欲の色

3,723 文字

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「ねえ、三郎はさ。……口吸いをしたことある?」
 授業が終わって、夕餉までの自由時間のことだった。机に向かって、今日も熱心に雷蔵の面の改良を続けていた三郎は、雷蔵の問いに手を止めて振り返る。委員会の当番から帰ってきたあと、静かに本を読んでいると思っていた雷蔵は、本こそ一応形ばかり手にはしていたものの開きもせずに、じっと何事かを考え込んでいる。
 雷蔵の悩み癖は今に始まったことではないが、その日の様子はいつもと違って見えたので、三郎は面を手放してから雷蔵へと向き直った。どう答えたものか、例えば聞いた相手が八左ヱ門だったら、もう少し揶揄ってやった後、自分のことははぐらかしたように思う。またあるいは勘右衛門に聞かれたならば、たっぷりともったいぶってからにやりと笑って、ある、と答えたかもしれない。兵助だったら——とそこまで考えてやめた。さすがにそれは想像でも難しい。
 しかし雷蔵が相手であるなら、三郎の答え方は決まっていた。変にもったいぶりもせず、揶揄いもせず、ごく素直に、本当のところを伝えるまでである。
「ないよ。それが、どうかした?」
「うん……」
 三郎の答えを聞いて、どうするのか。興味があったが、下手に勘ぐるには繊細な話題だった。小さく相槌を打つだけ打って再び思案に沈む雷蔵の顔を、三郎はしげしげと見つめる。決して短くはないその時間の間に、カラスが三度鳴いた。
 四度目のカラスが鳴こうかというときになって、雷蔵はついに何かを決心して顔を上げる。それから腰を上げて、三郎の前までやってきて。真面目な顔でこう言うのだった。
「ねえ、口吸い、してみてもいいかな」
「え」
「……や、やっぱりだめだよね」
 思いがけない提案に素の声を上げると、雷蔵はすぐに前言を撤回しようとする。あんなに思い悩んでいた様子の雷蔵がやっと決めたことだ。それを、己の心ない一言でなかったことにしてしまうのは申し訳が立たない気がして、三郎は咄嗟に言葉を返していた。
「べつに、かまわない」
「ほんとに?」
 ぱっと、雷蔵の表情が明るくなる。それだけで三郎は、自分の選択が誤りでないことを確信する。しかし、積極的すぎるのもどうかと思い、からかい調子で混ぜっ返した。
「あんまり聞かれると、やっぱりやめたって言いたくなる」
「ごめん、でも、うん。そうだね」
 そう言うと雷蔵は改めて三郎に向かい合った。ほんのりと頬を染めて、手を伸ばしてくる。見慣れた顔であるというのに瞼を半分落とした表情がやけに色っぽくて、まるで知らない人の顔のようで、三郎は近づいてくる雷蔵の肩を咄嗟に押しとどめる。
「っ、そうだ、顔を変えようか?」
 深い考えもなく口をついて出たことだが、こうしてみるとそれは、いかにも気の利いた申し出に聞こえた。なにせ、雷蔵がしたいのは睨めっこではなく、口吸いである。今更かもしれないが、自分と同じ顔をした相手と口吸いがしたいと思うやつはそうはいない。しかるべき女人の顔をしてやるべきだ。
 そもそも雷蔵ははじめから、三郎の変装技術を見込んで口吸いを申し込んできたのかもしれない。三郎ならどんな顔でも思いのまま、もしかして雷蔵には想う相手がいて、その人の顔と口吸いがしたいと、そういうことなのかもしれない。
 いかにもありそうな話に、つきん、と胸に痛みが走る。
(ん……?)
 今のはなんだ?と思いを巡らせるより先、三郎の申し出を聞いた雷蔵は心底不思議そうな顔をした。
「え? そのままでいいよ」
「……そ、そうか」
 ばっさりと断られて、胸の痛みは幻のように消える。ふっと力が抜けた肩を掴まれて、今度こそ、雷蔵の顔が近づいてきた。
「それじゃあ、いいかい。いくよ」
「あ、ああ」
 これ以上、間を引き延ばす口実は思いつかない。三郎はいよいよ覚悟を決めるほかなかった。面を作るために散々観察させてもらった顔だが、こんなに近くで雷蔵の顔を見たことは、今までにない。眉の生え際、瞼の皺、まつげの一本一本まで見える。とうとう焦点が合わないほどになって、三郎は思わず目を閉じた。雷蔵の吐く息が、唇に当たる。
「……っん、」
「っふ……」
 押しつけられた唇は柔らかく、熱い。三郎は目を閉じたまま呼吸を止めて、微動だにもせず、雷蔵が離れていくのを待った。ただ唇と唇が合わさっているだけだというのに、心臓が早鐘を打つ。息を止めているだけの理由でなく、胸が苦しくなる。ついには口から魂が飛び出そうになって、もうだめだ、という頃に、ようやく雷蔵は唇を離した。
「……っ、は、あ」
「もう一回いい?」
 止めていた呼吸を再開させて、新鮮な空気を肺に送り込んでいる三郎に、雷蔵は容赦なく次を要求した。
「も、もう一回?」
「うん。いい?」
「ああ……」
 一度承諾したことを断るという考えが浮かばず、三郎は頷いた。先ほどと違って僅かに首をかしげ角度をつけて、雷蔵の唇が再び、三郎のそれと重なる。息を整えている最中だったので、三郎の唇はほんの僅か、隙間を空けていた。今からまた呼吸を止めるのはしんどいなあと、そんなことを考えているときだった。
「っ、?」
 ぬるり、と何か温かくて湿った柔らかいものが、その隙間に入り込む。唇のあわいを撫でて、歯列までをなぞられて、三郎はようやくそれが雷蔵の舌であることに思い至った。
「……!!」
「あむ……っ、ふ……」
 驚愕に目を見開く三郎とは反対に、雷蔵は瞼を半分だけ下ろしたあの恍惚とした表情のまま、熱心に三郎の上唇を舐めている。困惑に加え、くすぐったさもあり、三郎はつい、雷蔵を止めるための言葉を、発しよう口を開いた。
「あ、ちょっ、らぃ……——んむ!?」
 それが、結果としてはさらに三郎を追い詰めることになる。口が開いた瞬間を見逃さず、雷蔵の舌がとうとう、三郎の内に入り込む。自分とは違う舌に占領されて狭くなった口内で、三郎は戸惑いつつもなんとか、自分の舌を奥へと逃がす。が、それさえも許さないとばかり、雷蔵の舌は奥へ奥へと追いすがってくる。
「ふ、んあ、……んっ、 ちゅ、う……ッん!」
 雷蔵の舌から逃げるのに精一杯で、呼吸ができない。逃れても逃れても追ってくる舌にどうしようもなくなり、舌で押し返すことを試みる。三郎は必死だというのに、雷蔵はなぜか嬉しげに、舌に舌を絡めてくる。
「んぇ、え……は、え……っ、ゃ、」
 舌の側面を撫でられたかと思えば、じゅ、と音を立てて舌先を吸われる。いつの間にあふれ出したよだれが、だらしなく開いた口の端から零れる。口が疲れてきて、舌がだるくなって、閉じることができなくなっている。
 息ができず、もうまともに体を起こしていることすらできない。肩を掴む手の温度だけが、三郎の意識を支えている。
 それも、もうそろそろ限界だった。ちかちかと視界が明滅する。端の方から暗闇が浸食する。落ちる——、その瞬間に、手が何かを掴む。
 無意識のうちに縋っていたのか、雷蔵の着物の端をぎゅうと握りしめたまま、三郎の意識は闇に融けた。

