誰がために花は咲く

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ある老人の話

 一面の花畑。
 二重、三重に連なる丘の上に、果てしなく花が咲いている。風が吹くたびに一斉に揺れる様は、まるで花の海にいるようだった。
 ある春の日のことだった。白く霞む空の下、遙か彼方にグランヴェル城の青い屋根が見える。中央の国の首都郊外に位置するこの丘は、近年市民の憩いの場として有名になっているという。朝早い今時分では、まだ訪れる人も居ないだろうか。かつて負った《大いなる厄災》の《奇妙な傷》のせいで、カインには触れるまで人の姿が目に見えない。《傷》との付き合いが長くなるにつれ、目に見えずとも人の存在は感じられるようになったが、この広さではさすがにすべてを把握するのは難しい。
 悪事を働くわけではないので人に見られてまずいことはないが、なんとなく後ろめたく感じる部分もあり、カインは悪あがきのようにぐるりとあたりを見回した。耳を澄ませば、空高く飛ぶ鳥の声。風のざわめき。葉擦れの音。そこに、ざ、と草を踏む足音を聞き取って、カインは勢いよく振り返った。ただの足音ならそうはしない。なにかに足を取られたような、危うい足音だったからこそだ。
「……っ、」
 カインは瞬き一つの間に、足音の聞こえたあたりまで魔法で体を移動させた。見当をつけた場所に咄嗟に手を差し出すのと、カインの視界に人の姿が目に映るのは同時。白髪の小柄な老人が、カインの腕の中に倒れ込んでくるところだった。
「お……おや、おや?」
「大丈夫か? 怪我は?」
 毛糸の帽子を被り、色眼鏡をした老人は、皺だらけの顔をさらにしわくちゃにして、カインを見上げている。
「こりゃ驚いた。誰かいるとは思わなんだ。いや、失敬。ありがとうさん。おかげで転ばずにすんだわい」
「慌てて《跳んで》きたからな」
「ほんとに飛んで来たみたいじゃの。足音もしなかったから」
「……?」
 会話が微妙にかみ合っていないことにカインが首を傾げていると、老人がおずおずと声を上げた。
「すまんが、儂の杖はどこじゃろか。あれがないと立てんもんでな」
 言われて気づいたが、老人の杖の持ち手はちょうどよく、カインの腕に引っかかっている。手を差し出したタイミングがよかったのだろう、老人の目と鼻の先だった。
「ここにあるぞ?」
「すまんのう。病気をしてから、目が悪くての。おぬしの顔もよく見えんのじゃ」
「そうか、それで」
 それで、カインが魔法を使ったところも、老人には見えていなかったのだ。徐々に魔法使いへの忌避感は減ってきているとはいえ、人によって、とくに上の世代では、まだまだ偏見も差別も根強い。
 だからというわけではないが、カインは己が魔法使いであることを、黙っていることにした。今更言い出すことでもあるまい。
 杖を手にした老人がしっかりと地面に足を着いたのを確認して、カインはようやく手を離した。見かけの割に腰はしゃんとしているが、目の不自由なご老人が一人でこの丘を登ろうというのはいささか危うい気がして、カインはそっと申し出た。
「もし丘に登るなら、一緒に行こうか?」
「そりゃあありがたい。いつもは息子夫婦か孫夫婦か、だれか付き合ってくれるんじゃがね。今朝はみな忙しいでの」
「じいさん。家は近いのか?」
「ほれ、そこの農場だよ」
 枯れ木のような指がさしたのは、老人が元来た道の先。王都とは丘を挟んで反対側、のどかな田園地帯が広がっている。なだらかに続く坂の下には、牧場らしき広大な敷地と、大きな家畜舎、それに赤い屋根の小さな家が並んでいる。
「ところで、あんたは王都の人かい? 丘に来るのは初めてかの?」
「いや——」
 今度はカインが質問される番だった。急に問われて言葉に詰まる。魔法使いであることを黙っていることにした以上、本当のことは言えなくて、しかし嘘を吐くのも性に合わない。
