——今日は田山さんと国木田さん、一日お休みです。
朝一で潜書室に向かった二人に、司書はすげなく告げた。なんでもここのところかかりっきりだった特殊有碍書の浄化が一段落ついたとかで、もう潜らなくていいらしい。一週間と半、会派に組み込まれて出ずっぱりだった二人はなんの疑問もなく今日もその予定でいたので、出鼻を挫かれた形だ。
「そういうのはもっと早く言ってくれよなあ」
「まあまあ、逆ならともかく、休んで良いって言うんだからありがたく休めもうじゃないか」
「そうは言っても、はじめから休みだとわかってたらもっといろいろできたかもしれないじゃん……旅行とかさ」
とりあえず潜書室には用なしとわかって寮に戻る道すがら、ぶつぶつ文句を言うのはもっぱら花袋のほうだった。今日は朝から雲一つ無いお天気で、新聞によると昼にかけて気温はぐんぐん上がるらしい。まさに旅にはうってつけの日で、もとから備わっている旅への希求心が今日は疼いて仕方が無かったとみえる。
窓の外のうららかな日差しが目に入っては溜息をついてばかりの丸まった背に、独歩は勢いよく飛びついた。
「旅、結構じゃないか。今からでも出ようぜ」
おわ、と前に倒れ込みかけて踏みとどまった花袋は、首だけ振り返って訝しげだ。
「そうは言っても休みは今日一日だけだぞ」
「一日でいけるところにいけばいい。ちょうどいいガイドブックを持ってるんだ。まあちょっと待ってなさいよ」
折良く独歩の部屋の前まで来ている。中へと入れた花袋をとりあえずその辺に座らせて、独歩は本棚の中から目的の本を取り出して見た。たしか栞を挟んでいたはずだ。指でたぐってページを開く。
「まず——渋谷駅まで出る」
頭の中で地図を広げたらしい花袋は、ほう、とひとつ頷いた。
「三十分もあればつくかな」
「それからだな、ええと、玉川電車に乗る」
「……うん」
「三軒茶屋で乗り換えてそのまま終点まで。そうすると多摩川のほとりに着くらしいな。『しかし其処に行った人は、川を渡らずに帰ってはいけない』。ふむ、でも鮎はまだ早いだろうなあ、どうかな」
「……早いんじゃないか」
「二子の亀屋ってのはまだあるかな。ないだろうなあ。亀屋って言ったら俺の書いたのにも出てくるけど、……おお、えらい、ちゃんと註がしてある。最近は電車の便がいいんだろうから溝の口までだってすぐなんだろう。『独歩は武蔵野の中でもこの近所が好きだった。生前、よくその二子の亀屋のことを話し た』。よく覚えてるもんだよな、アンタ、こういうのを書かせたらほんと一品だよ」
その頃になるともううんともすんとも言わなくなった花袋が、無言で立ち上がってのしのしと近づいてくる。手元から『ガイドブック』が取り上げられても、独歩は別に声も上げなかった。
花袋はその題名と著者を確かめるとちょっと唇を尖らせたままページをパラパラとやり、むす、と頬を膨ます。
「この『ガイドブック』は悪くはないが、……ちょっと古い。玉電はとっくに廃業したし、今は船に乗り継がなくても電車でその先まで行けるし、それにお前が愛した武蔵野の面影も、もうあのあたりにでさえ残ってないだろう、けど——それでも、行くか?」
「行くとも」
ぱたんと閉じられた本を受け取り、元の通りに本棚へと押し込める。
ガイドブックは持って行く必要はないだろう。なにせ旅の道ずれは、最高の案内人かつ最良の友なのだから。
(第11回花独ワンドロ参加作)
参考文献:『東京近郊 一日の行楽』(田山花袋)


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