早咲きの梅

2,871 文字

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 忘れて良い、とは誰も言ってくれなかった。だが同時に、乗り越えろとも言われなかった。

* * *

 それは単なる不運で片付けるにはあまりにも重すぎた。
 三年生の校外実習。一年生の時から繰り返される戦場視察は、この頃になると班ごとに分かれ教師の引率なしで行われる。求められることはそう多くない。両軍の印をとり、戦況を予測する。どのような形を取るか、どこまで深入りするかは事前にレポートの提出が求められるが、その後教師から特別指示を受けることはない。各班の裁量の元で実習は行われる。
 もう三年目ともなる実習。しかし三反田数馬に油断の二文字があろうはずがない。なにせ不運でならした保健委員も三年目。善法寺伊作委員長に次いでそろそろ年季の入ってきた頃である。いついかなる時、いかなる不運に巻き込まれるかわかったものではないからだ。不運の神様は実技だろうが校外実習だろうが見逃してはくれないのである。

 その日数馬の属する三年は組の第二班三名は、赤旗に三丸の印をつけた南軍を偵察していた。勢力は五分と五分、長らく膠着状態が続いているその戦場は、目立った駆け引きはないが日を追うごとに着実に負傷兵の数を増やしている。血の臭い、糞尿の臭い、饐えた肉の臭い、飛び交う蝿と沸き立つ蛆。転がっている体は息があるのかないのかわからない。さほど遠くない場所で今日何度目かの小競り合いが始まっている。両軍から上がる鬨の声にも些か精彩がない。
 戦場の影から影へ、姿を晒さないように駆け抜ける第二班の最後尾を数馬は疾走していた。思っていたよりも敵軍の侵攻が進んでいる。事前の計画より深入りし過ぎてしまったと班長が告げ、位置を後退させるため予定にない退避行動を取っていた。先頭を班長が行き、足の遅いもう一人の生徒を真ん中に。成り行き数馬が最後尾となった。ちなみに浦風藤内は今頃北軍の偵察に行った第一班を指揮しているはずだった。同室である藤内の活躍に負けぬよう、数馬も最低限不運には巻き込まれぬようにしなければならない。

 ――その点で、一瞬でも注意をそちらへ向けてしまったのはこればかりは数馬の過失であった。
 小競り合いの至近を駆け抜ける時である。その衝突でやられたのだろう、死んだように道端に倒れていた雑兵が最後の苦しみとばかりに、うめき声を上げて手を伸ばした。右腕がない。肩から飛ばされたのだろう、酷い傷口を晒したまま自分の血だまりの中に埋もれている。手を伸ばした先には、脂を捲いて鈍った刀が一振り。この期に及んでまだ刀を取ろうとしているのか。
 このままでは助かるまい。保健委員として数馬は正確にその雑兵の死期を読んだ。血が流れすぎている。傷口もボロボロで細菌感染の危険が高い。もし仮に、今この場に校医の新野か善法寺保健委員長がいたら、その傷を丁寧に縫合しあるいは一命を取り留めることもできるかもしれないが、言っても詮無いことだ。ここにいるのは三年生の数馬だけで、彼は傷口縫合の経験がまだない。
 ということを数馬は一瞬のうちに夢想した。それは確かに一瞬のことであったが、それが故数馬は気がつくのが遅れた。小競り合いのさなかから折れた刀が一直線に数馬めがけて飛んできたことに。
 咄嗟に避けることもできず、数馬はその刃を振りぬいた苦無で弾いた。ギイン、と鈍い音がして刀は草むらに転がった。怪我はない。それはいい。だがその音が問題だった。死相も露わな兵の顔が、ぎろりとこちらを向いた。死にゆく者の目とは思えない輝きが数馬の足をその場に縫い止めた。

 ――善法寺先輩、また戦場で人助けをして補習だって。
 誰かの囁き声が聞こえる。保健委員の後輩である数馬に聞こえないようにと噂しているのだろうが、その誰かは影の薄い数馬に気が付かなかったようだ。そういった類の噂話は頻繁に流れてきて、一部の思い上がった忍たまたちはやれ忍者に向いていないなどといちいち囃し立てる。だが、その生徒たちは気がついていないのだ。戦場で人助けなど、よほど実力のある者でなければ助ける前にこちらがやられているということに。
 白昼夢のようなフラッシュバック。その間にも男は落ちていた刀を残った左手で取り上げて立ち上がり、ゆらり、ゆらりと数馬に近づいてくる。逃げなければいけない。頭は嫌に冷静だった。それだというのに数馬の両足は一歩も動かない。本物の殺気に当てられて動くことができないのだ、数馬の冷静な部分はそう告げる。実習で武器を向けられたことなど数多ある。苦無、手裏剣はもちろんのこと三年生ともなれば生徒同士の演習に実刀が使われることなどザラだ。不運故それで怪我を負ったことだってある。だが生徒同士のやりとりに殺気など混じるはずがなかった。本物の殺気がこれほどまでに恐ろしく、圧倒的なものだとは未だかつて知る機会がなかったのである。
 男の動きは決して素早くない。ふらり、と一歩進めるたびに落ちた右腕からばしゃりと血が滴る。だのに動け、と念じても足は動かない。敵の白刃はすぐ目と鼻の先にまで迫っている。もはや見えているのかも怪しい濁った両の目が、ぎょろりと回って数馬に向いた。
 結局最後まで、数馬の足は動かなかった。
 動いたのはその両手。飛んできた刀を弾いたあの苦無が、正確に男の心臓を貫いていた。三年間磨いてきた数馬の苦無の技は、意識の朦朧とした落ち武者の刃をかいくぐって急所を突くことなど、息をするのと同じくらいにたやすく成し遂げてしまった。
 どさりと「人間」だったものが「物体」のように地に倒れた。ぴっと血が数馬の頬に飛ぶ。あれほど念じて少しも動かなかった足は、今やガクガクと震えていた。

 先に行ったクラスメイトが異変を察して戻ってくるのと、どこかで実習を見守っていた教師が血相を変えて数馬をだき抱えるのは、ほとんど同時だった。
 その日数馬は、人を殺したのである。

* * *

 気がついた時、数馬は通い慣れた医務室の布団の上で横になっていた。
 ずっと見守っていたらしい担任教師は、意識の戻った数馬の頭をぽんと軽く叩いてから出て行った。
 なにか書付をしながら待機していた校医の新野はまだ茫洋としている数馬を見て優しく笑ったあと、白湯を入れてくれた。
 薬を煎じる臭いがすると思えば、衝立の影から善法寺伊作が顔を覗かす。猫目を情けなく垂らして、そのやけど傷だらけの両手で数馬の両頬をそっと触ると、額をこつんと合わせてただ「無事でよかった」と言った。
 出て行った担任から連絡が行ったのか、浦風藤内を初め仲のいい三年生が続々と医務室を訪れ、口々に大丈夫か、怪我はないか、気分は、と数馬を心配した。おそらく彼らは知らないのだろう、数馬がなにをして医務室で横になっているのか。
 同級生の気遣う声をどこか遠くに聞きながら、こういう時先生も先輩も何も言わないのだ、と数馬は知る。

 忘れて良い、とは誰も言ってくれなかった。だが同時に、乗り越えろとも言われなかった。

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