「ほんにしょうもない子」
そう言った母の顔は覚えていない。まともに顔を上げていられなかったからかもしれない。
母の言葉はいつだって、嫌悪と失望に塗れていた。何も期待していない、何もしなくていい、何もしないでほしい。そんな母の願いに反して、三郎はいつも余計なことをしてしまう。
今日だって、母に少しでも喜んでほしくて野草を摘んできたのだが、差し出した手ごと払い除けられてしまった。求めていた笑顔はなく、代わりに侮蔑に満ちた視線を向けられる。顔をあげることができない三郎の視界に映るのは地に落ちた花。土に汚れて折れた花は、咲いているときは綺麗だと思ったのに、今は三郎の目にもみすぼらしく、つまらないものに映った。
無価値で、無意味で、無駄なもの。
しょうもない花。——しょうもない子。
◆
「こら! 三郎!! またお前は!」
にぎやかな忍術学園に、一際大きな怒声が響く。その理由は、今年入学した鉢屋三郎絡みであることが多い。
「あはは、先輩のくせに、ぎゃーって!」
厠に入った先輩をのっぺらぼうのお面で驚かせた三郎は、笑い声を上げて学園内を逃げ回る。
忍術学園に入った三郎は、たがが外れたようにいたずらに励んだ。なにせ誰一人として三郎を放っておかない。驚いて、怒って、追いかけ回して、捕まえて、叱責する。げんこつは痛いけど、そんなのは屁でも無い。悪感情から来るものであろうと、相手が反応を返してくれることが楽しくてしかたがない。何の役に立つかもわからずに覚えさせられた変装術までも使って、先輩も先生も関係なくからかって遊び放題だ。
今日も三つ上の先輩にいたずらを仕掛けて、散々逃げ回った末に取っ捕まり、こっぴどく叱られた。叱られている間の三郎は反省の色もなく、つんと澄ました猫の子のようであるので、その態度が更に相手の怒りを煽る。話が長く理屈っぽい先輩であったため、結局正座で二時間、終わる頃には足は痺れきって感覚もない。
「大丈夫? 三郎」
「今度は何やったんだよ、もう」
説教が終わったのを見計らって、ろ組の雷蔵と八左ヱ門が三郎の元へと駆け寄った。叱られている最中も物陰に隠れてはらはらと見守っていたのだが、流石に上級生の前に出て行く勇気は無い。その代わりに、終わると同時に駆けてきたのだ。
「これくらい、へーきへーき……あれ」
三郎は笑いながら立ち上がろうとして、かくんと膝から頽れた。足の感覚がないせいで、まともに立ち上がることもできないのである。
「全然だめじゃん!」
「三郎、掴まって。ほら」
八左ヱ門と雷蔵に両側から支えられて、ゆっくりと立ち上がる。もうすぐ夕餉の時間だ。いつまでものんびりしていたら食いっぱぐれてしまう。
長く伸びた三つの影が夕暮れに染まっている。歩いているうちにしびれが取れてきて、次第にじんじんとむず痒くなって、耐えきれずに真ん中の影がぴょんぴょんと跳ねた。
「あーちょっと待って! 止まって! 足! 足がくすぐったい! 歩けない!」
「えー、もう夕飯始まっちゃう!」
「我慢しろ、我慢!」
「無理! ちょっとだけ待ってくれ!」
両脇の二人が急かしても三郎の足はもう動かずに、その場にうずくまる。雷蔵と八左ヱ門は顔を見合わせて、こっそりと笑った。
「まったく。しょうがないやつだな」
夕方の涼しい風に紛れるように、八左ヱ門が笑い混じりの溜息を吐く。
その途端、膝を抱えてくすぐったさを耐えていた三郎がすっくと立ち上がった。
「……三郎? もういいの?」
「……うん」
あんなに喚いていたのに、と雷蔵が顔を覗き込むが、三郎は俯いたまま顔を上げない。そのまま一歩足を踏み出して、じんと痺れが走ったのだろう。ぴくりと肩をふるわせる様に、八左ヱ門も心配になる。
「やせ我慢はよくないぞ?」
「……平気」
それきり、二人が代わる代わる声をかけても三郎はだんまりで、夕食には間に合ったがどこか気まずい雰囲気のまま。
後ろ髪を引かれるような面持ちで自分の部屋に戻っていく八左ヱ門を見送って、雷蔵は三郎と共に自室へと戻る。寝支度を整える間も三郎はずっと黙って、何事かを考え続けているようだった。
今日の復習も明日の予習もいまいち身が入らずにただ灯明皿の油だけが減る。これ以上は油がもったいないと見切りを付けて、雷蔵はぼんやりとしている三郎を布団に誘った。