「——何度か来たことがある。いいところだな、ここは」
 ごまかすように口にした言葉に、だが老人はしたり顔で頷いた。
「そうじゃろう、そうじゃろう。儂にはもう見えなんだが、今年も丘一面花が咲いて、それは見事なものらしいの。じゃがなあ、儂の若い頃は、このへん一体、ただの草野っ原じゃった。牛や羊を連れて、よく放牧に登ったものじゃった。それが、どうしてこんなことになったのか、知りたいじゃろう?」
 知りたい、以外の答えをまるで予想していない好々爺然とした笑み。断ることはできそうにない。
「親切な方。教えてやろう。この花の丘の生まれたわけを。始まりは、王都に月が落ちた夜。《大いなる厄災》の、最も被害の大きかったあの年。——いまから百年も昔のことじゃ」

ある青年の話

 久しぶりの二日酔いだった。
 街を出た幼なじみが久しぶりに戻ってきた、その再会を祝す席だった。羽目を外した自覚は、もちろんあった。青年は自分の体質を恨む。どれほど前後不覚に酔おうとも、酔っている間の記憶を失ったことがない。知人友人には羨ましがられ、実際そのおかげで助かったことも数多いが、今日ばかりはただただ恨めしかった。いっそすべて忘れてしまえたらよかったのに。
 目が覚めた瞬間から止まない頭痛、昇ったばかりの朝日が容赦なく瞼に突き刺さる。昨夜の記憶も相まって体調は最悪だ。できたら昼過ぎまで布団を被ってふて寝したい気分だが、いい歳した跡取り息子を黙って甘やかすような親父ではない。日の出とともにたたき起こされ店内の掃除に薪割りにと立ち働けば、あっという間に開店時間がやってくる。重たい体を引きずるようにして店を開け、前の通りを掃き掃除していると、
「おはよう!」
 朝からちょっとどうかと思うくらい元気な声で挨拶されて、青年はびくりと肩を揺らした。
「カイン……おはよう」
 恐る恐る振り向けば、朝日に負けず劣らずの眩しい笑顔を浮かべた幼なじみが、こちらに向かって手を掲げてみせた。こんな朝からハイタッチ? 昨日も会った瞬間求められた。栄光の街では聞かないが、王都あたりの流行りだろうか。とてもそんな気分ではなかったが、敢えて無視するのも大人げない。しぶしぶパチンと手を合わせると、至近距離で目が合った。
「ちょうど店が開くところが見えたから、パン買いに来た。偉いな、親父さんの手伝いか?」
「偉いって歳かよ。……早く一人前になってもらわないと困るって、散々せっつくくせに、なかなか店を譲らないんで、困ってんだ」
「はは、親父さん、元気そうで何より」
 金の瞳と、髪の間から覗く色違いの瞳。どうしても見慣れない色彩だ。青年は店の中に戻る素振りでそっと目をそらす。
 風の噂に聞いてはいたが、彼が「こう」なってから、面と向かって再会するのは五年ぶりだった。騎士団を追い出された時も、賢者の魔法使いに選ばれた時も、街で彼の姿を見ることはなかった。あの未曾有の《厄災》のあった年以降、少しずつ街に顔を出すことが増えて、ちょうどいい頃合いなんじゃないかと話が持ち上がったのは、つい最近のこと。仲間内でも、しばらく気まずい雰囲気があったのだ。
 カインが魔法使いであることを、幼なじみである自分たちはずっと前から知っていた。河で溺れかけた友達を救おうと、彼が魔法を使うところを見たからだ。だが、そのことを、仲間内で敢えて黙っていようと示し合わせたこともなければ、そのことが話題になったこともない。だから、どうして皆が黙っていたのか、その理由を青年は知らないし、青年の理由もまた、誰も知らない。
 気まずさの理由は、もしかしたらそのあたりにあったのかもしれないが、それも昨夜で終わったこと。そのはずだった。自分が、あんな失言さえしなければ。
 カインを連れて店内に戻りしな、青年は意を決して、だが表面上は何の気無しを装って、良い天気だなと言うのと同じ調子で、振り向きもせずに切り出した。
