(アニバイベスト後)
誓い
結局、アーサーが魔法舎に戻ることができたのは、あの夜から丸一日以上が経過した、次の日の夜更けのことだった。
グランヴェル城の誰も事の真相を知らないとはいえ、国際行事として年単位前から予定されていた和平会議が延期となったのだから、事務処理の煩雑さは目を覆いたくなるほどで、しかし立場上アーサーがそうするわけにはいかない。事務官たちと諸事にどうにか目処をつけた後は、箒に跨がる気力もなければ、そうする時間も惜しく、こういう時のために溜めてあったマナ石を使うことにした。一瞬の浮遊感の後、アーサーの姿は魔法舎のエレベーターホールにあった。
気が、急いていた。
無事だ、とオズから魔法の言伝は得ていたが、直接顔を見たわけでも、その場に居合わせた者と話をしたわけでもない。会議の準備期間も含めると数日ぶりに帰ることのできた魔法舎だから、誰かに帰還を知らせるべきかとも思ったが、その誰かを探すだけの余裕がない。途中に誰かと出会った時に伝えればいいだろうと自分に言い訳をして、アーサーはまっすぐに目的の場所へと向かうことにした。
ホールを取り巻く螺旋階段を駆け下りる。図書室、談話室、食堂を横目に、長い廊下を通り過ぎ、居住区へ。やはり誰ともすれ違わない。それだけ夜が深いということだろう。そういえば、今は何時だったろうか。時間を確認していなかったことを、アーサーは今更思い出した。
魔法使いたちの部屋が並ぶ一角までたどり着くとさすがに気がとがめ、組木の廊下が鳴らないように足音を殺した。常夜灯の点る廊下の突き当たり。階段を上ってすぐ目の前に現れた部屋の前で、わずかに上がった息を整える。
ノックをそっと、三回。いらえは、ない。
「入るよ、カイン」
薄く開けた扉から、静寂と暗闇と、消毒液の匂いとが、ゆっくりとあふれ出る。それに蓋をするように、アーサーは猫のように体を室内へと滑り込ませ、素早く扉を閉めた。
主が眠る部屋に灯りはない。しばらくはまったくの暗闇に思われたが、目がなじんでくると、カーテンの隙間から差し込む月光のおかげで部屋の様子がほんのりと見て取れるようになる。光の筋をたどるようにして、アーサーはベッドの枕元までの距離を数歩、進めようとした。
その背後で。
扉の開く音も、空気の動く気配もなかったが、ただそう、魔力の匂いとでも言うべきか。何かが香った気がした、そう感じたこと自体が偶然の産物だったのかもしれないが、結果として、アーサーは振り返った。オーエンが音もなくカインの部屋に転移してきた、その瞬間に。
「……」
オーエンは部屋の中に予期せぬ第三者がいるのを見て取ると、いかにも不愉快そうに目を細め、すぐにまた呪文を唱えようと口を開く。期せずしてその間合いに、とっさに呼び止めようとしたアーサーの声が飛び込んだ。
「待って、オーエン」
機先を制された形に一瞬、鼻白んだ表情を見せたオーエンだったが、すぐに皮肉げに口を歪め、腕を組み直してアーサーに向き直る。月明かりに、作り物のような横顔が浮かび上がった。
「……ふぅん。王子様なのに、夜中に他人の部屋に忍び込んだりするんだ」
その言葉にアーサーはきょとんとして、うっかり素直に「そういうお前は?」と聞き返しそうになったが、そんなことをしては彼は煙のように姿を消してしまうだろう。そういうことを言うために呼び止めたわけではなかった。では、何を言うためかというと、実はアーサー自身にもよくわからない。だがこの機会を逃せば、次に会えるのはいつになるか。
「オーエン。……カインが、……カインの……」
考えのまとまらないまま、伝えなければという思いだけで開いた口は、案の定途中で迷子になってしまう。
執務室に籠もるアーサーの元には、オズからの伝言のほか、いくつかの魔法の手紙が届けられていた。その一つ、クロエからの、あの夜の出来事が辿々しく、しかし丁寧に綴られた手紙には、オーエンがカインのためにしてくれたことが書かれていた。
カインのために祈ってくれたこと。祈り方を教えてほしいと請われたこと。ラスティカと一緒に、茨を払って城内へ入る手助けをしてくれたこと。真剣に、カインの安否を案じてくれていたこと。
