暮れ六つ。裏々山に日が沈み、忍たまたちは夕餉を済ませて三々五々部屋に戻り、ある者は自主練に向かい、ある者は明日の予習をする、そんな刻限である。
灯明のかすかな光が照らす文机の前で、手のひらにすっぽり収まるほどの小さな薬壺を持ったまま、雷蔵はもうかれこれ半刻悩んでいた。
一週間ほど前、珍しく風邪を引いて喉の痛みを訴えた雷蔵に、保健委員会委員長の善法寺伊作が処方したのがこの薬壺だった。中身は——はちみつである。
生薬としてのはちみつは、解毒、痛み止めの効用のほか、滋養があって体力回復にも役立つ。薬湯を飲むたびに口直しとしてひとすくい舐めていたが、おかげで喉の痛みはすぐに良くなって、それから余らせたままになっていた。
高価なものであるから余りは返すべきか、あるいは病人の使いかけなど返されても困るだろうか。病み上がりすぐに悩むのに疲れて先送りした問題を、一週間経った今、再び悩み直しているのだった。
「う〜ん……」
壺を傾けると、奥の方ではちみつがとろりと光る。
薬壺に残ったのは半分弱で、その中途半端な量がまた雷蔵を悩ませた。半分より多ければ返した方がいいような気もするが、そこまでの量ではない。かといって無視できるほどの少量でもない。ぜんぶ舐めて片付けてしまうには少し多い。かといって、毎日少しずつというのは、薬を嗜好品として味わうようでなんだか悪い。
返すべきか。食べてしまうべきか。とっておくべきか。あるいは。
「雷蔵」
「うう〜ん……」
「雷蔵、おい」
「どうしようか……」
「雷蔵!」
三度名を呼ばれて、雷蔵はようやっと悩みの深淵から意識を取り戻した。危ない、あと少しで寝てしまうところだった。いつの間に、夕餉のあと出かけていた同室が戻ってきたらしい。
「なに?」
はっとして声のするほうを振り向く。と同時に、こっちじゃなくて、と笑いを含んだ声。
「ほら、こぼれるぞ!」
「えっ、あ、うわ」
指摘されて、慌てて視線を戻す。と、傾けた壺の中身がとろり、指を伝ってこぼれ落ちようとしていた。薬を返すべきか悩んでいた雷蔵は、とっさに懐紙で拭うという選択ができない。腕を逆さにすれば垂れた分を戻せるのでは、なんてまごついていると、横からすっと伸びてきた腕が雷蔵の手首をとった。もう片手で薬壺を取り上げて文机の上に避難させる。次いで、見慣れたきつね色の頭が、肩を通り過ぎて手首へと近づいて。
あ、と声を上げる間もなく、
「……っ、」
ぺろり、と。
手首まで垂れたはちみつを追いかけて、温かく湿ったやわらかなものが、親指の付け根をぞろりと這った。
ぞくり、背筋が震える。
「さ、ぶろ」
動揺を押し殺し、名を呼ぶ。自分で思うよりうわずった声が出て、雷蔵は恥ずかしくなった。三郎はただ、はちみつがこぼれるのを見て助けてくれただけなのに。きっともったいないと思って、紙や布で拭わずに舐めたに違いないのに。
「ありが、と——」
高鳴る鼓動を宥めすかして、雷蔵はなんとか礼を言おうとした。雷蔵に後ろから覆い被さるようにして手首に吸い付いたまま、三郎はちらと雷蔵の目を見るとにやりと笑う。
それから、明らかな意図を込めて、雷蔵の親指を口に含み、じゅ、と音を立てて吸った。
「あまい」
親指を口にくわえて、三郎がしゃべる。いたずらが成功したときのような嬉しそうな声音で、しかしその耳がほんのりと色づいているのを見つけてしまって、雷蔵の胸は再び脈動を早くする。現金なもので、あんなにどうするか悩んでいたはちみつの処遇も、あっさりと決まってしまった。
