朝に願う

2,970 文字

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 とある城から密書を盗ってくる実習で、最初の違和感は相手方の戦力が思ったより少なかったことだ。見つからずに盗るのが至上、見つかっても交戦する前に逃げおおせれば良し。それには相手の戦力が少ないに越したことはなく、雷蔵はこのかすかな違和感を見逃した。雷蔵以外、一緒に潜入した他のクラスメイトの誰も、違和感すら感じていないようだった。
 首尾良く密書を盗み出し、あとは後詰めの班と合流して無事に学園へ戻るだけ。だが敵はまるでこちらの動きを読んだかのように、雷蔵らが城から出たところで閃光弾を上げ、闇に乗じて逃げようとするこちらの姿を光の下にまざまざと暴いた。
「……!」
 潜入班の皆に動揺が走る。密書を懐に抱いた雷蔵は、逃げるべきか戦うべきか、束の間逡巡した。本来なら逃げるの一択。だが状況は、あまりにも向こうの手のひらの上だ。本当に逃げていいのか。その先にもまた罠があるのではないか。雷蔵の悪い癖が出る。迷っている暇はないと、頭では分かっていても体が動かない。
 ——その逡巡を裂くように。
《迷うな、逃げろ!》
 後詰め班が到着する。先頭を率いていた三郎が、クラスの矢羽根で全員に指示を出した。頼れる学級委員長の指示に、統率を失いかけていた集団が形を取り戻す。一人、また一人と、闇の濃い茂みを選んで逃げてゆく仲間たち。煌々と照らされた中に敵の姿は見えない。周囲を警戒しながらも、状況を共有するために、雷蔵は三郎のいる木の枝へと飛び移った。口当てをしていても自分と同じと分かる顔を見てこわばっていた頬から僅かに力が抜ける。自分の顔を見て安心するのは、きっと雷蔵くらいなものだろう。
「潜入に感づかれてた。罠かもしれない」
「密書は?」
「ここに」
 三郎とだけに通じる矢羽根でのやりとり。三郎が潜んでいるあたりは閃光弾が放つ光からも影になっていて、周囲には後詰め班の面々が展開している。交戦となれば彼らが前へ出るし、逃げる際は四方に分かれて追っ手を阻み、おのおの学園へと引き返す予定だ。
 安全だと、そう高をくくっていた。それもまた、後から考えると油断に他ならなかった。
「……っ!」
 ひゅんと空気を切る音が、肩越しに耳に届く。振り向く時間はなかった。矢を射かけられたのだ、と気付いたがもう遅い。木の枝の上では避けようがない。飛んでくる矢は、確実に雷蔵を狙っている。まるで密書のありかが分かっているかのように、まっすぐ、雷蔵の背に向かって。
 突き刺さる——その直前。
 とん、と体を押された。極軽い力で、体を入れ替えられる。声を上げることすらできなかった。バランスを崩してぶれる視界に、入れ替わった体が映る。
 己に刺さるはずだった矢が、三郎の肩口に深々と突き立っているのを、雷蔵は見た。