「三郎、今日はもう寝ようか」
「……うん」
言葉少なではあるが反応が返ってきたことに安堵して、雷蔵は部屋の明かりを吹き消した。
真っ暗な部屋の中、微かな呼吸と衣擦れの音。こんな日に限って風の音もなく虫の音もどこか控えめで、静けさだけが染みてゆく。
三郎はもう寝ただろうか。自分も早く寝なければ。目を閉じた雷蔵の耳に、耳を澄ませていなければ聞き逃してしまいそうな小さな声が届いたのはその時だった。
「雷蔵」
「さぶろ? まだ起きてたの?」
問いかけに返事はなく、それでも雷蔵は辛抱強く、じっと三郎の次の言葉を待った。普段のいたずら小僧の形を潜めて、三郎はぽつりと言った。
「……わたしって、しょうもないやつだろうか」
「え?」
三郎の声にはおよそ、感情というものが抜け落ちていた。怒りもなければ悲しみもない。苦しくも、寂しげでもない。透明で透き通った声である。暗闇であるから彼がどのような表情でそれを言ったのかはわからない。しかし、雷蔵の顔をした三郎は、きっと表情までもどこかへ落としてきてしまっているに違いないと、想像できるような声だった。
一年生の初めから図書委員会に属している雷蔵は、他の忍たまよりほんの少し、語彙が多かった。しょうもない、という言葉の意味はたしか、くだらない。役に立たない。意味が無い。
なんでそんなこと、と思うと同時、はたと思い当たることがあった。三郎の様子がおかしくなったのはあのときだ。
雷蔵は暗闇の中、寝返りを打って三郎に向き直る。
「違うよ三郎。八左ヱ門は『しょうがない』って言ったんだ。『しょうがないやつ』、って」
相変わらず三郎の表情は見えないが、色のなかった声にほんのわずか、困惑が乗る。
「しょうがないとしょうもないは、違うのか」
「違うよ。しょうがないは……ええと、うんと……」
いくら雷蔵が図書委員とはいえ、その些細な違いを明確に言葉にすることは難しい。頭を悩ませる雷蔵の脳裏にひらめいたのは、以前八左ヱ門から聞いた言葉。
——生き物には愛情を持って接するんだ。そうすれば、言葉がなくてもきっと通じるんだって。
「……愛情。愛情があるんだよ」
口に出してみると、それが正解だったようにしっくりときた。
「愛情?」
「そ。おまえはきっと、言って聞かせてもいたずらを止めないだろうけど、それでもほっとけないってこと。見捨てないってこと。愛情があるから」
暗闇の向こうの三郎に向かって、雷蔵は繰り返す。次第に三郎の声が明るくなる。
「ほっとけない……見捨てない……本当?」
「本当だよ。だって僕たち、叱られてるお前のことを、いつも迎えにいってるだろ。ま、もう少しいたずらを控えてくれると、それが一番なんだけど」
「それは……むりかも」
どこかに感情を落っことしてきてしまうほどの衝撃だったのに、いたずらだけは止めるつもりがないと宣言する三郎に、雷蔵はほっと息を吐いて笑った。
「もう。……しょうがないやつだね」
◆
「雷蔵はしょうがないなあ」
いまやそれは、雷蔵が悩み癖を発揮するたびの、三郎の口癖になった。今日も、三人揃ってのおつかいの途中、右の道をゆくか左の道をゆくか、これ見よがしに尋ねた三郎は、案の定悩み始めた雷蔵の後ろで、にこにこ笑って言い放った。
八左ヱ門はそんな三郎に呆れて、雷蔵に声をかける。
「しょうがないのはどっちだよ。おーい雷蔵、いいのか、あれ。あんな風に言わせておいて」
「え? あ、まあ良いんじゃない? しょうがないよ、三郎だもん」
顔を上げた雷蔵は、三郎の様子を見ても苦笑い一つで許してしまう。そういうところがさらに三郎の態度を助長させるのだが、まあ、雷蔵ひとりの責任と押しつけるには、八左ヱ門もこの同級に甘い自覚がある。
「そうだな、しょうがないか」
「おまえたち、一体なんの話してるんだ。雷蔵、どっちにするか決まった?」
内緒話に気付いた三郎が、のしっと後ろから二人の肩に手を回す。雷蔵と八左ヱ門は隙間を空けて、間に三郎を挟んでやった。
「そうだね、じゃあ……」
雷蔵が道を示す。仲良く並んだ三つの影は、揃って同じ方向へと歩き出した。


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