雷蔵が親指を引き抜くそぶりをすると、三郎は素直に雷蔵の手首を離した。どうするのかと、期待のこもった視線を感じる。まるで無言のうちに雷蔵のすることを肯定するような、熱い視線。それにせかされるように、せっかく避けてくれた薬壺をもう一度手に取って、解放された手の人差し指と中指、薬指まで使って中身をすくい取る。雷蔵は三郎に向き直ると、汚れていないほうの手を頬に添え、大量にすくったはちみつが今にも手首に垂れ落ちそうなもう片手を、彼の口元に突き出した。
「ん……」
頬に添えた手の親指で、何も言わずにただ目元を擦って促すと、三郎は従順に舌を差し出した。ぴちゃ、ぴちゃ、と隠微な水音を立てながら、はちみつを舐め取ってゆく。舐めやすいように雷蔵の手を捕まえて、指先に向かってゆっくりと舐め上げる。たっぷりとすくったはちみつをこそぎとるよう丁寧に、何度も繰り返し舌を這わせる。ねっとりとしたはちみつの甘さが空気にまで溶けていくかのようで、雷蔵は意識して呼吸を深くした。
「三郎、こっち、見て」
三郎の瞳が、徐々に閉じかかるのを言葉で制する。三郎の重たげなまぶたが、はた、と一度瞬きをする。灯明に照らされて蜜色に光る瞳が、ゆるゆると雷蔵の顔を捉える。そして、雷蔵の表情を確かめるように見つめながら、おもむろに人差し指を、自ら口内に招き入れた。
「っ」
温かくぬめった温度が指先を包みこみ、雷蔵は一瞬呼吸を忘れた。ふうと息を吐いて、含まれた人差し指で三郎の口内を探る。差し出された舌が赤い。上唇から皓い前歯が見え隠れする。
「ぇあ……」
雷蔵がそこから目を離せないでいるのを悟っているのか、三郎はさらに大きく口を開けてみせた。戯れのように舌の先で雷蔵の人差し指をくすぐってくる。もっと、と言外にねだられた気がして、雷蔵はもう一本、中指を口内に差し入れた。二本の指の腹で、舌の上を優しく撫でる。
「ふ……ぅ」
鼻から息を漏らし、三郎はますますとろりと瞳を溶かす。拒まれないのをいいことに、二本の指で舌の根から頬の裏側、硬口蓋と軟口蓋の境目まで、口内のありとあらゆる場所を撫でた。いくら変装名人といえど、口の中までは作れまい。まごう事なきほんものの三郎に触れている実感が、どうしてか雷蔵の欲を煽る。
三郎がくんと喉を反らして、唾液を飲み込もうとする。そのタイミングで、口を閉じようとするのを許さずに、雷蔵はもう一本、はちみつをまぶした薬指を含ませた。
「ん゛ぐ、」
三郎の小さな口の中はいっぱいで、先ほどみたいに自由には動かせない。蜜の残りを三郎の舌に押しつけて拭うかのように、指を抜き差しする。三郎は耳どころか、首筋まで真っ赤にして、必死に口を開けている。目の縁が赤く充血して、面の下の素顔の色を想像させた。じゅぼ、ぶじゅ、と聞くに堪えない水音が立ち、とうとう口の端からよだれが滴る。
もったいない、と。
壺からはちみつがこぼれるのに気付いた三郎もこんな気持ちだったのだろうか。
雷蔵はためらいもなく、彼の顎に舌を這わせた。口から指を抜き、両手で頬を引き寄せて、顎から口の端、唇まで、三郎がしてくれたように丁寧に、舌で舐め取ってゆく。やがてたどり着いた場所で、しどけなく開いた口の中、舌と舌とを擦り合わせた。
「ふっ、……んぅ、」
散々指でかき回した口内を、今度は舌で味わう。雷蔵が舌を押しつけると、競うように三郎もまた、雷蔵の舌を押し返した。かと思えば、するりと舌先を引っ込めるので、それを追いかけて舌を伸ばす。
「っ、……っ、んぶ、ぉ、んむ、……っぷは」
どれくらいの間、そうしていたのか。とうとう舌が疲れてきて、唇を離す。疲れて力の入らない舌と舌の間に、つう、と銀の糸が引いた。雷蔵は満足のため息をついて、腕で唇を拭う。
「あまい」
と、回らぬ舌でつぶやいて、再び手を伸ばしたのは果たしてどちらからだったのか。
蜜の夜は、こうして更けてゆく。


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