 ◆

 三郎が目を覚ましたのは、あたりがすっかりと暗くなった後だった。灯明の明かりがじりじりと照らす部屋。見知った気配がすぐそこにあることに、三郎は安堵した。同時に、きゅうと腹が鳴る。その音で、三郎が目を覚ましたことに、雷蔵は気付いたようだ。
「起きた?」
「起きた……。腹が、減った」
 夕餉の時間はとっくのとうに過ぎている。食べ損ねた三郎のために、握り飯がいくつか乗った皿が文机の上に置かれていた。
「ごめん、やりすぎた」
 体を起こした三郎に、雷蔵が心底申し訳なさそうな顔をして謝るから、言いたかった文句も苦情も何一つ、三郎の口からは出てこない。代わりに、はあと大きなため息を吐いて、がしがしと頭を掻く。
 ため息の重さにさらに身を小さく竦ませた雷蔵が、謝罪の言葉を連ねようとするのを手で制して、三郎はこれだけは聞かなければならないと口を開く。どうにも口がだるくて、言葉を話すのがおっくうだった。
「なんで急に、口吸いだったんだ」
「……実は、図書室の隠し棚から、昨年卒業された先輩が隠した艶本が見つかって。まさか艶本だとは思わずにいくらか中身を見てしまったんだ。すぐに中在家先輩が取り上げてしまったから、ちゃんと見たわけではないんだけど、たまたま開いた場所が、その、……」
「口吸いの絵だった?」
「そう」
 三郎は僅かに遠い目をした。図書委員会に所属する雷蔵の知的好奇心は、たまにとんでもない方向に飛躍することがある。雷蔵の好奇心を満たせて良かったと喜べば良いのか、さすがの三郎もすぐには判断できない。
「……満足した?」
「うん」
 頬を掻いて、恥ずかしげに頷く雷蔵。その羞恥心をもう少し早く発揮してほしかったが。
「それで、してみた感想は?」
「……気持ちよかった。でも」
「でも?」
 いつの間にか、雷蔵の瞳がゆるく伏せられている。口吸いの際に何度も見た、あの重たげな瞳。そこにある欲を知識欲などと言い訳することは到底出来そうにない、熱を孕んだあの瞳。
「まだ足りないから、明日もしていい?」
「……仕方ないなあ」
 三郎はまだ気付かない。己の瞳もまた、そっくり同じ色を宿していることに。

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