「昨日のあれは、あー、その、忘れてくれ」
「昨日の?」
 ぴん、とコインをはじく音。ぱしんと手がそれを掴む音。それでパンを買うつもりなのだろう。昔から、ナイトレイ家の朝食はうちのバゲットと決まっている。その音に気を紛らわせながら、青年は続けた。
「酔ってたんだ。冗談なんだよ」
「何の話だ?」
「……魔法使いになりたかった、ってやつ」
 コインをはじく音が止んだ。一瞬の静寂。青年はまくし立てるように言った。
「冗談、じゃなきゃ、ガキの戯言。本気にしないでくれよ。ちょっと、口が滑って……じゃないな、違う。そう、昔の話だよ。思い出話のついでに、思い出しちまっただけでさ。だからさ、本当に、忘れて」
「俺は」
 やさしげな声が、柔らかく青年の声を遮った。とっさに背後を振り返る。顔は見られなかった。落とした視線の先、店の入り口で足止め食らったブーツが、朝の日差しにぴかぴかと光っている。
「嬉しかったよ。俺は。そう言ってくれて」
 翻って、青年の足下は、青い影の中に埋もれていた。
 それが青年の理由だった。彼が、カインを魔法使いだと告発しなかった理由。仲間の誰にも黙っていた理由。気まずさの理由。
 なんとなくこうなることがわかっていて、青年はそれでも否定した。
「お前に言ったってしょうがなかったよな」
「しょうがない? どうして」
 カインは青年を励ますように、再度繰り返す。
「俺は嬉しかったのに」
 店の奥から、パンの焼けるいい匂いがする。青年にとっては、現実と日常の匂いだ。胸焼けがするような、変えられない、現実の匂い。
 青年は言いかけた言葉を喉の奥に飲み込んで、今度こそカインの顔を振り仰ぎ、無理矢理にでも微笑んだ。
「それなら、いいけどさ」
 ——お前にはわからないだろ。
 そう言う、代わりに。

ある花嫁の話

「私にも、魔法使いになりたいって思ってた時期があったわ」
 今日という日にこんな話をするなんて、思ってもみなかった。
 私は感慨深い思いで目の前の男に話しかける。彼は笑っていたが、私の目には戸惑っているようにも見えた。どうして良いかわからないときに気弱なご婦人が浮かべるような、曖昧な笑み。なぜ? たまたま通りがかった街の教会で、たまたま開かれていた結婚式の新婦に、たまたま話しかけられたから? 彼の元に飛んでいったブーケを、魔法でたくさんの花びらに変えて、大勢の招待客の上に降り注いだのは彼なのに?
 結婚式場は歓喜の悲鳴に包まれて、招待客もそうでない人も混ざり合っての大騒ぎ。「必ず私のところによこしなさいね」と念を推していた親友にはこっそり睨まれたけれど、逆にお手柄だったと、私のノーコンを褒めてもらいたいところ。
 魔法使いなんて、と顔をしかめる人もいなくはないけれど、それは私の母親か、もっと上の世代だけ。あの未曾有の大災害を引き起こした《厄災》の夜から十数年。魔法使いに対する世間のイメージは変わった。嘘つきで、信用のおけないお邪魔虫から、世界を救った英雄へ。
 だからなおさら、彼がなぜ戸惑うのかわからない。一つに結んだ赤い髪を肩に垂らし、黒い衣装に身を包んだ彼は、魔法使いというよりも、まるで騎士のように素敵なのに。
 不思議に思いながらも私は続けた。
「そういうのって、誰でも通る道じゃない? 背中に翼が生えてこないかしら、とか、いつか王子様が迎えに来ないかしら、とか」
 あなたもそうでしょ、と問いかけた相手は恋人、いいえ、今日からは旦那様か。かれは私の方を見もせずに「そうかもね」なんてありきたりな相槌をした。かれったら、私が急に現れた魔法使いに取られてしまったのが面白くないのかしら。つまらないなら余所でお友達とお話でもしてくれば良いのに、私の横から離れようとしないのは、私が本当に取られてしまわないか心配だから?
