頬紅

4,264 文字

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「最初に言っておくけど、私は、やっぱり反対だからな」
 三郎が、いつになく怖い顔をして言う。対する雷蔵は、そんなこと言われても、と苦笑いだ。
「だって、忍務だもの、やるしかないだろ」
「なんできみがそんなことをしないといけないんだよ。しかも一人で」
「僕だってそう思うよ。女装だなんて、僕より上手いやつがほかにもっといるもの。ええと、名前を挙げるのは、よしておくけど」
「勘右衛門とか兵助とかな。あいつら、タイプは違うけど女顔だから」
 雷蔵が敢えてぼかしたところを全部口に出してしまってから、三郎ははぁ、と重たいため息を吐いた。その間も彼の手はせわしなく動いて止まることがない。物入れの奥の自分の行李から取り出した着物を雷蔵の胸に当てては、これは違う、こっちは派手すぎ、これは肌の色が悪く見える、とぶつくさ言っている。
 三郎の機嫌が悪いのは、第一にこの忍務に三郎がついて行けないからであろう。学園長のご指名でこの後すぐ、お遣いに出ることになっている。なんでも急ぎの用事だとかで、それがなければ着いていくと言い出しかねなかった。尤もこれは雷蔵個人に与えられた課題だから、着いてこられても困るのだけれど。それを言うなら、本当は支度から全て自分一人でやるべきなのだろうが、どうしても自分だけの力で巧く女に化ける自信がなく、つい変装名人の異名を持つ相棒を頼ってしまった。
 三郎は自分と雷蔵の予定をどうしても合わせられないことをひとしきり嘆いた後は、女装での忍務というその一点に対してひたすら文句を言っている。口では反対しながら、しかし雷蔵からの頼まれごとは断れないのか、彼の手は粛々と支度を整えている最中だった。
「きみはやっぱり、青が似合う」
「そう? こっちの橙色もいいと思うけど」
「いいや、やっぱり青だ。ほら、これとか。ああ、うん。これがいいや。着替えて。帯は私が結ぶから」
 何着目かに取り出した薄い花色に黄色い小花のあしらわれた着物にようやく納得がいったのか、一つ頷いて雷蔵に手渡す。言われたとおりに、雷蔵はその着物を羽織った。既に肌襦袢一枚だったので、羽織ったそれの襟を合わせればよかった。すかさず、萌葱色の帯を持った手が伸びてくる。手際よく位置を決めるとくるくると体を回されて、普段より高い位置に帯が巻かれてゆく。体の斜め前のあたりにできたきれいな蝶々結びは、雷蔵が自分でやったらこうはならないだろうという出来映えで、短時間で完成した着付けに、感心半分、呆れ半分でぽかんと口があいた。
「うまいもんだねえ」
「もう座っていいぞ。あ、足は開かない! 着付けが崩れるし、そもそもきみ、女装してるってわかってるか?」
「ごめん、つい」
 あはは、と笑って頭を掻いて、足をそろえて座り直すと、三郎は顔をさらにしかめた。この笑い方も女装姿には見合わなかったかと、慌ててかしこまってみせる。そんな雷蔵の様子から三郎はふいと顔を背けて、今度は文机の引き出しから別の箱を持ってきた。
「あーいやだなあ……本当にいやだ」
 嫌だと言うならやらなければいいのに。言葉とは裏腹に、箱の中から手際よく取り出される彼の商売道具。化粧道具の他に変装用の小物もしまってあるその中身を、まじまじと観察する間もなく、筆で白粉を取った三郎が「目、閉じて」と命じる。瞼を下ろすと、ふわふわと綿毛を撫でるように、雷蔵の顔に筆が乗った。くすぐったいのを我慢して口を結び、鼻で呼吸をしたせいか、化粧の甘い香りが鼻腔の奥に広がる。慣れない匂いを嗅ぎながら、雷蔵は瞼の裏で三郎を思う。きっと真剣な眼差しで雷蔵の顔に筆を載せているに違いない。
 スケッチだったり、変装だったり、得意のことに集中しているときの三郎は、基本的に無口だ。普段よく回る口がききりと閉じられると、同じ顔をしていても全く違う人間だということがよくわかる。雷蔵の姿を借りていながら、彼が三郎以外の何者でもないとわかるその瞬間が、雷蔵はとりわけ好きだった。
(ああ、顔が見たいな。声が聞きたいな)
 それでも今は化粧の最中だ。彼の邪魔をしてはいけない。いつの間にやら大筆から小筆に代わった感触が、今はすいすいと眉をなぞっていた。
 雷蔵の気持ちが通じたのか、それともただ黙って化粧を施すだけでは雷蔵のためにならないと思ったのか。三郎が小さな声で化粧の技の解説を始める。
「眉は下がり目に描くこと。そうすると優しそうな顔つきになる。まあ、きみはもともと優しい顔をしているけどね。あと、眉尻は目尻と同じ長さまでな。ここ、ここまで」
 筆がなぞったばかりの眉を、三郎の指がつうと軽く撫でた。そして、眉の終端までくるとすっと下に移動する。そうすると、三郎が言ったとおりに目尻に指が突き当たった。
「きみは目が大きいから、眦はそんなに長く引かなくていいけど、女性らしく見せたいならここにすこおし影を足すといい」
 今度は小指の先が瞼の上をなぞる。少し冷たい感触は、化粧の粉の温度か。それからまた別の指が、ぼかすように何度か瞼の上を往復した。
 その指が離れるのを待って、雷蔵はうっすらと目を開ける。思った通り真剣な目をした三郎が、最後に貝殻から小筆で紅をすくい取るところだった。
「町娘なら、まあ、このくらいか」