お礼を言いたかった。彼の誠意と献身のすべてに報いたかった。でもそうするにはきっと時間が足りない。何か一つ。何か一つ、彼に伝えるとするならば。
ああ、これだ、とようやく言葉が見つかった。
「カインの手を、握ってくれていてありがとう」
闇と静寂の支配する部屋に、アーサーの言葉が雨だれの一粒のごとく、ぽつりと落ちた。
アーサーはその一粒が、ごく小さな、しかし確かな波紋を広げて、部屋の隅々まで届くのを目にした気がした。
オーエンは。
「……ふん。なにそれ。つまんない」
そんな感想を残したきり、今度こそ姿を消した。
消えてしまった横顔の残像を一度、暗闇に探すように目をこらした後、アーサーはゆっくりと、己の騎士の元へと歩み寄った。
すっかり闇夜に馴染んだ目に、カインの穏やかな寝顔が映る。話を聞いていなければただ眠っているようにしか見えないが、彼はあの夜フィガロの治療を受けた後から一度も目を覚ましていないという。
「カイン」
オズは「無事だ」と言った。「フィガロが治したのだから、大丈夫だ」と。それでもアーサーは、できることならその布団を剥いで、彼の体が損なわれていないことをこの目で確認したいくらいだった。それがどんなに無遠慮で不作法なことか分かっていて、それでも布団に伸びそうになる手を押しとどめるのに、いくらかの努力を要するほどだった。
じっとカインを見下ろしているうちに、アーサーは彼の手が布団の端からはみ出しているのに気がつく。自分の気を紛らわすためにも、布団に入れてやろうとベッドの脇に跪き、カインの手に触れたところで急に、思い出した。
生木の裂ける音。茨の這う音。苦しそうな息。かすかな微笑み。
——手を繋いでいてくれて……。
——……ありがとう……。
たった一晩前のことなのに、どこか遠い記憶。思い出してしまえば鮮明な、離してしまった柔い指先の感触。そこに、剣胼胝で固くなった男の指が重なる。
違う、これはあの手ではない。
アーサーはベッドに肘をつき、カインの手を両手で握ると、捧げ抱くように額へ押しつけた。
これは、アーサーが離してしまった手ではない。
自分の指と一緒に組み直し、絶対にほどけないように握り込む。
「私は……」
この手を離したくない。
だが、いつか、この手を離せと言われるような日が来るとしたら。あの夜と同じく、ファウストやオズに。あるいは、ほかでもないカイン自身に。
「離したくないんだ、私は」
それは約束に似ていた。
約束をしない魔法使いがするには、あまりにも約束に似た——
祈り
「……ふん。なにそれ。つまんない」
一瞬の後、視界は薄暗い室内からほの明るい月光の屋外へと変わった。魔法舎の塔の上。涼やかな夜風が魔法舎を取り囲む森の梢をさらい、オーエンの灰色の髪を撫で、鼻の奥に残る消毒液の匂いを散らしてゆく。肺の中の空気を入れ換えるように、オーエンは静かに一度、深呼吸した。
すっかりとあの部屋の気配が消えたところで、おもむろにポケットへ手をやる。中から取り出したくしゃくしゃの包み紙を開くと、星のかけらのような乳白色のシュガーが数個、あらわれた。完璧な結晶の形をした美しいシュガーは、オーエンが作ったものだ。
オーエンほどの魔法使いにとって、シュガー作りは手遊びみたいなものだったし、それをカインの部屋に置いてこようと思ったのもほんの気まぐれにすぎなかったが、このシュガーをカインが口にするところを想像すると、わけもなく心が躍った。目を覚ましたカインは、枕元の誰が作ったかもわからないシュガーを、きっと何のためらいもなく口にするだろう。それが、己を死の淵まで追い詰めた北の悪い魔法使いの作ったものだと知ったとき、一体どんな顔をするだろうか。その想像だけで、手のひらに転がったシュガーが、まるで中央の高級菓子職人が作る砂糖菓子のように魅力的に見えた。
だが、行き場を失ったシュガーは、どれほど美しかろうと、オーエンの目には死体のようにしか映らない。
「馬鹿みたい」
そうぼやいて、オーエンは手の中のシュガーをもう片方の手で無造作に摘まみ、指先ですりつぶすようにして夜風に飛ばす。きらきらと銀の鱗粉のように光りながら消えてゆくシュガーは、どこか銀の髪の王子様の姿を彷彿とさせた。