「ねえ魔法使いさん。あなたはどう? ……って、あなたに聞いても仕方がないわね。魔法使いは、元から魔法使いなんだから」
 再び魔法使いと話し始めた私を、かれがじっと見つめている。その視線に含まれるある種の嫉妬を心地よく感じながら、私はもう少しおしゃべりを楽しむことにする。心配することなんてないのに。だって魔法使いは、年頃のレディに、というよりもまるで、おしゃまな女の子でも相手にしてるみたいな表情をしてる。
「そんなことはない。俺にも憧れはあったよ」
 だから私も、敢えて年長の親戚に話しかけるように無邪気に問い返した。
「へえ、どんなの?」
「騎士になりたかった」
「騎士に?」
「ああ」
 真面目くさった顔で頷くので、私はとうとう吹き出した。
「あっはは、面白い!」
「どうして笑うんだ」
 すねたような声に、ますます笑いそうになって、さすがに失礼かと姿勢を正す。目尻に浮かんだ涙を拭うのはいいでしょう?
「だって、あなた、それは全然違うもの。魔法使いは騎士になれるわ。実際、魔法使いの騎士団長だっていたみたいだし。あれ、今もお城にいるんだっけ? まあ、どちらでもいいけれど。あなただって、今からでも騎士様になれるわよ、きっとね」
 格好はもう立派な騎士様みたいなんだし、と付け加えると、彼は微妙な顔をして黙り込んだ。魔法使いって、もっと人間離れしているものかと思ったけれど、こうしてみると案外普通。笑ったり、怒ったり、普通の人間みたい。
 でもね。
「でも人間は、魔法使いにはなれない。背中に翼だって生えてこないし、普通の人には、王子様が迎えに来たりもしない」
 そこで、ようやく、私は横のかれの腕を取った。興味ないふりしながらも、耳だけはずっとこっちを向けて、私の話を聞いていたかれ。
「代わりに、この人が迎えに来てくれたんだから、いいんだけどね!」
 急に腕を引かれて目を白黒させているかれと、してやったりとにやにや笑う私を見比べて、難しい顔をしていた魔法使いは、相好を崩してようやく心からの笑みを浮かべた。
「なんだ、ただののろけか!」
「そうよ、のろけよ。だって今日は私たちの結婚式なんだもの!」
 あはは、と大口開けて笑った魔法使いが、それじゃあ、と言って口の中で呪文を唱えると、何もない場所から急に空に花火が打ち上がった。昼間だというのに綺麗に上がる魔法の花火。火花の代わりに降ってくるのは、色とりどりの花びら。それを見て、またあちこちから上がる歓声。教会前の混乱は、まだまだ収まりそうにない。
 私はかれの手を取ったまま花の下へと誘い出す。かれもまた、私の腰を抱いて誘いに乗った。道のあちこちで輪ができる。招待客もそうでない人も、輪になって踊り出す。
 ねえ、あなたも、踊りましょう?