 独り言めいたつぶやきの後、筆の先にかすかにつけた紅を、雷蔵の唇へと寄せる。小指を頬に当てて筆がぶれないように固定してから、筆先がつるりと唇に乗る。むずむずと唇を動かしたくなるのを耐えて、雷蔵は三郎に気付かれぬよう、そっと彼の顔を見つめた。
 こんなに近くで、しかも明るいところで、三郎の顔を見る機会は滅多とない。雷蔵の唇に視線を注いでいる三郎は、雷蔵が目を開けていることにまだ気付いていないようだった。
 冷たい筆が唇をなぞる感覚をどこか遠いところで感じながら、雷蔵は三郎の眼差しを追う。雷蔵の瞳よりも、わずかに明るい琥珀色。光彩の縁が青く滲んでいる。ここまで間近でなければ気付かない色。
 その瞳が、きろ、と動いて、雷蔵のそれと合う。瞬間、ぱちりと目が見開かれて、真剣だった眼差しが、いつもの斜に構えた様子に変わる。人を揶揄うときによく聞く、いたずらな声が耳をくすぐる。
「雷蔵のえっち。どこ見てるんだよ」
「三郎の目。……きれいだな」
「……っ、きみってば、ねえ」
 息をのんだのを誤魔化すように声音にあきれを滲ませて、三郎がまた怖い顔をしてみせる。どうやらまだ機嫌は直っていないらしい。ぽんと雷蔵の肩を押して距離を取って、自分が仕上げた化粧の出来映えを確かめるように、まじまじと雷蔵の顔を眺めて。それからまた、はあ、とため息。さすがの雷蔵もむっとする。
「ねえ、さっきからさ、ため息が多すぎない? 僕の女装がそんなに心配かい?」
「心配さ。反対だって、さっきからずっと言ってるだろ」
 見ていられないとばかり雷蔵から視線を逸らした三郎が、最後に取り出したのは馬の毛で出来た立派な櫛だった。雷蔵の背後に回って、それで丁寧に雷蔵の髪を梳く。普段収まりの悪いくせっ毛が、三郎の手にかかるとまるで大人しくなるのが不思議だ。
 髪だけではない。似合いそうもない女物の着物も、いつもついやり過ぎてしまう化粧も、三郎のおかげですっかりと馴染んで、まるで本当の町娘のように違和感がない。
 だというのに、三郎の反応はいつまで経っても芳しくない。こんなに手を掛けてもらっているのにまだ、自分の女装は目に余るのだろうか。
「……」
 肩を落とした雷蔵の様子に気付いたのかどうか、髪を梳かす手を止めて、三郎がぽつりと言う。
「あのね。きれいなのはきみなのに、まるで自覚がないから、私は心配で反対なんだよ」
「……んん? どういうこと?」
「ただでさえかわいい雷蔵が、こんなにきれいに着飾ってて、変な男に目をつけられないかと」
「何言ってるの。だって、着飾らせたのはおまえじゃない」
「私がきみのことで手を抜けると本当に思ってる? だからいやだって言ってるんだ。なにが悲しくて、自分の手できれいに仕上げた君を、知らない男の前に出さないといけないんだか……」
「あ、そういう感じ?」
 文箱から取り出した結い紐でいつもよりも下の方を縛って、はいできあがり、と雷蔵の背中を叩いて、三郎が立ち上がる。彼はもうそろそろ、出立の時間のはずだ。
 上から雷蔵を見下ろして、ずっとしかめていた顔をようやく柔らかく解いて。両手を頭の後ろで組んで、あーあ、と緩んだ声を出す。
「私がこんなに心配してるのに、きみってば呑気に私のこと口説いてるんだものなあ。なんだか怒っているのが阿呆らしくなってきちゃった」
「そんなことで怒ってたの? なんだよ、そりゃ、怒ってるおまえが阿呆だよ」
 ぶっきらぼうに突き放したが、これは内心の裏返しだ。三郎にため息を吐かれるたび、雷蔵は気が気ではなかったのだ。
「言ったな」
「言った。悔しかったら、早く帰ってくることだね。女装の手伝い、ありがとう。ほら、さっさと行っておいで」
 ひらひらと手を振ってやると、何を思ったのか三郎は、部屋の外へと向けていた足を止めて、くるりと雷蔵を振り返る。
「そうだ、頬紅がまだだった」
「え? 頬紅?」
 確かに、頬紅はつけてもらっていない。それでも今、急に思い出すなんてこと、あるだろうか?
 戸惑う雷蔵の正面に、にやりと笑った三郎がしゃがみ込む。正座した足の両側に手を突いて、一体どこから頬紅を取り出すのかと思っていると、筆でも手でもなく、三郎の顔が近づいてくる。
 あっという間のことで、避ける暇もなかった。
「——っ」
 ちゅ、とかわいらしい音を立てて、唇に、唇が重なって。目を白黒させているうちに、三郎はすっと体を引いてしまう。
「ほら、その顔が一等かわいい」
 にやにやと人を食ったような、あの笑顔。揶揄われた、と気付くと同時にかっと頬に熱が上る。
「……覚えてろよ」
「悔しかったら、早く帰ってくることだね」
 さっきの台詞をそっくりそのまま横取りされて、今度こそ三郎は部屋から出て行く。
 残された雷蔵は、三郎の気配がすっかりなくなってから、ようやくふっと息をついた。こみ上げる笑いを、吐息に混ぜて誤魔化す。
「なにが『かわいい』だよ、もう」
 かわいいのはどっちの方だか、三郎はわかっていないのだ。拗ねて顔をしかめてしまうのも、いもしない男の影に怯えるのも、きれいの一言で口説かれてしまうところも、雷蔵の方こそ心配で仕方がない。
 口付けのせいで移った口紅に、あいつはいつ頃気付くだろう。

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