君に酔う

2,642 文字

6

 日差しはないのに妙に温かく、風も吹かない、不思議な天気の日だった。閉め切った室内は昼間だというのに仄暗く、その暗さが長屋の私室を日常から切り離す。こんな日には、なにが起きても仕方がない。雷蔵は膝の上の重みを見下ろして、ほ、と溜め息を吐いた。
 雷蔵の膝の上では、三郎がぐったりと身を投げ出している。とろんと半分に落ちた目、睡眠時のような深い呼吸、くつろいだ猫のようにどこにも力の入っていない体。普段から人の顔を借りて生活している彼に限っては考えられない緩み切った体に、雷蔵は眉根を寄せた。
 三郎がこうなってしまった原因はおそらく雷蔵にあった。おそらく、というのはいまいち因果関係がよくわからないからで、ただ状況からすると雷蔵以外に原因は見当たらない。
 彼の上半身に二重三重に縄を打ち、身動き一つできないように固めたのは雷蔵だった。今はもう雷蔵自身の手によって外された縄の痕跡は、わずかに赤く肌の上に残るだけ、それもあと数刻もしたら消えてしまうだろう。だとしても、考えられるのはこの縄のせいに違いなかった。
 雷蔵の捕縄術の復習に付き合うと名乗り出たのは三郎からだった。三郎自身、こんな風になるとは思ってもいなかったに違いない。もちろんはじめからこうではなく、いつもみたいに軽口を叩いて、戯れ合いの延長線上のようなやりとりだった。それが、雷蔵が縄を回す数を増やしていくにつれ、三郎の口数は少なくなり、ついには声を出すのも億劫だとばかり、体の力を抜いてしまったのだ。
 大丈夫、と三郎は言った。本当に大丈夫かな、と僅かな疑念が雷蔵の脳裏を過ぎる。書籍を参考に見よう見まねで打った縄だ。間違いがあってはいけないと慎重に手順をなぞったはずだが、万が一ということもある。たしかに三郎の様子に苦痛は見受けられなかった。それでも、何が三郎をこうしてしまったのか、わからないと安心できない。
 雷蔵は独り言のように呟いた。
「どうしてこうなっちゃったんだろうね」
「ぅん……」
「あれ、聞こえてる?」
「ん……」
「聞こえてないな、これは」
 返事を期待したものではなかったが、三郎から相づちのような曖昧な声が返ってくる。猫が、人の言葉もわからないのに話しかけられ絶妙な間合いで鳴くのに似ていた。だからというわけではないが、思わず猫にするように、三郎の髪へと手を伸ばす。ふわ、と空気を胎んだそれをかき分けて、指の腹で頭を撫でる。己の物を模した偽物のはずが、まるで本物と見分けがつかない。
 二度、三度と繰り返していると、三郎がむずかるように体を捩った。触れられるのは嫌だったかと手を止めると、頭をずらして自らの頬、否、耳の辺りを雷蔵の手に押しつける。頭に触れていたときよりも直接の熱が指先に伝わってくる。そうか、面と同じように鬘を付けた頭は作り物だから、と得心がいくと同時、あたたかな熱の伝わる耳は本物の三郎だということに思い至って、ざわりと胸が騒いだ。もっと撫でて、と言わんばかりの仕草に、一度は離れた手が再び三郎へと伸びる。
 かかる髪を指で除けて、そっとその耳に触れる。溝の深いところに人差し指を差し込んで、裏側に親指を掛け、つまむようにして耳輪をなぞると、三郎の鼻から息が抜ける。
「ふ、……っ」
 くすぐったいとも気持ちいいとも取れる吐息の音に胸が高鳴る。彼が逃げないのをいいことに、雷蔵は手の中の耳をいいように触った。柔らかい耳朶をつまみ、耳の裏を爪の面で撫でる。三郎はくふくふと笑い声と吐息の間のような音を洩らしながらも雷蔵の指を許容した。そのことがさらに雷蔵の胸をくすぐる。
 鬘の生え際も、面の境目も近いその場所に触れさせるのは、自分だけだと思うのは自惚れだろうか。マタタビを与えられた猫のように前後不覚の状態であれば、誰でも許してしまうのだろうか。
 何度も撫でるうちに気付いてしまった、耳と生え際と、顔との境目。そこに面の継ぎ目があった。指の先がかすかな段差を捉える。質のいい面の作りと、化粧の技術とで隠されて、一目ではそれとわからない面の継ぎ目に、雷蔵は爪の先を掛けた。
 今なら三郎の面を剥いでも気付かれないのではないか。三郎の素顔を見れるのではないか。己だけが許されているならかまわない。だが、そうでないとしたら。他の誰かに暴かれる前に、今なら自分が、自分だけが——
 考え込んだ雷蔵を引き戻したのは、すべての元凶である三郎その人だった。
「らいぞう」
「……」
 夢とうつつの間を彷徨っていた瞳が、いつの間にか、しかと雷蔵に向いていた。まだほわほわと頼りないが、確かに雷蔵に向かって手を伸ばしている。思わずその手を取ると、せっかく離してやったというのに、三郎は再度雷蔵の手を己の顔に押し当てようと導く。
「いいよ。みても。きみなら」
 そう言った三郎の顔が、あまりにも幸せそうだったので。
「……」
 雷蔵はしばし沈黙し、それから重たいため息をついて、息を吐ききった頃には先ほどまでの妙な気分も忘れ、ぺしりと三郎の額を叩いた。あいて、と三郎が額を抑える。
「そういうこと、誰にでも言うなよ」
「……雷蔵だから言ったのに」
 三郎の声は、幾分力を取り戻していた。そのことに安堵している己を、雷蔵は自覚する。
「目が覚めた?」
「ずっと起きてた」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
 いつも通りの会話に気が緩む。
 小気味よい受け答えに、なんだかはじめからすべて夢だったような気さえしてきた。
 図ったように、ぱたぱたと慌ただしい足音が聞こえてきて、二人そろって顔を扉のほうに向ける。走ってきた勢いそのままに、すぱんと遠慮なく扉が開いて、八左ヱ門が顔をのぞかせた。
「雷蔵、三郎、また毒虫が逃げた。回収手伝ってくれないか」
「うん」
「おう」
 八左ヱ門のおかげで、部屋に立ちこめていた妙な空気が一掃される。
 その頃には三郎は体を起こして、身なりを整えていた。手甲や制服の喉元を、さりげなく直す、その仕草にどきりとした。あの布一枚下には、雷蔵がつけた縄目が巡っている。制服の合わせから見え隠れする跡が、あれは夢ではないのだと知らしめているようで、雷蔵は一瞬息が詰まった。
「……何してたんだ? 暗かったろうに、部屋締め切って」
 八左ヱ門は怪訝な顔をしている。
 衣服を直し終えた三郎が、ちらと雷蔵を見た。まぶたを半分落としたあの瞳で、雷蔵の動揺を見透かして、八左ヱ門を揶揄うそぶりで、その実雷蔵に向かって言う。
「秘密」
 そう嘯いた三郎の、耳の端はほのかに赤い。

関連小説

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です