 そう言うつもりで振り返った先。
 魔法使いの姿は、もうどこにも見当たらない。

ある悪党の話

 グランヴェル城の南の塔の地下には、魔法使いを閉じ込める牢獄がある。
 そんな噂を聞いたことがあるが、実際には魔法使い以外も入れられるらしいと、男はその身をもって知った。もしかしたら魔法使いとでも思われているのだろうか。魔法科学が発達して、今や魔法と魔法科学はほとんど見分けが付かなくなった。手のひらに隠せるほどの大きさの装置で、遠くの物を引き寄せたり、自分の姿を見えなくしたりできる。
 そうやって、男は悪事をはたらいた。それ故の投獄だった。
 こつ、こつと足音がする。聞き飽きた看守や警邏の靴音ではない。もっと上質な靴の音。男は声を振り絞って、何度目かの大声を上げる。
「おれぁ何も悪いことなんてしてねえ! 魔法使いがやってることを同じようにやっただけだ!」
 こつ、こつ、こつ。足音は次第に近づいてくるが、足音の主の姿はまだ見えない。そのことに気を大きくして、男はさらに喚き続けた。
「魔法使いなら誰でもやってることを、なんでおれがやったらいけねえってんだ! 嘘つきの魔法使い! いい加減な魔法使い! 人間ばっかり、こんな目に遭うなんて、ずるいじゃねえか!」
 こつ、こつ、こつ。こつ。
 足音が止む。か細い蝋燭の明かりが、よく磨かれた革のブーツのつま先を照らした。男はそこから徐々に視線を上げる。重たげな剣の鞘。暗闇に溶け込むような黒い騎士服。白いマント。赤い髪。黄色い目をした、年若い青年の顔。
 現れたのは見紛うことのない騎士の姿であるが、ふと男は訝しむ。果たしてこの国の騎士はこんな服装だったろうか。だが、牢獄に足を運ぶのは、獄吏か騎士か、そのくらいしか思い当たらない。
 青年は立ち尽くしたきり、何も言わずにこちらを見下ろしている。能面のような白い顔。唇を引き結び、僅かに眉根を寄せている。先ほどまでのわめき声が気に触ったのだろうか。それなら鞭でも罵声でもくれればいい。こちとら牢屋にぶち込まれているのだ。今更怖れるものなどさほどない。
「なんだよ。なんか文句でも?」
 おざなりな態度で顎をしゃくって問うてやる。十分な間を置いてから、騎士はおもむろに口をきいた。
「——お前は魔法使いになりたいのか?」
 にやり、男は黄ばんだ歯を見せつける。
「ああ、なりたいとも! 魔法がつかえりゃあ、なんでもかんでもやりたい放題! 土くれを金塊に変えて、葉っぱを札束に変えて、働かなくてもすぐ大金持ちさ!」
「そんな理由で——」
 口角からつばを飛ばして、男は青年が何か言うのを遮った。
「ああ? そんな理由だぁ? 十分な理由じゃねえか。生きてくには金が必要なのさ。汗水垂らして働いて、これっぽっちの小銭を手に入れるのに、どんだけかかると思ってる? 働いてるだけで人生終わっちまう。そんなのは大損だ。生まれてきた意味がねえ。ただ魔法使いに生まれたってだけで、あいつら人生得してるのさ。だって魔法さえあれば働かないでいいんだからな。それならみんな魔法使いになりたいに決まってる!」
「皆が皆、そんな風に考えてるわけじゃない!」
 さきほどよりずいぶん大声を出した騎士に、男はますます調子に乗った。苦労なんて知らなさそうな澄まし顔を、もっと歪ませてやりたかった。
「はっ、なんだ? お綺麗な騎士様は、そんなこと考えたこともないってか。騎士様ともなれば、魔法使いになりたいなんて、思ったりしないのかもな」
 次の刹那だった。
「《グラディアス・プロセーラ》!」
 突然、激しい風の音が狭い牢獄を覆い尽くした。喉が苦しくなる。まるで見えない手で首を掴まれたように、息ができない。空気が、顔の周りから逃げていく。苦しみのあまり見開いた目が、騎士だと思い込んでいた青年を捉える。渦巻く風の中心で赤い髪が浮かび上がっている。その下に、爛々と血の如く輝く瞳が見えた。
