結局、イギリスがフランスに髪を切らせたのはその一回きりだった。
一度切ってもらった結果があんな風だったこと、それから国内の用事が増えたのか、フランスがブリテン島まで渡ってくる回数が減ったことあたりがおおよその理由である。そもそもイギリスはフランスのことなんて大嫌いだったから、彼に髪を切ってもらうなんてこと自体間違いだったように思われた。
それまで通り、相変わらずイギリスは髪型のことなんて気にしなかった。もし不自由なほど伸びた時には司教様にお願いして切ってもらっていた。侍女の手はなんだかくすぐったくて、お切りしましょうかという彼女たちの手を何度逃れたことか。
イギリスが自分で髪を切るようになったのは、実は百年戦争の最中のことだった。それは彼が初めて人を斬った経験と前後する。
洋上であった。
あちこちで怒声と悲鳴、歓声と断末魔が木霊している。煙を上げる船も、船首を上にして沈みゆく船もある。数百というガレー船が集結した港は今、戦場だった。
フランス船とイギリス船が組み合うように接舷し、船員は弓を剣に持ち替え敵船に乗り込んでゆく。戦術が有効なのは敵艦を取り囲むところまでであり、勝敗は個々の白兵戦によって決定する。朝から始まったこの海戦は、日が傾ぐころまで延々と、それこそ地獄のように続いていた。
視界が赤い。血が目に入ったのかと思ったが違ったようだ。西の海に日が沈みかけている。
右手が凍りついたように何かを握りしめている。イギリスは苦労して首を曲げ、視線を落とした。作りの悪い量産品の剣だった。意識して右手の力を抜くと、からんと安っぽい音をたてて剣が落ちる。もはや鈍器としてしか役に立ちそうにないなまくらとなり果てた剣は、それでも何度取りかえたかわからない。切れ味が鈍っては敵兵から奪い、奪ってまた斬った。
イギリスは動くもののなくなった船の上で立ちつくしていた。周りには敵とも見方ともつかぬ人間の死体が山のように転がっていた。
どれくらいそうしていただろうか。ぽつんと最後の光を残して、夕日が沈むところだった。
「卿」
遠くから控え目に声が掛けられた。イギリスの船に残っていた兵だろう。
「我が方の勝利です。引き上げの号令が出ております」
風の吹かない風車の如くぎこちない動作で振り向くと、まだ若い兵士は怯えるように一歩足を引いた。それよりいくらか年配の兵が彼を目だけで制し、もう一度イギリスを呼ぶ。
そちらに向かおうとして気がついたのだが、服が水を吸ったように重かった。海に落ちた記憶はなく不思議に思って見下ろすと、紺色の上着が黒くなって、白かったカフスは茶色く変色していた。
ああ、返り血が、とイギリスは気がついて、また顔にも飛び散った血飛沫が及んでいることを悟ると、スカーフの綺麗な部分をどうにか見つけてそれで乱暴にぬぐった。
「卿、髪に――」
屍を跨いで自船に乗り込むと、先ほどの兵士がイギリスを見て言い辛そうに言葉を濁した。
「ああ」
言われて髪を触ると、耳の横の髪にべっとりと血糊が固まっている。
「これはとれないかな」
独り言のように呟いて、イギリスはベルトの短剣を抜きさった。突然のことに兵士が止めようとするが、イギリスは構わなかった。
さっと刃を入れて、少し手前に引くだけで軽い手ごたえとともに髪が落ちる。何度も取りかえた剣と違い、それは宝飾のほどこされた美しい短剣である。切れ味もまた別格だった。
「これでいいか」
気圧されるように、兵士は頷いた。輝きを失った金の髪は枯草のように風にさらわれて、海へと飲み込まれていった。
その海戦を皮切りに、イギリスは数え切れないほど人間を斬った。百年戦争の後、ばら戦争、ウィリアム王戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、クリミア戦争、いくつもの戦争でイギリスは人間を殺し、そしてたくさんの血を浴びた。髪が汚れることも多かった。洗い落とせぬ汚れはその場で切り落とし、イギリスの髪型はますますぼさぼさになった。
ある世界会議の会場で、ふと気がついたようにフランスが指摘した。
「髪伸びたな、お前」
「汚れなくなったからな」
イギリスが零した呟きは聞き取れなかったようで、フランスはなんか言ったか?と首をかしげている。
隣の席に座っているフランスは、様々な角度からためつすがめつイギリスを眺めると、にやりと笑って言うのである。
「切ってやろうか」
「冗談じゃねえ」
イギリスは嫌そうに口を歪めて提案を却下した。彼に髪を触らせるなんてことは、もう二度となくてよいと思っている。


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