黒猫が死んだ。
名前も付けなかった黒い猫は、猫の常で誰にも見つからないようにと人目を避けて縁側の下で死んだようだが、奇しくもそれは学園長先生の庵の縁側だったので、すぐに皆の知れるところとなった。
一番悲しんだのは彦四郎で、はじめは懸命に涙をこらえていたがすぐに決壊して溢れだした。食堂のおばちゃんからもらってきた残飯やら、街で買ってきた煮干しやらをやって、なんだかんだ世話をしていたのは彦四郎だった。
庄左ヱ門は、仕方がないですね、と大人びたことを言っていたが、泣いている彦四郎を見てようやく実感が湧いたのか、震えだした唇をぎゅっと噛み締めていた。委員会室がある長屋の屋根裏に迷い込んで出られなくなっていたその黒猫に、一番先に気づいたのは庄左ヱ門だった。はしごを借りてきて、蜘蛛の巣や鼠の糞だらけの屋根裏を這い回って、ようやく助けだした猫を抱いて嬉しそうに笑っていた。
勘右衛門は、お墓を作ってやらなきゃねと言った。人懐こい猫で、死に場所まで人間のすみかのそばを選んだ猫だったから、人の気配のするところのほうがいいやね、じゃあ庭の楓の木の下にしようね、と一年生二人の背中を撫でて促した。
庭の楓はちょうど見頃で、秋の日差しを受けて真っ赤に輝いている。絵に描いたような風流な枝ぶりをしていて、実際三郎は、委員会の暇つぶしに何度も写生したことがある。それがことごとく、大事な書類の裏であったり名簿の端だったりしたから、一年生には「どうせ描くならちゃんとした紙に描いてください」とその都度怒られたものだった。
「猫の墓標にはちょっと、もったいないな」
本心からの言葉だったが、彦四郎は悲しそうな顔をして、庄左ヱ門には睨まれて、勘右衛門には、ぽかりと頭を殴られた。殴られはしたが、その拳はとても軽いものだったので、なんだか見透かされているような気がして、三郎は冗談ではないと頭を擦った。
お墓を作って、そこに死骸を埋めて、彦四郎と庄左ヱ門と勘右衛門が両手を合わせるのを、三郎は手伝いもせずにただぼんやりと眺めていた。
今日の委員会はそれでお開きになった。
誰もいなくなった楓の木の前に、雷蔵の姿をした誰かさんが一人立っているのを見つけて、八左ヱ門はよおと手を上げた。くるりと振り返った雷蔵の顔が次の瞬間には皮肉ったらしく歪んだので、それは鉢屋三郎に間違いないと判る。
「どうした、また虫が逃げたか」
しかし、声には表情ほどの力がなかった。どこか茫洋とした雰囲気の抜けていない、彼らしくもない声音。
「いいや」
そうは思ったが、気付かないふりで八左ヱ門はそれだけ答え、楓の木の下にこんもり盛られた土山の前に膝をついて目を閉じ、両手を合わせる。
背後から、ちっと舌打ちの音が聞こえた。
「そんなのは人間の感傷だ」
「慈しんでいたものが死んだ時くらい、感傷に浸らなくてどうする」
三郎が、神とか、仏とか、そういうものの一切を信じていないことは、八左ヱ門もよく承知していた。そしてそれは忍びとしてあるべき姿なのだろうことも理解している。
三郎は理性を重んじ、合理的であることを最上としている。その彼にとって、死したものを悼むというのは、非理性的であり非合理的であると、そういうことなんだろうと八左ヱ門は忖度する。
しかし人間というのは、そこまで非情にできていないのである。いや、三郎という人間は、と言うべきか。
生物委員会の所管する薬草園のマタタビの木の枝が折られていた。勘右衛門が、うちの黒猫を知らないかと尋ねてきた日の前後の出来事である。薬草園にマタタビの木があるなんて瑣末なこと、知っているのは八左ヱ門の同級くらいなものだから、犯人の目星はすぐに付いた。勘右衛門なら黙って折っていくことなどしないだろう。いいかっこしいのこの男が、いなくなった猫を探すのに使おうと黙って取っていったのだろう。
おそらくまだ、あいつの懐に入ったままのマタタビの木。それを一本、墓の前に供えてやるだけで報われるのだ、だのにお前はそれができない。
かわいそうなやつだ、と八左ヱ門は思う。自分のために祈ることを、彼はよしとはしないのだ。たった一匹猫が死んだだけで、こんなに弱った声を出すくせに。
八左ヱ門はどうしたら彼の心を少しでも慰めてやれるだろうかと思案したが、いい案は思い浮かばなかった。そういうことが苦手だという自覚もあった。
「しかし、見事だな」
しょうがないので、楓の木を褒めた。
翌日、八左ヱ門は、庄左ヱ門が乱太郎、きり丸、しんべヱに一枚の絵を見せているところにかち合った。
委員会室の長屋の前の庭にある楓の木の絵だという。
きちんと色紙に描かれた楓の木は、名のある絵描きの作だと言われても信じてしまいそうな出来だったので、きり丸が目を輝かせてそれを描いたのは誰だと問うていた。


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