「あんた、魔法使いか……!」
 絞り出すようにして上げた呻き声が届いたのか、ふと青年の目に理性の光が戻る。途端、青年を取り巻いていた風が止み、禍々しい色をした瞳は赤毛の下に隠され見えなくなる。ごうごうと鳴っていた風の音は消えてなくなり、いつの間にか呼吸ができるようになっていた。
 男は冷たい牢獄の石床に這いつくばって激しい咳をした。痰と共に口の中のつばを吐き出す。それでもぜえぜえと喉が鳴る。
 青年は何も言わずにその様子を見ている。見られている、とわかった上で、男は冷笑を取り繕って、青年を見上げた。
 どんな言葉が一番効果的に彼を傷つけるのか、なぜだか男には手に取るようにわかったのだ。
「なあ。あんたたち魔法使いに、俺たち人間のいったい何がわかるってんだ?」

ある少年の話

 あ、と思った瞬間に、もう風船は手を離れ、青空へと昇っている。
 中央の王都、一年中お祭りでもしているかのようなバザールの一角から、少し離れた噴水広場。そこに、悲痛な泣き声が響き渡った。
 片手にアイスクリームのコーンだけを持ち、もう片手でショートパンツの裾を握りしめた泣き声の主は、隣の母親になだめられながら今もひっくひっくとしゃくり上げている。
 右手に持ったアイスクリームが垂れそうになって、両手で支えようとしたせいで、左手で握っていたひもが外れてしまった。呆然と空を見上げ、遠ざかっていく黄色い風船を為す術もなく見送っていると、その間に、今度は溶けかかったアイスクリームがどろどろと手を汚し、しまいにはぽちゃんと噴水の中に落ちてしまった。
 言葉にするとこのような状況だが、少年にはもう、なにが悲しくて泣いているのかもわからない。ただ、どうしようもなく自分が悪いことだけはわかっていて、それでなおさら涙が出るのだ。
「あ……っ、う……」
 わあああん、と再び上がった泣き声に、隣の母親は困ったような、仕方ないような顔をして、汚れた手をハンカチで拭いてやっている。もう泣かないの、アイスならまた買ってあげるから。そんな風に宥められても少年は泣き止まなかった。だってあの風船は、最後の一つだったのだ。最後の一つを、きみにあげる、とお店の店員さんがくれたのだ。アイスはもう一度買えるかもしれないが、風船は戻ってこない。
 いつまで経っても泣き止む様子のない少年を、ここにいるように言い含めて、母親はもう一度アイスを買いにバザールの中へ戻っていく。一人残された彼は、泣きはらした瞳で、未練がましく空を見上げた。
 青空を、大きな鳥の影がひとつ横切る。
 太陽を反射して一度、ぴかりと光った。
「……?」
 あんまり泣きすぎたせいでピントの合わない瞳を、少年は空いた手でこすってみたけれど、見えるものは変わらなかった。鳥の影がどんどん大きくなっている。
 大きくなっているのではなく、近づいてきているのだということ。そして、それが鳥ではないということに気がついたのは、もう影が間近に迫ってからだった。
 箒に乗った、黒っぽい服を着た、赤い髪の男の人。
 黄色い風船を持って、ふわりと噴水の中央に降り立った。
 彼が足を下ろしたとたん、吹き上がっていた水が止まり、噴水広場は静まりかえった。同時に人々のざわめきもぴたりと収まる。
 そんな静寂を気にもせず、明るい声が降ってくる。
「さて、だれの風船だろう?」
 その場にいる全員が、さっきまで大声で泣いていた少年を見ていた。だというのに、その誰とも目を合わせずに、彼はわざとらしくその場であたりを見回している。
「ぼくの、です」