オーエンのシュガーをだめにした張本人。さっきは意味の分からないことを言っていた。思い出して、もっといやな気分になるかと思ったが、それほど苛立ちは湧いてこなかった。それよりも、言葉の意味の方が気になって。
『カインの手を、握ってくれていてありがとう』
手を握る、ということは、感謝されるほどに特別なことだろうか。
カインにとっては、そうだろう。彼は〈大いなる厄災〉によってつけられた〈奇妙な傷〉のせいで触れるまで相手が見えない。彼が魔法舎の他の魔法使いや賢者と手を合わせるところを、オーエンは何度も遠くから目にしたことがある。
その例外がオーエンだった。彼の目の片方がオーエンのものであるせいか、カインは唯一オーエンだけは触れなくとも視認できる。だからオーエンはカインに触れる必要がない。今までオーエンだけが、カインの手に触れたことがなかった。
昨晩。
オーエンは彼の手に触れた。オーエンのことまで見えなくなったカインの手に、オーエンが自ずから触れたのはこれが初めてのことだった。
初めてと言えばあれもそう。あの馬鹿馬鹿しくてくだらない、祈りとかいう行為について。
クロエに言ったとおり、オーエンは祈りなどしたことがなかった。
オーエンの知る限り、祈りというのは救いと対だ。いつ読んだか忘れたが、どんな物語においても、祈りには必ず救いがもたらされるものだ。影響されて、見よう見まねで祈りのようなことを試してみたこともあるが、なぜかオーエンにはいつまで経っても救いが訪れなかった。現実と物語は違うということなのか、それともオーエンの祈りが正しくないのか。いずれにしろ、無意味な行為に他ならない。ばかみたい、と吐き捨てて、オーエンは祈りの真似事をやめた。もう二度とするものかと思った。
だからオーエンは祈ったことなどないし、本当の祈りがどんなものなのか分からない。
——教えるよ。一緒にやろう!
泣きはらしてみっともない顔を袖でぐいと拭って、クロエはそんなオーエンに笑いかけた。どうしてこんな状況で笑えるのか、オーエンには全く理解ができない。それに、教えると言ったくせ、ええと、まずは、と思案する。
「早くして」
「ごめん! じゃあ、そうだ、まずは手を握って」
祈りのやり方などわからないオーエンは、素直にその指示に従った。
さっきまで触れていたカインの手。もう一度握ろうとして、自分の手にはまった手袋の存在を思い出す。ケルベロスを退けたときについた血や泥で、べたべたに汚れた手袋。それを外そうが外すまいが、カインの手はすでに血まみれで、今更どうなるものでもない。だがオーエンは、手袋を外してから、再び、カインの手に触れた。
いつもは黒いグローブに覆われていて見えない、節くれ立った指と剣胼胝に覆われた手のひら。体温の低いオーエンよりも、さらに冷たい手。喉の奥がひやりとした。このまま石になってもおかしくない。
——ケルベロスにここまで腹を噛まれて、生きていたやつはいない。
自分で放った言葉が、突き刺さる。
——じゃあ、カインはきっと、初めての人になるよ。
——祈りってこういうことだろ。
祈り。祈りとは。一体何なのだろう。わからない。でも。
自分の温度を分け与えるように、オーエンは合わせた手を強く握りしめる。
「握ったよ」
振り返った先で、クロエはなぜかぽかんとこちらを見ていた。胸の前で両手を組み合わせた格好で固まっている。
「なに……何か変?」
オーエンが再度声をかけると、クロエは慌てて首を振った。
「ううん、変じゃない。それが正しいよ」
結果的に、カインは死ななかった。
それがオーエンの祈りのおかげなのか、ラスティカの言うように彼自身の運命によるものなのかは分からない。
オーエンは、シュガーの消えた手から手袋を外し、月明かりに照らした。
結局祈りとは何なのか、一晩立ってもオーエンには分からないままだ。昨晩オーエンがしたことといえば、カインの手を握ったことくらい。なのにアーサーは、そのことに感謝した。アーサーが言った「手を握る」という言葉は、祈りと同じものを指しているのだろうか。果たして自分は、正しく祈れていたのだろうか?
