。自分の期待を自分で否定する、その理由は寝る前の花袋の煮え切らない態度だった。未だ夢に見ていると自覚があるから、同じ部屋で眠りたくなかったのだ。
「ごめん……独歩」
「……っ」
 もういいよ、と答えられたらどんなにいいか。寝言に返事がいけないからでなく、その許しの言葉が彼にとってなんの意味も持たないことを知っているからこそ、独歩はなにも言えなかった。代わりに浮かぶのは、八つ当たりのような文句だ。
「まだ、直らないのかよ……」
 割れたガラスのように、飛んでいった瓦のように、直せるものなら直してやりたい。足りないものがあるなら探してやる。手が必要なら貸してやる。だが、きっとそういう問題ではないのだ。
「さっさと直っちまえ」

関連小説

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です