 おずおずと少年が声を上げると、ぱっと振り向いた彼は、一足飛びで少年の目の前までやってきて、片膝をついて手を差し出した。
「きみのかい?」
「……うん」
 頷いて、少年は手を差しのばす。ちょん、と手と手が触れた途端に合った目の色が、風船とおんなじ色をしていることに、少年だけが気がついた。
「もう離さないように、結んどいてやろう」
 差し出した手首に、きゅっと輪になった紐がちょうどよい塩梅で結ばれる。それを少年は、口を半開きにして見守った。
 風船が手元に戻ってきても、少年はまだ信じられなかった。なくしてしまったものが帰ってくるなんて、一体どんな奇跡が起こったのだろう。それはまるで、まるで、——
「ま、魔法使い!?」
 驚きと、僅かな怯えを含んだ声が、静寂を破る。振り返ると、アイスを買いに行った母親がちょうど戻ってきたところだった。
「ああ、お母さんが戻ってきたのか」
 そう言って彼は立ち上がる。指先一つで何もないところから箒を呼び出して、宙に浮かべる。その仕草と、母親の言葉とで、少年は探していた答えをようやく掴んだ気がした。
 これが、魔法。もう戻らないと思ったものが戻ってくる。失ったものを取り戻す。奇跡なんかじゃない。これが魔法使いの、魔法なのだ。
「あなたは、魔法使いなの?」
 少年が尋ねると、彼はぱちんとひとつウィンクをした。片目は前髪に覆われて見えなかったので、少年には目をつぶったようにしか見えなかったけれど。
「それじゃあな」
「あ、あの!」
 魔法使いはもう、箒の上。母親が走ってくるより先に、空へと浮かぶ。坊や、心配したわ、何もされてない? 少年を抱き締めて、矢継ぎ早に問う母の腕から、少年はどうにか空を仰ぎ見る。
 そして、今にも飛んでいこうとする彼に、大声で叫んだ。
「ぼく、大きくなったら、魔法使いになりたい! ねえ、どうしたら魔法使いになれるかな!?」
 返事はなかった。
 黒い影はそのまま空高く舞い上がって、やがて遠くへ消えていった。

再び、ある老人の話

「あれは、魔法使いだったんじゃろうな。何年も何年も、毎年同じ時期に花を持って丘へ登る、その姿がちっとも変わらない。十年が経ち、二十年が経ち、三十年、四十年経っても、毎年彼は訪れた。そして花を手向けていった」
 緩やかに続く上り坂は、ついに平らかになろうとしていた。老人は踏みしめた足の裏の感触で、それを敏感に感じ取る。何度も、何十回も、何百回も登った丘の道。盲いた今でも目の裏に光景が浮かぶ。
「五十年経つ頃には、もうすっかり花は根付いていて、丘一つ、まるまる花に埋もれたのはその頃じゃ。六十年。七十年。花の種が風に運ばれて他の丘にも広がった。八十年。九十年。儂の目が見えなくなったのはこの頃じゃが、花は毎年変わらずに咲いているのじゃろう。そうこうしているうちに、百年」
 老人の耳に、風に揺れる梢の音が聞こえてきた。それが、到着の合図だった。
「ほぅら、見えてきたじゃろ。あの木じゃ。あの木の根元のところじゃ。毎年毎年、魔法使いが花を供えていったのは」
 今まで黙って話を聞いていた、名も知らぬ青年の足が止まった。まだ木までは距離があるはずだ。そんなところで止まる必要はない、と言いかけて、老人はふと言い方を変えた。
「ほっほ、別に曰くのある場所でもなんでもない。ただの木と、木の根っこがあるだけじゃよ。墓があるでもなし、人が埋まっているでもなし。じゃが、なあんであの魔法使いは、こんなとこに花を供えたか、それはわからずじまいじゃ。一度くらい、聞いてみればよかったかのう」
