他意は無かった。雷蔵が、縁側の柱を相手に捕縄術——縄で敵を捕縛する術——の復習をしているのを見て、どうせなら本当の人間を使って練習すればいいのに、と思ったのだ。柱は人より随分細いし、弾力が無いから力加減の必要が無い。手順を覚えるにはいいかもしれないが、それ以外はあんまりだ。
三郎が手伝いを申し出ると、雷蔵は「悪いよ」と口では言いつつも、やはり物足りなさを感じていたのだろう。用具委員会から借りた縄を持って、いそいそと三郎を連れて部屋の中に入った。
雨は降らないが厚い雲の立ちこめる日で、昼間でも辺りはどこか薄暗かった。雷蔵は扉を開けっぱなしにするかどうか悩んで、いくら授業の復習とはいえ、クラスメイトを縛っているところを他人に見られるのはまずいと思ったのだろう。きっちりと閉めてから三郎の元にやってきた。部屋の中はますます薄暗くなったが、火を点すほどではない。手元は十分見えるのでこれからすることに問題はなさそうだ。
「まずは習ったところから行くね。で、その後、図書室で見つけた本のやり方も試してみたいんだけど」
「どうぞご随意に。私のことは人形とでも思って好きに使ってくれればいいよ」
「そんなわけにはいかないよ! 痛かったらちゃんと言ってくれ」
「ふふ、緩すぎたら縄抜けしてしまうから、気をつけて」
「心得た。それじゃあ三郎、手を前に出してくれる?」
言われたとおりに、三郎は雷蔵に向かって両手首を差し出した。授業で習ったのは「早手錠」という、敵を拘束して連行するのに用いられる縄術だ。手甲をした手首の上から、雷蔵が素早く縄を掛ける。ぎゅっと締め上げられたが肌との間に手甲があるので痛くはない。あまった縄の両端を両拳の間に回して完成。宣言通り、緩みがあれば抜けてやろうかと思ったが、手首の一番細いところを絞められているので、縛られる前に隙間を作っておくなど工夫をしないと抜けられなさそうだ。
縛られた両手首を持ち上げて出来映えを確かめた三郎は、雷蔵に向かって一つうなずいた。
「上手くできてる。これは簡単には縄抜けできなさそうだ」
「えへへ、ありがと」
それから幾度か、雷蔵は縄をほどいては掛けて、掛けてはほどいてと、何通りかの結び方を試した。三郎は最初の内はおとなしく手を差し出していたが、これでは捕縄の訓練にはならないかと思い、途中からはわざと身を捩ったり、暴れたりして抵抗してみたが、「もう、動かないでよ!」とその度に押さえ込まれて見事に縄を掛けられてしまう。
「雷蔵、きみ、捕縄の才能があるんじゃないか?」
「そう? 投石紐をつかうから、紐の扱いに慣れてるのかも」
褒められて、雷蔵はまんざらでもなさそうだ。雷蔵は勉強熱心だし、記憶力もある。こういった手順的な作業においては、迷う余地もない。スムーズに復習が終わってしまったので、二人は応用編へと進むことにした。雷蔵いわく「図書室で見つけてきた本」というが、三郎もその内容までは知らない。
「今度は背中を向けて」
「こうか?」
「うん、それでいいよ」
言われるがまま、三郎は部屋の奥を向くと、雷蔵に背を向けて座り直した。薄暗いとはいえ今までは外からの光が見えていたのが、部屋の奥はなお暗い。三郎は一瞬、今が何時かわからなくなる。
視界の暗さに気を取られている内に、縄が胸の前に回される。両の二の腕を押さえつけるように前から後ろへ縄が渡されて、三郎は自然、胸を張るような形になった。
「……っ」
肩が開き、肩甲骨が内側に折りたたまれる。背中で縄をきゅっと絞められて、呼吸が詰まった。背中で雷蔵の温かい手が動いている。後ろに回した縄をそこで一旦縛るようだ。制服と縄のわずかな隙間に雷蔵がぐいぐいと指を押し込む。そうやって縄をたぐり寄せる指が、後ろ手に寄せられた二の腕の間を行き来した。一周回された縄だけで随分身動きが制限されて、三郎は動揺を抑えるために意識して呼吸を深くした。