祈りを馬鹿らしいと思う気持ちは変わらない。
でも今は、もう一度くらい、その馬鹿馬鹿しいことをするのも悪くないと思える。
オーエンはもう片方の手からも手袋を引き抜き、手と手を合わせ、それから指を組み合わせた。自分で触れても分かる、冷たい手。この手の与えた体温のことを思う。
図らずもそれが、祈りの手の形をしていることを知らず。
オーエンは目を閉じた。
いつかまた、彼の手を握ることがあるだろうか。
そのときは、彼の手の方が温かいといい、と。
想い
声が聞こえる。
——カイン! カイン……!
——……ッ、目を開けろよ! 見えるはずだろ!?
そうさ、見えるはずだとも。他の誰も見えずとも、お前だけはちゃんと見える。
——ほらほら。どうしたの、騎士様。
——大事な賢者様と王子様を守るんじゃないの?
ああ、もちろん。彼らは俺が守るべき人たち。俺の胸に誇りと灯火を与えてくれる人たち。彼らのためにできることは何だってすると決めた。だからこんなところで立ち止まっている場合じゃないんだ。
——どうして、どこかに行くの? 一緒にいてくれないの?
——置いていかないで……っ。ひとりにしないで!
それでも、行かなければ。
——行かないで! 僕を閉じ込めないで……!
……俺は。
声が聞こえる。
——風に耳を澄ませて、見えないものの影に触れて、
——忘れ去られた言葉を見つけて……。
一体、誰の——。
「……っ」
気持ちとしては、飛び起きたつもりだった。実際にはベッドから指先一本分も背が浮いていなかったとしても。
突然の目覚めであってもさほど混乱しなかったのは、そこが見慣れぬ部屋ではなく長く住んだ魔法舎の自室だったからだ。自分は安全な場所にいて、当面差し迫った危機がないことを、頭より早く体が理解していた。
薄く開いたカーテンの隙間から差す月光の角度で、おおよその時間を察する。まだ真夜中といって差し支えない時刻。だがじきに東の空が色を変え始めるだろう。
どうやら自分は助かったらしい。
意識して深い呼吸を二三度繰り返すと、徐々に実感が湧いてきた。呼吸ができる。心臓が動いている。思考も普段通り。あとは、つま先から指の先まで、自分の意思が通うことを順々に確かめればいい。右足、左足。問題ない。右手。左、手?
思うように動かせない左手に一瞬ひやりとするが、すぐに触覚が生きていることに気付く。首を動かさず目だけで視線をやると、そこに誰かがいるのが〈見えて〉、ぎょっとする。が、警戒はすぐに解けた。月光をはじく銀の髪。ベッドに凭れるようにして眠る彼の胸に、カインの左手はしっかりと抱き留められていた。
「アーサ——ぅい゛っ、た!?」
いつもするように腹筋だけで起き上がろうとして、あまりの痛みに枕に逆戻りする。傷口が開いたか?と空いている右手で恐る恐る腹に触れても、そこには傷どころか包帯一つ巻かれていなかった。茨やケルベロスの爪に引っかかれた足や腕の傷には、包帯とガーゼで丁寧な処置が施されているのに、だ。もう少し指先で探ってみると、少し触覚の鈍い引き攣れのある真新しい皮膚が、裂かれた傷の形に広がっているのが分かった。その範囲の広さにぞっとする。ほとんど背中に近い脇腹のあたりまでそれが覆っているのが分かって、これはおとなしくしていた方が良さそうだと、カインは起き上がることを諦めた。
本当なら自分が戦線離脱した後のことを誰かに聞きたかったし、なによりアーサーをちゃんとした寝床で寝かせてやりたかった。だが、アーサーを起こさないまま人を呼ぶような器用さをカインは持ち合わせていない。人を呼べば彼は確実に目を覚ますだろう。どこか目元に疲れを滲ませながら、しかしあどけない寝顔をして眠る主君を起こすのは忍びなかった。他に誰かが室内にいるなら、とも思ったが、触れなければ他人が見えないカインでも、この狭い部屋に第三者がいないことくらいは気配でわかる。