 老人はそう言ったが、そんなことはできやしなかっただろうと記憶の中を掘り返す。初めのうちは、花が供えてあることに、後から気づいて「おや?」と思うだけだった。一体誰がそんなことをしているのかと、ふと気になって丘の上を見張るようになったのはある年のこと。牛を追うふりをして、日がな丘に居座って、ようやく見つけたその人は、花を供えた木の根元に腰掛けて、黙って空を見上げていた。興味本位に声を掛けることすらためらわれる、寂しそうな横顔だった。
 一体何が見えるのだろうと、次の日に同じように木の根元に腰掛けてみても、空と、雲と、遠くの山と、青い屋根のお城が見えるばかりで、なにも特別なものは見えなかったと、老人は記憶している。
 何も特別でない風景。
「……ああ」
 老人は唐突に思い出した。
 ただの野っ原でしかなかった頃に、この丘から王都を見下ろしていた人が、そういえばもう一人いたことを。
「儂の思い出話を、もう一つ聞いてくれんか、お若い人。すっかり忘れていたがの、野っ原でしかなかった頃のこの丘に、好んで登る人がもう一人おったんじゃ。儂がまだ三つか、四つの、ほんの小さな子供だった頃。王都から馬に乗って、ここまで遠駆けに来る方がおったわ。子供相手に名乗りなどせんかったが、あれは王都の騎士様だったんじゃろうな。立派な服を着て、立派な馬に乗っていた。ここから見る景色が好きだと言っておった。この国の首都を一望できる、この丘が好きだと言っておった。何度かお会いした記憶があるが、……ぱったり姿を見なくなって、考えてみれば、それからじゃなあ、あの魔法使いが花を供えに来るようになったのは」
 老人の中で、思い出が一つに繋がった気がした。
 だが、今となっては確かめるすべもない。すべては老人の想像の産物であり、——それに、真実が何であるかは、さして重要なことでもないのだ。
「ご老人」
 青年の声がして、老人の意識は過去から現実へと戻ってくる。僅かに光を感じるだけの白い視界に、黒い影が映る。青年の影だろう。
「この花は誰のために咲くんだろうか」
 老人には青年の表情が見えない。今日会ったばかりの彼の表情を、想像で補うのは難しいことだ。だが、奇妙なことに、老人には彼の顔が見える気がした。なんのことはない、いつか見たあの魔法使いの横顔に、記憶を重ねているだけだった。
 あの寂しげな横顔を想起させる、途方に暮れたような声。
「死者の慰めのために咲くのだろうか。生者の償いのために咲くのだろうか」
 老人が想像したような花束の由来を、話を聞いていた青年も思いついたのかもしれないな、と思った。丘一面に咲く花を、無邪気に楽しむには重い話になってしまったから。あるいは、青年自身にも、なにか思うところがあるのかもしれない。花の咲く理由を誰かに問いたくなるような、なにかそういう事情が。
 老人は敢えて突き放した口調で答えた。
「花は己のためにしか咲かんわ。誰かのためになんて、考えて咲いたりせん」
「そりゃ、そうかもしれないが……」
「ほっほっほ」
 肩すかしを食らったような、力の抜けた声。その方がずっと青年らしいと、なにも知らぬ老人は無責任に笑う。
「じゃがな、一つ言えるのは——花の咲く意味を問えるのは、生きている者にしかできぬことじゃ。だから、問い続けなさい、お若い人」
「そう、するしかないのかな」
 青年の影が空を振り仰ぐ。
 老人は濁った瞳を、僅かに光の方へと向けた。
 そして、想像する。
 春霞の空に青い陰影を描く山々。平地を埋める無数の建物。その中で一際目立つ、青い屋根の立派なお城。草野っ原の丘に立つ一本の木の根元から、色とりどりの花が咲き広がって、いつか世界を埋め尽くす。そんな、ありもしない風景を想像する。
 誰かの思いを種に、花が咲く。そんな未来を想像する。

 木の根元には、いつの間にか、真新しい花束が置かれている。

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