夜明け

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 夜は、まだ明けてはいなかった。
 霞んだ視界に映り込んだ医務室の天井は薄青く染まっている。だが壁時計の針を読むには不十分だ。今は一体何時だろう。横になったまま花袋はぼんやりと考えた。常夜灯はいつの間にか消えていた。
 普通の目覚めとは違う、唐突に海の底から浮かび上がるような覚醒は、補修完了の合図だった。最近新たな有碍書が発見されて、練度の高い弓文豪が交代でまた会派に招集されることなり、今回は自分と独歩の番だった。結果、二人揃って耗弱まで追い込まれるのも久しぶりなら、仲良く医務室送りになるのも久しぶりだ。へんなところで吝嗇の司書が、今日はもう仕舞いだからといって調速機を使ってはくれなかったおかげで、夕刻から今しがたまで夢も見ずに眠る羽目になった。
 そのことに関して、より憤慨していたのは花袋よりも独歩のほうで、自分はせいぜい夕飯を食いっぱぐれたことくらいしか文句はないが、親友はといえば、今夜に読みたい本も聞きたい話もやりたい仕事もあったのにと、眠りに落ちる寸前までぶちぶちと煩かった。横からまあまあと宥めてやっているうちに言葉がほどけて寝言じみていくところは、まるで寝ぐずりする子供のようで呆れた。尤も、侵蝕に神経をやられて弱音ばかり吐かれるよりはよほどマシだったが。
 彼の弱り方は、何というかどうも、胸に来る。いつもは賑やかで不敵な笑みの似合う男が、寂しげな横顔を無防備に晒しているのは、本人より誰より花袋を落ち着かなくさせた。潜書中あるいは潜書後の医務室で、司書や他の文豪もいる中でそんな顔をしているのを見るのは特に居たたまれなかった。彼の弱った姿は、見たくないし、見せたくない。友を庇うのは当然だと思う一方、なぜか気が引けて、「見るな」の一言を口にしたことはなかった。
 さて、その独歩はどうしただろう。もう目が覚めているだろうか。天井を見上げていた視線を隣に向けてみて、花袋はようやく気が付いた。
 独歩がいない。
「……!!」
 当然隣のベッドで寝ていると思い込んでいた姿が見えないことに、波間に漂っていた意識はパチンとはじけ、体が勝手に飛び起きた。
 起き上がってみたところで独歩が見つかるわけでもない。ベッドの向こうに転げ落ちていた、などということもなく、白いシーツの上に夏用の上掛けがわだかまっているのがよりはっきりと目に入るだけだ。
 練度も同じ、侵蝕の具合もさして変わらなかったのだから、補修にかかる時間も同じであるはず。ならば花袋が目覚めるより僅か先に起きて、出て行ったのだろうか。だがこんな時間に? さっきは暗くて読めなかった時計の針が、午前四時を指している見て取れた。いつの間にか目が慣れたのか、それともこの僅かの間にまた夜が一段と明けたのか。
 もしや補修が終わる前に出て行ったということはないだろうか。彼ならやりかねない。立ち上がって、もぬけの殻のベッドシーツに触れてみても、温度の違いはわからなかった。それよりも床板に触れた足の裏が冷たくて靴を履く。独歩の靴は見当たらなかった。
 探しに行くべきだろうか。しかし一体、どこへ? 靴を履いたはいいものの行く当てもない花袋の耳に、その音は飛び込んできた。はっとして振り返ったのは、夜間閉め切られているはずの南向きの大窓。カーテンをよけると、窓は大きく開いていた。ヒグラシの最初の一声がやけに響いたのは、そのせいだった。

 夜半、通り雨があったらしく、窓の下の地面に残った足跡を追って、花袋も窓から庭へと降りた。独歩もまたこのヒグラシの声に誘われて外へ出たとするならば、そう遠くには行っていないはずだ。時間的にも、花袋が目覚めるのとほとんど入れ違いだったに違いない。補修中に抜け出したわけではない独歩を、花袋が心配して探してやる必要は、本来ならば無かった。それなのに、花袋は迷いなく独歩を追っている。なぜ、と自問することもせず。
 空は刻一刻と明るさを増している。群青、うす青、すみれ色。東からほの白く夜が終わってゆく。それに同調するように、ヒグラシの声は次第に数を増し、今は降るように鳴いていた。朝方、眠りが浅くなる時間、寝ぼけ眼にこれを聞いたことがあるような気がする。だが起きて聞くのは初めてだった。
 蝉の声がこだまする庭を、花袋は歩いた。まだだれも起きてこないせいか、ヒグラシの声はすれども静かだ。歩くごとに雨に濡れた草の匂いが立つ。風はないが昼の猛暑が嘘のように涼しい。まるで普段と違う場所のようだ。
 そのせいか、庭の奥に独歩の姿を見つけた時も、なんと声をかけていいかわからなかった。独歩さえも普段と違って見えた。いいや、きっと、花袋自身が普段と違っていた。もうずっと前から、違っていたのかもしれない。
 太陽の光の筋が東の空に零れるのと同時、その日初めての風が吹いた。頬を撫ぜた風の行方を追って走らせた視線の先で、独歩の長い前髪が揺れる。その隙間から秀でた額が見え、次いで白い横顔が見えて、花袋はああ、と呆然のうちに納得した。耗弱した独歩を他人に見られたくないのも、それを口に出せないのも、姿が見えないだけの彼を理由もなく探してしまうのも、全て、
(俺があいつを、好きなせいか)
 ヒグラシの声はいよいよ盛りだ。わんわんと耳鳴りにも似た蝉時雨の下、透明な表情で耳を澄ませる独歩の横顔を、少し離れた場所から、花袋はいつまでも見つめていた。
 夜が完全に明けきるまで、ずっと。

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