春を擬態(まね)る

1,997 文字

4

 春を連れて咲いたはずの梅の花は、だがなかなか散らなかった。そのせいか、ようやく春の気配がするようになった庭はいつまで経っても早春のままである。骨喰を捕まえて、どういうことかと聞いてみたかったが、きっとあの澄んだ星空のような眼差しで見つめ返されるだけで埒が明かないだろう。鯰尾も一緒に呼んでやれば少しはどうにかなるかもしれないが、あいにく彼は遠征で留守にしている。
 遠征といえば、資材の都合で三部隊も同時に出払っていて、今日の本丸はどこかひと気がなかった。先日、ついに暖房用の炭が底をつき、本丸中から苦情が殺到したせいである。今から注文しても間に合わず、ならば自分たちで調達しようということになった。音頭をとっているのは博多藤四郎で、炭の追加購入を見合わせこの事態の原因を作った張本人であるところの長谷部も責任を取って遠征に参加している。おかげで書類仕事を横で手伝うやつがいない。年度末とかいう季節柄、締切の迫る書類が比喩でなく山程あるというのに、である。
 本丸の留守を預かった歌仙兼定が、朝のうちは家事の合間に様子を見に来ていたが、来る度真面目なふりをして机についていたのが評価されたのか、午後になってからぱったり見回りに来なくなった。彼もまた本丸の家事一切を取り仕切る忙しい身の上である。見張りは不要と判断したのだろう。
 そうなると現金なもので、とたんに仕事に身が入らなくなった。今日一日でさっぱり減った気がしない紙の山を前にうだうだと油を売っているうちに、日が傾いできた。日中は陽が差し込んで少しは温かかったのだが、やはりまだ春は遠い。羽織の中に手の先を引っ込めたり、未練がましく火鉢をかき回したりしてみたが、燃え尽きて真っ白な炭がほろりと崩れただけだった。
 今日はここまでと見切りをつけて、気晴らしに庭に出ることにした。無精をして縁側から雨ざらしの草履をつっかけていくことにする。元は誰のものだったか、やたら大きくて歩くのに難儀であるが、散歩には足りる。まず池のほとりまでゆくと、相変わらず梅が満開に咲き誇っている。未だ寂しげな庭の中、主役のような顔をしているが、よく見ると随分散っていた。池に浮いた花びらを鯉が口を開閉しながら追いかけている。
 草履のせいでゆっくりとしか歩けないので、ことさら時間をかけて池の周りを歩いた。その間に、ネコヤナギの銀白色の花穂が柔らかく咲いているのを見つけた。枯れ葉の間でカタクリの花が恥ずかしそうに俯いている。その横でホトケノザとキュウリグサの小花が群れている。また、様々な種類のすみれが三々五々、夕暮れの中に沈んでいる。
 いつの間にか、あたりは薄暗くなっていた。地面ばかり見ていたから気が付かなかった。耳が詰まったような静寂の中、ざわりと何かが揺れる気配がした。顔をあげると、そこはもう庭の一番奥である。少し開けたようになっているその場所に、誰かがいる。
「三日月」
 声はまるで何かに吸収されてしまったように響かなかった。しかし名を呼ばれた彼はゆっくりとこちらを振り返る。青い狩衣が翻り、金の髪飾りが揺れるのが、遠目にもわかった。
 彼は樹の下に立っていた。満開の、桜の樹の下に立っている。
 思わず眼を見張るほどの、春である。いつの間に咲いたというのか、見事というほかない姿である。ほの昏い夕闇の下、びっしりと付いた花びらが、風もないのにざわりざわりと揺れている。その桜の下で、三日月は微笑んだようだった。ますます闇が迫っており、彼が浮かべたはずの微笑みは判然としない。髪飾りが揺れる。満開の桜の花も揺れる。焦燥にかられて、普段上げないような大声で、彼の名を呼ぶ。
「三日月!!」
 静寂が破られた。どっと生暖かい風が押し寄せ、ことさら大きく揺れた桜は端から散ってゆく。否、あれは散っているのではない。飛び立っている。それに気がついた瞬間、体中が総毛立った。花だと思った一枚一枚が、小さな蟲の翅なのである。何千、何万という羽虫が寄せ集まって、まるで桜を擬態していたのである。真の姿を暴かれ、虫達はざわざわと耳障りな音を立てながら、上空へ飛び去ってゆく。蠢いてものがすべて去った時、そこに残されていたのは枯れ木のような一本の木だけであった。
 震える足で無理をして三日月の元まで駆けた。草履が引っかかってつんのめりそうになるが、倒れる前に支えられる。
「なに、そう焦るでない」
 支えられた腕を引くと、いつもののんびりとした口調でたしなめられる。得体が知れないと感じた笑みは、そこにはもう浮かんではいない。
 いつもの三日月であると知って力が抜けた。自立しようと足に体重を掛けたところで、ふと足元に違和感を感じた。覗き込んだ草履の下で桜色の虫けらが潰れて死んでいた。
 ぐうと胃の腑からこみ上げるものを飲み込んで、空を仰ぐと、沈みかけの巨大な三日月が西の空で嗤っていた。

関連小説

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です