「うわあっ!?」
森じゅうに響き渡るかという大きな悲鳴に、ファウストはぴくりと眉を上げた。今の悲鳴のせいでかまっていた猫は逃げ、差し出した手はむなしく宙を掻く。
「……」
色眼鏡の奥の花色の瞳をすっと細めたファウストは、地面に着いていた膝を払って立ち上がり、声のした方角を確かめる。鬱蒼と木々が生い茂り見通しは悪いが、案外近い場所から聞こえた。これがミチルやリケ、あるいはヒースクリフあたりの悲鳴だったら、ファウストはこれほど悠長にはしていなかっただろう。しかし、耳に届いたのはそのどれでもない。さほど心配はないとわかっていながら、本当に何かあったときのことを考えて、ファウストは一応様子を見に行くことにした。
ざかざかと藪をかき分けて、垂れ下がる枝をくぐり、道を塞ぐ倒木をよけて、拓けた場所へと辿り着く。思った通りの姿をそこに見つけ、溜息を吐きそうになるが、彼が手を伸ばす先に気がついて、その息を飲み込んだ。
「何をやってる!」
突然の大声に、体を揺らしたのは彼——カインだけではなかった。その手の先、とぐろを巻いて鎌首をもたげた蛇もまた、驚いたようにその身を撓らせる。ぐぐっと身を縮めたかと思えば、次の瞬間、威嚇相手に向かってバネのように飛び出した。
「っ、《サティルクナート・ムルクリード》!」
ファウストが早口に唱えた呪文により、蛇の体は空中で見えない壁に阻まれる。蛇はそのまま地面に落ちることなく、透明の玉の中に入り込んだように、球面の内側でぐねぐねと身をくねらせる。目の前で蛇の腹がうねる様子を見せつけられたカインは、飛び退くように一歩後退し、そのまま蛇から目を離すことなくファウストの横までやってくる。そうしてまるで、ここなら安全と言わんばかりに、ふう、と大きく安堵の息を吐いた。
「助かった。ファウスト、ありがとう」
「……お前」
何から口にすべきか、一瞬喉の奥で言葉が渋滞する。それを今度こそ溜息で吹き散らし、ファウストは指先ひとつで、蛇の入った透明な球体を呼び寄せた。
「うわわわわわ!?」
「おい、僕から離れろ。当てないから。いや、離れないなら当てるぞ」
球体ごと蛇をぶつけられるとでも思ったのか、カインがしがみついてこようとするのを言葉で制し、至近距離で改めて蛇の姿を確認する。全身のまだら模様。毒々しいまでに赤い腹。それに、青みがかった鋭い牙。嵐の谷での暮らしが長かったファウストは、森の生き物について多少の知識があった。うん、と一つ頷いてカインを見やる。
「毒蛇だ。雄牛さえ一噛みで昏倒させる。何故触ろうとした? お前は蛇が嫌いなんだろう」
「いや、嫌い、というか、っ、うわわっ!」
話の途中で蛇をカインに近づけてやれば、簡単に白状する。
「確かに、嫌いだ……けど、鍛錬してたら木の上から降ってきてさ。腹が赤かったから、落ちた時に怪我でもしたのかと思って……」
「嫌いなのにわざわざ助けようと? 馬鹿のつくお人好しだな」
はあ、ともう一つ溜息。お人好しもここまで来ると美徳とは言いがたい。
「これは元からこういう色をした蛇だ。それに、強い毒は持っているが、臆病な性質で、こちらから手を出さなければ危害を加えてくることはないんだ」
「そうだったのか……」
「希少種だから、森へ返すぞ。いいな」
「ああ、今度見かけても、そっとしておくことにするよ」
ファウストが魔法で蛇を森の奥へ運ぶのを、カインは目をそらさずに見送った。
蛇の姿がすっかり森の奥へと消えてしまってから、カインは改めてファウストに向き直る。
「本当に、ありがとう。あんたのおかげで、俺も、あの蛇も、助かったよ。それで……俺が蛇が嫌いだっていうのは、なるべく内緒にしてくれないか」
「なぜ」
「騎士なのに蛇が嫌いなんて、格好つかないだろ?」
「はあ? 誰にでも嫌いなもののひとつやふたつ、あって当然だろう」
「あんたにも?」
「……もちろん」
金の片目がねこじゃらしに飛びつく前の猫のように輝く。ここまで話した以上、答えないわけにはいかないらしい。しかし、ただ答えるのも面白くない。先ほど撫で損ねた猫の恨みもあることだ。いやみの一つや二つ、言っても良いだろう。
「勇敢と無謀をはき違え、親切と節介の区別も付かない、君みたいな中央の国の男が、僕は大嫌いだよ」
多少は、傷つくとか、謝るとか、そういう反応が見られるものだと思った。もちろん本気で傷つけようと思って言ったわけではないが、こうもきょとんとされるとは想定外。
カインは人差し指を唇に当て、小首を傾げて、こう言った。
「嫌いなのにわざわざ助けようと?」
「……」
蛇を逃がすのをもう少し後にすれば良かった。
後悔してももう遅い。


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