それにしても。
目を覚ました直後から他者の姿が見えるのは久しぶりすぎて新鮮だった。〈大いなる厄災〉につけられた〈奇妙な傷〉のせいで、カインには人の姿が見えない。触れる前から見えるものといえば妖精か怪物ばかりのカインにとって、見えることがすなわち警戒の対象となってしまうくらいに。
目覚める前からカインの手に触れていたからこそ、見えたのだろう。アーサーの腕の中、大事そうに抱えられた左手。一体いつからそうしていたのだろうか。一体、どんな思いで。
ふと、カインは既視感を覚えた。ずっと手を握られていた気がしたのだ。今の話ではないし、あれは左手ではなかった。あの夜、激痛に遠のきそうになる意識をつなぎ止めるように、誰かがずっと握っていてくれたのは。
布団の下から右手を取り出す。脇腹が引き攣れる感覚に思わず洩れそうになる苦鳴を噛み殺して、掲げる。
闇夜に透かした手の甲を、カインはじっと見つめた。
「……オーエン?」
〈奇妙な傷〉を負った後も唯一カインの目に映るオーエン。それなのにカインは今、何もせずとも見えるはずの彼を、まるで見えないものを見ようとするように、自分の手の向こう側に見つけようとしていた。
いや。本当に?
本当に今まで、カインはオーエンを見ることができていただろうか。
今のカインは理解していた。
目に映るという事実にあぐらをかいて、実際には見ようとしていなかったこと。見えない仲間たちよりもずっと、彼のことが見えていなかったこと。〈傷〉のオーエンについてもそうだ。突如現れる不確かな人格を、自分は疎んではいなかったか。いいようにあしらって、早く元のオーエンに戻ってくれることを願ってはいやしなかったか。彼の話を、一度でもまともに聞こうとしたことがあっただろうか。
——おまえのせいじゃない……。
あれは、ちゃんと伝わっているか。
どこまでを口に出したかあやふやだ。ところどころ記憶も欠けている。だが、あのとき感じた後悔は今もカインの胸のうちにわだかまって消えない。
守るべき人も守れず、救うべき人も救えないまま死んでいく自責の念。志半ばで斃れることへの無念。それより何より、遺していく人たちのことが気がかりだった。魔法使いの仲間たち。アーサー、賢者様、それに。
もっとちゃんと話を聞いてやればよかった。
彼の声に、耳を澄ましてやればよかった。
九死に一生を得た今、改めて思うことは、すべてを守り、救うことは、カインにはできないということ。カインの腕は二本しかない。剣の届く範囲もごく狭い。
左手を抱く主に想いを馳せる。カインの片手は確実にこの人のためにある。たとえ騎士の位を剥奪されようと、たとえ彼が王子でなくなろうと、永遠に彼の騎士でありたいと願う。
そして、もう片手は賢者——晶のために。異世界から呼び出されたばかりの、右も左も分からないときに、自分を信じてついてきてくれた。その信頼に、全霊を持って応えたい。
だから、オーエンを守るための手はカインにはないのだ。
そして、それでよかった。
オーエンはカインの守護など必要としない。彼はカインの片目を奪った恐ろしい北の魔法使いだ。守るどころか、守られてばかりで、そんなことを言おうものなら鼻で笑われてしまう。〈傷〉のオーエンですら、カインに守ってほしいなどとは言わなかった。思い返せば、彼の要求はたった一つで、とてもシンプルだ。
——ひとりにしないで。
「お前を、置いていかない」
掲げた手のひらを、ぎゅっと握りしめる。その手に、青い影が落ちる。
月光はいつの間にかその存在感を薄らげ、代わりにほの青い気配が室内に満ち始めていた。
夜明けは、近い。


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