三郎は恋をしている。百舌鳥のような恋である。
己の胸の内にその小鳥が住み着いたのに気付いたのは、春の初めのことだった。
何がきっかけだったのか、本当のところはわからない。まだ少し肌寒い頃、気がついたらもう懐に居て、それが小さいなりに暖かかったものだから、ちょっとの間温石代わりに抱えているくらいは良いだろうと、そう思ったのだ。
とっとっとっ、と小さな体の中で鳴る心臓の音は恐ろしく速く、こんなのはとても長続きしないと思った。卵からかえったばかりのひな鳥は、あまりにも脆弱で、幼稚であった。こんなものはすぐにでも死んでしまうだろう。片手でも潰してしまえるような小さな恋である。
だが、桜の花が葉桜に変わる頃になっても、小鳥はしぶとく生き残っていた。もう温石はいらないだろうと、一度はその小鳥を手に掛けようとしたが、なぜだか「一度関わったら最後まで」というあいつの脳天気な台詞が浮かんで、息の根を止めるのを躊躇った。けして三郎の意思ではない、あの生き物好きの男がそう言うからである。そう言い訳する三郎の手の中で、温かくやわらかいそれはもぞもぞと動いた。手のひらに毛羽がこすれてこそばゆく、三郎は吐息だけで笑った。なんと言い訳しても、とっくのとうに絆されてしまっていた。これの行く末を見届けるのも良いかもしれない、と、三郎は己にその小鳥を飼うことを許した。
夏が来た。
いつでも潰してしまえるほどだった小鳥は、もうとても片手では隠せないほど育ってしまった。その頃になると三郎は、どうやってこの恋の存在を隠し切ろうか、そればかりに苦心していた。
三郎の気も知らず、胸の中の百舌鳥はしきりと鳴く。雷蔵あたりにはもう気付かれてしまっているだろう。ときおり微笑ましげな視線を感じる。違う、これは私ではなく。そう言い訳するわけにもいかず、頼むから鳴くなよと己の懐を握りしめることしかできない。
そんな折のこと、夏休み前に、五年のいつもの顔ぶれで川遊びに出かけることになった。学園の裏山をいくつか越えたところに、鮎の泳ぐ穴場があると顧問の土井先生から聞いてきたのが兵助で、ならばと勘右衛門はどこからか瓜を調達して持参した。到着早々、二人はまず瓜を冷やすのに川の下流に石で仕掛けを作りに行くという。雷蔵もそれについていくというので、三郎も続こうとしたら、視線でその場に押し止められた。
(ハチとまってなよ)
「!」
口の形だけでそう言われて、反論する前に逃げられた。雷蔵は最近、とうとう見守るだけでは飽き足らず、こうして小さなお節介を焼いてくるようになった。雷蔵にかまわれるのはいやではないが、かといってどうしたらよいかわからず困ってしまう。
しかたなしに、三郎は木陰のちょうどよい岩場を見つけて腰を下ろした。八左ヱ門は日の下で、石をひっくり返しては、釣り餌になりそうな虫を探している。
このあたりは流れが急で、川のせせらぎが絶えず轟いた。少し離れると声を掛けるのも億劫なくらいの音量で、それを言い訳にして、三郎はだまって木陰から八左ヱ門の姿を眺めた。
日の光の下に居る八左ヱ門は、三郎の目にいっそ眩しく見えた。ある程度餌の目星が付いたものか、腰を伸ばしてぐんと天に腕を掲げる仕草。額の生え際に溜まっていた汗が散って、比喩でなくきらきらと輝いた。三郎は目眩がするような心持ちだ。あの汗に濡れた肌に、この手で触れてみたいと思うだなんて。
そのとき、まるで三郎の心を読んだみたいに、鳥がけたたましく鳴いた。三郎は思わず袂を掴んだが、当然鳥はそこで鳴いているわけではなかった。八左ヱ門が、森の奥に視線を投げかける。そして、三郎のほうにやってきながら、何の気なしに言うのである。
「百舌鳥の鳴き声だな」
とく、とく、とくと早足に心臓が鳴る。その間も八左ヱ門曰くの百舌鳥の声はけたたましくあたりに鳴り響き、三郎はもうどうしようもなくなって、鳴くな、鳴くなと胸の内で念仏のように唱えるばかりだ。
八左ヱ門は三郎の横に腰を下ろした。持っていた手ぬぐいを振って僅かばかりの風を起こし、ああ涼しいと人心地つけている。三郎は、内心はどうあれ、面の皮は人より何倍も厚いものだから、動揺などおくびにも出さない。
いつの間にやら百舌鳥の代わりに蜩まで鳴き始めていた。山の夏は大賑わしで、その賑やかさに三郎は救われる。三郎がこうして黙っていても、機嫌が悪いのか、気分が悪いのかと、気遣われることがないからだ。今気遣わしげに顔など覗き込まれようものなら、流石の三郎も茹だって倒れてしまいかねない。育ちに育ったこの恋の扱いを、未だ三郎は決めかねていた。
「百舌鳥は、」
蝉時雨のなかで、八左ヱ門はふと思いついたようだ。
「おれ、百舌鳥はちょっとお前に似てると思うんだよな」
「……はあ?」
こちらの気も知らないで、と三郎は脱力しそうになった。いいや、こういうおとこだからこそ、三郎は恋をしたのだ。生き物馬鹿で、朴念仁で、まっすぐにあかるい。三郎がどんなに歪な思いを抱えていたって、八左ヱ門は気にしない。だから三郎は彼の横でこんなに楽に呼吸ができる。
あんなに緊張していたのが馬鹿らしくなるくらい、肩の力が抜けた。恋だとか愛だとか、こいつの前で考えるのはもうやめよう。この恋がいつかどこかへ自分で飛び去っていくそのときまで、せいぜいここにいるがいい。どうせ、こいつが巣立つか、我々がこの学び舎から巣立つか、それまでの間のことなのだから。
ふ、と微笑んだ三郎に、八左ヱ門が気付いた様子はない。
「百の鳥のさえずりを鳴き分けるから百舌鳥というんだ、な、お前みたいなもんだろう」
「百では私を見くびりすぎだ、こちとら千の顔を持つ変装名人で通ってるんだが」
「細かいやつだなあ、百も千も大して変わらないだろ」
いつもの調子を思い出して、三郎が混ぜ返す。いつものことなので、八左ヱ門も気にしない。
「それに百舌鳥は狩りが上手い。あんな小さいなりして、猛禽の仲間なんだ。自分と同じくらいのスズメを捕って食ったりする」
「へえへえ、流石生物委員会委員長代理、生き物のことをよくご存じで」
狩りが上手い、は生物委員会的には褒め言葉らしい。三郎もなにせ、鳥に例えられることは初めてなので、そんな風に言われて喜べばいいのかどうかわからない。
「それにな」
「まだあるのか?」
「うん」
い組と雷蔵はまだかしらん、と三郎は急にそんなことが気になった。仕掛けを作るだけならもうそろそろ戻ってきそうなものだけれど、よそ事を気にしていた三郎は、だからそのときの八左ヱ門がどんな顔をしていたのか知らないのだ。
「百舌鳥は、郭公の卵を代わりに孵してやったりするんだ。そういう愛情深いところもお前に似ている」
三郎と八左ヱ門の視線が合った。
百舌鳥が鳴く。蝉の声にも、川の音にも負けじと、けたたましく百舌鳥が鳴く。
「おれはお前の、そういうところが好きなんだ」
騒がしい山の夏が遠ざかる。耳のすぐそばで囁かれた、その声ははっきりと、三郎に届いた。


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