 脇を支える体が熱い。違う、己の体が冷えているのだ。吐く息ばかりが熱く、そこから体の熱が逃げていく。あの後、仲間の手助けもあって、なんとか二人して追っ手を巻いて山一つ逃げてきた。半ば抱えられるようにして、無理に雷蔵の速度で足を進めていたが、そろそろ限界だ。
「らいぞう」
 名前を呼ぶが返事はない。雷蔵はさきほどから一切口を利かない。きっと怒っているのだ、三郎が勝手をしたから。
 雷蔵の代わりに矢を受けたことについて言い訳をするつもりはない。何か策があったわけでもなく、ただただ体が勝手に動いていた。行動自体に悔いはないが、これほど雷蔵を怒らせるつもりもなかった。困ったなあ、と三郎は心裡で苦笑いする。こうなると、雷蔵の機嫌を直すには時間がかかる。
 射られた肩口はしびれてもう感覚がない。追っ手から逃れた時に矢を抜いて、布を巻いて簡単に止血をしたが、それも血でぐっしょりと濡れてそろそろ変えないとまずそうだった。
 あたりはほんのりと明るくなっている。夜明けが近い。
 先に逃げた仲間たちは無事に学園に帰り着いただろうか。結果としてあの閃光弾の他にこちらの意表を突く攻撃はなかったが、あれがブラフだったとしてもこちらの動きを乱されたのは事実。他に怪我をした者がいなければいいが、と三郎は朦朧とする意識を思考でつなぎ止める。
 裏々山の頂の大岩までたどり着いて、三郎は自らの意思で足を止めた。
「らいぞ、少し止まってくれないか」
 怒っているのが分かるから、意識してすこし甘えた声を出した。なんだかんだ、雷蔵は三郎のことを甘やかしてくれる。案の定、雷蔵はすぐに立ち止まると、岩陰に三郎の体を預け、心配そうな顔でのぞき込んだ。
「ごめん、傷が痛む?」
「いや。もう感覚がない」
「……はやく学園に帰らなきゃ」
 雷蔵の眉がぎゅっと寄る。心配されていることが分かって心が痛んだ。
「それなんだが、雷蔵。私を置いて先にいってくれないか。密書を先に学園に届けた方が良い。夜明けまでが刻限だったろ。ここまでくればもう追っ手の心配もないし、私一人でも帰れるし。私は一人でゆっくり行くよ」
「……」
「ね、聞いてる? 密書を持って先に」
「っ、いやだ」
 雷蔵は頑なだった。だが、これ以上遅れれば、クラスの皆にも迷惑がかかる。
「雷蔵、聞き分けてくれ。これが忍務だったら——」
「そうだよ、これが忍務だったら別だけど、実習だろ! おまえを置いて行くくらいなら補習でも落第でもすればいい! 僕のへまの代償を、おまえに払わせてのうのうと、僕一人行くなんて絶対にいやだ!」
「へまって、雷蔵、そんな」
 言うほどのへまを、雷蔵がしただろうか。閃光弾が上がったのは誰もが予想外だった。弓についても雷蔵一人が気をつけていたからといって、防げるものだったかどうか。
「違和感に気付いたのだから、もっと慎重に判断すればよかった。逃げるか戦うか迷うべきではなかった。油断するべきではなかった! おまえの顔を見て、安心してしまったんだ、ぼくは……」
 雷蔵はそこで口を噤んだ。強い後悔の念が浮かんでいる。怒っているとばかり思っていたが、もしかしたら帰りの道のりのあいだ雷蔵はずっと、悔やんでいただけなのかもしれない。
 空の色は刻一刻と明るくなる。遠い山にかかる雲海が燃えるように赤い。
「雷蔵。もう夜が明けてしまうよ」
 だから、先に。と、そう続けるつもりだった。なのに雷蔵は口布をとり、三郎のそれまで外してしまう。二つ同じ顔が鏡合わせに見つめ合う。
 二人の顔を、ついに真っ赤な朝焼けが照らし出した。
「そうだ、もう夜明けだ。僕たちはまだたまごだから。今はまだ、忍びのたまごだから……」
 朝日は、忍びの時間の終わりを意味していた。
 たまごのうちは、仲間を見捨てて自分だけ先に行くことなどしないと、雷蔵はそう言いたいのだろう。
 三郎はついに根負けして、目を閉じて微笑んだ。
「しょうがないなあ、雷蔵は……」
「うん。しょうがないんだ、僕は。……ほら、いこう。負ぶってやる。もう足が動かないんだろ」
 血を失いすぎて、まともに立ち上がれないのまで見抜かれている。変装名人としては悔やまなければいけないが、三郎はむしろ嬉しかった。
「私もまだまだだな」
「うん。僕ら、まだまだだ」
 向けられた背に身体を預ける。熱い背中にほうと息が抜けた。
「帰ろう、一緒に」
「……うん」
 朝焼けの中、一つに重なった影。
 今はまだ子どもでいることを許されている。朝日はその証であった。

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