「次は……」
と後ろから、雷蔵が手順を思い出す声。雷蔵の声があると安心する。もう少し聞きたくなって、三郎は無意識のうちに雷蔵の名前を呼んだ。
「らいぞ……」
「どうしたの? 苦しい?」
「……いや、だいじょうぶ」
「苦しくなったらすぐに言って」
「うん」
返事をすると同時に二周目の縄が回される。首の付け根に回った縄は、あっと言う間に背中で一周目の縄に掛けられて、またぎゅっと絞められる。それ以上締まって息が苦しくならないように、首に回った縄は雷蔵の指で抑えられていたが、反対に一周目の縄はさらに三郎の体にきつく食い込んだ。縄にはある程度の太さがあるので、食い込んで痛いということはない。さらに、縄と肌は布地で隔てられているので、直接縄が擦れたりもしない。結び目を作るために、雷蔵の手が動く。縄に引っ張られて揺れる三郎の背中を抑えようと、片手が肩を掴んで固定する。雷蔵の体温が気持ちいい。布越しの手の温度に、は、と息が漏れる。
薄暗い部屋で、雷蔵の手で縛られてゆく。体は自由にならず、見るべきものもない。物のようになにもできない三郎とは違い、雷蔵はてきぱきと手を動かしている。脳裏に先ほどまでの真剣な雷蔵のまなざしが思い出されて、そして今も、同じだけの真摯さで三郎を縛っているだろう雷蔵を思って、三郎の頭に眠気とも違う、なんとも言えない安心感がじわりと広がってゆく。幸福感、と言い換えても良い。雷蔵の意識の全てが己に注がれていることの心地よさ。三郎がしゃべらなくても、うごかなくとも、雷蔵に縛られている間は彼の注意が他に逸れることはないのだ。
三郎を支えるとき、雷蔵の手つきはあくまでも、不安定な物を固定するための事務的なものでしかないのだが、乱暴なところがひとつもなく、三郎への気遣いに満ちていた。物は物でも、なにかとびきり重要な物、雷蔵にとっての宝物になった気がして、それは三郎にとってなにより幸せな想像だった。
三郎の瞼は半ば落ちかけていた。雷蔵の邪魔にならぬよう、意識して呼吸を静かにしたせいで、眠気はないが、体の状態は眠りにつく前に近い。そうしている間にも、雷蔵の手で両手首を後ろで組むようにされ、最後の仕上げとばかり、そこに縄が回される。手首同士がくっつくように厳重に固定されてしまうと、三郎の上半身はまるきり役立たずの板きれ同様になった。
「できたよ」
そ、と雷蔵の手が三郎の縛られた手に触れる。久々に直に触れた体温が嬉しい。すぐに離れていこうとする手を掴まえようと指を伸ばしかけ、体が傾ぐ。
「わ、三郎、あぶな……三郎?」
とすん、と雷蔵に支えられて止まる体。そのままずるずると力が抜けて、雷蔵の胸にもたれかかる。その拍子に乱れて顔に掛かった髪を、雷蔵の指が優しく除ける。
「眠いの? 三郎」
「うん」
「苦しいとか、痛いとかじゃないんだね」
「うん……」
閉じかかった目を見て、雷蔵が尋ねる。本当は眠くない。ひとつも眠くないのに、もう指一本動かす気が無くなって、三郎はただ頷いた。
「仕方が無いなあ」
三郎の体を丁寧に膝の上に横たえ直して、雷蔵は三郎の偽物の髪を梳く。その優しい手つきに、頭のなかに幸福なもやが掛かる。不自然に縛られた腕も、自由にならない体も、一つも気にならなかった。
ほの暗く、呼吸の音もかすかな空間。ぬるま湯に浸かったような心地で、三郎の意識は溶けてゆく。


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