瞼に口付けを

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 朝が来たのに三郎は目覚めない。
そんなことは普段だったら考えられないのだが、今日は普段とは違う日だった。
 学園長に言い付かったおつかいで数日前から一人学園の外へ出ていた三郎は、夜明け前になってぼろぼろにくたびれた姿で忍たま長屋に戻ってきた。なにがあったのか、おつかいの名を借りた忍務の内容を、部外者の雷蔵が知ることはできない。服はあちこち破れて汚れ、体にも傷ができていたが、そこまで大きな怪我はなく、遅い時間であったことも鑑みて医務室へ連れて行くのは諦めた。しかし、「しばらく休む」と一言言ったきり力尽きたように倒れ込んだのには流石の雷蔵も肝を冷やした。抱き留めた体は温かく、耳元では穏やかな呼吸が聞こえている。ただ寝ているだけだと判断して、ようやく雷蔵は胸を撫で下ろした。本当に心臓に悪い。
 起きるのにはまだ早く、寝直すには時間が無い。中途半端な時間に起こされた雷蔵は、三郎の体を今まで己が使っていた寝床の上に転がした。昨日の残り湯を貰ってきて、汚れた手足を拭いてやる間も、三郎はぐっすりと眠って起きる様子がない。服は流石に着替えさせられないから、三郎が起きたときに自分で着替えてもらうしかない。そうしているうちに、ゆっくりと夜が明けていく。黎明の薄明かりの中で、雷蔵は眠る三郎を見下ろした。
 うす青い光が、三郎の顔にほのかな陰影を落としていた。己と同じ顔が目の前にあることに、もう違和感も抱かなくなっている。なだらかな眉、長い鼻、うすい唇。これといって強い個性のない、かといってとりわけ整っている部分もない、慣れ親しんだ自分の顔。しかし、目を閉じた己の顔を見る機会などないから、そこは少し新鮮である。
 とっくりと三郎の顔を見つめるうちに、雷蔵はあることに気がついた。そういえば、手足も体も汚れているのに、顔と髪だけはさっぱりと綺麗なのだった。おおかた、誰か他の顔でおつかいをこなして、学園に戻ってきた後に雷蔵の顔と鬘を付け直したというところだろう。あんなに泥のように疲れていたくせ、そういうところは律儀なやつなのだ。
 徐々に外から差し込む光が明るさを増してゆく。見下ろす三郎は目覚める気配がない。雷蔵は飽きることなく、三郎の寝顔を見つめた。
 明るいところで三郎の寝顔を見ることなんて、本当に滅多にあることではない。常に変装をしており、他人に素顔を見せたことがないというだけあって、三郎は人前で眠ることをよしとしなかった。眠っているように見えても狸寝入りであるか、あるいは少しでも気配が近づけば瞬時に目を覚ます。五年生の仲間内には比較的警戒を解いてみせるが、それでも熟睡まではしない。名を呼ばれたり、肩を叩かれたりすれば気がつく程度の浅い眠りがせいぜいだった。
 例外は、忍たま長屋のこの二人部屋で、雷蔵の隣で眠るときである。三郎はこの部屋の中でだけは、心から気を抜いて熟睡することができるらしい。といっても、本人がそう言っていただけで、雷蔵はいつも三郎が寝るより先に寝付き、朝も三郎より遅く起きるので、彼が真実熟睡しているかどうかは知るすべがなかった。しかし、今日、部屋に戻ってきたとたんに安心して眠ってしまったところをみると、どうやらあながち嘘ではなかったらしい。そのことが雷蔵を、くすぐったいような、誇らしいような気分にさせた。例えは悪いが、人に懐かない動物が自分にだけ懐いたような、そんな気持ちである。
 雷蔵はその特権を、思う存分味わうことにした。鉢屋三郎の素顔を見た者はいないというが、鉢屋三郎の寝顔をこんな間近で見た者だって、雷蔵を除いてはいないだろう。
うす青かった光が、徐々に白くなり始める。日の出はもうまもなくだ。
 雷蔵はふと、己と同じ顔の中に一カ所、違和感を見つけて顔を寄せる。鼻息が掛かるか掛からないかの距離。ここまで近づけば流石に目を覚ましてしまうだろうかと思ったが、幸い三郎はまだ眠っている。ぴったりと閉じられた瞼。そこが違和感の元だった。綺麗な面の中で、そこだけが微かに煤けたように薄汚れているのだ。
 ごく僅かな違いだった。当たりが明るくなるにつれて、やっと見分けが付くくらいの微かな違いである。よくよく見れば、そこだけ肌の色も少し違って見えた。雷蔵はやっと気がついた。
 これは、三郎の本当の瞼なのだ。
 気付くと同時に、どうしようもなく、そこに触れたくなった。
 三郎の素顔に、興味が無いと言ったら嘘になる。三郎は「大した顔じゃない」と自分で言うが、それなら一度くらい見せてくれてもいいと思う。それでも、三郎の意思を無視してまで、素顔を暴きたいとは思わない。いつか、三郎がそうしてもいいと思ったときに、見せてくれたらそれでいい。
 だからこれは、素顔を見てみたいというのとは全く別の衝動だった。三郎の素顔がどうであるかとは、全く関係なかった。ただ自分だけに、三郎自身に触れることを許してほしい。そして、他の誰にも許さないでほしい。
 独占欲、執着、憧憬、思慕。その感情を一言で言うのは難しい。どれも正しいようで、そのどれでも無い気もした。ただ、触れたいと思ったその衝動を、見て見ぬ振りは到底、できそうになかった。
 迷い癖のある自分が迷うことを忘れるくらい、ごく自然な動作として、当たり前のように、雷蔵はそこに顔を寄せ、そっと口づけた。
 温かい。そう思うと同時に、ふるり、唇に微かな振動が伝わる。まつげが震えて唇をくすぐる。名残惜しく思いながらも顔を離すと、三郎がゆっくりと目を開ける。
「らいぞう……?」
 何をされたか分かっていない、寝ぼけた声が雷蔵の名を呼んだ。いつの間にか朝日が昇り、室内に確かな光がもたらされる。眩しそうにする瞳は、雷蔵の姿を捉えるとゆっくりと一度瞬きして、そして再び瞼に閉ざされる。穏やかな寝息が、再び耳に届く。
 朝が来たのに、三郎は目覚めない。
 その事実が、なにより雄弁に語っている。
 もうとっくに許されていたことを、雷蔵は、そのときようやく自覚した。

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