昼の忍たま長屋は長閑である。焙烙火矢でバレーをする六年生も、毒虫を逃がす五年生も、塹壕堀をする四年生も、迷子になる三年生も、いがみあう二年生と一年生もいない。当然、皆授業中だからだ。
その静けさが、ひとり部屋で布団に横になっている身にしんしんと襲いかかった。
三郎は風邪を引いていた。
変装のために余分な肉を付けず、鍛えてはいるものの痩せ型の三郎は、他の忍たまより風邪を貰いやすかった。体のできてきた上級生のうちでは群を抜いている。自覚はあるので気をつけてはいるがもともと季節の変わり目に弱いせいで、今回も、残暑が急に和らいだタイミングで案の定体調を崩した。もともと暑気あたり気味で食欲が湧かず、体力が落ちていたのがさらに悪く、思いのほか高熱が出て、敢えなく出席停止となった。座学の授業にも出られないほど熱を出すのは、流石の三郎も久しぶりであった。
病気の何がいけないかというと、体が動かないことでも頭が回らないことでもなく、そのせいで雷蔵の変装ができないことだ。怪我はまだいい、患部だけ隠してしまえばあとはどうにでもなる。(もちろん雷蔵にバレればこっぴどく叱られるから、実際にはやったことはないが。)
だが病気はそうはいかない。熱が出て、冷や汗が浮く。口が上手く回らなくて、目が霞み、まともに立ってもいられない。そうなればもう、雷蔵の変装どころではない。
今朝だって本当は、素知らぬふりで雷蔵について授業に出ようとしたのだが、着替えのために体を起こしただけで目眩がしてそのまま布団に逆戻りだ。驚いた雷蔵に首筋を両手で触られて熱を測られて——面のせいで額では体温を測れないのだ——、「すごい熱!」ともう一度驚かれた。
「すぐに診て貰わなくちゃ」
「いやだ、らいぞうと授業にいく」
「莫迦を言うんじゃないよ、起きれもしないくせに」
「医務室はいやだ、触られたくない」
額で体温が測れないので、医務室に行けばまた誰かに首を探られる。ただでさえ首筋というのは人体の急所であるが、三郎にとって面と地肌の境目近くのそこは急所も急所である。雷蔵だから許せるが、いくら保健委員だろうと善法寺にさえ触れられたくはない。
わがままを言う三郎を、雷蔵は問答無用で俵のように担ぎ上げて、保険医の新野に診せた。熱で朦朧としながらも必死で身を捩っていたら、後ろから押さえつけられて「猫の子みたいな抵抗をするな!」と叱られて、首どころか下瞼はめくられるわ口の中まで覗かれるわで散々だった。そのうち抵抗する気力も無くなって、ぐったりを身を任せている間に診察は終わったらしく、熱冷ましの薬を粉と薬湯とで二種類も出された。飲みたくないと駄々をこねたら今度は新野に「これ以上熱が上がったら座薬しかない」と脅されるし、やはり医務室などに行って良いことなど一つもない。
と、半分以上自業自得の結果であるのに目を背けて、三郎は布団にくるまって寝返りを打った。
雷蔵は三郎を部屋に戻すと、「朝食を食べ逃す!」と急いで部屋を出て行ったきりだ。薄情者、と呟くも、熱が高すぎて物などとても口に入らぬ三郎に、雷蔵を引き留めるすべはなかった。薬湯のあとに飲むようにと出された、葛でとろみとつけた甘口の生姜湯のおかげで腹は空かない。それきり、うとうとと寝ては醒めてを繰り返すうちに、もう日は高く昇ってしまった。気がつけば雷蔵どころか、誰の気配もしなくなっている。
そして今、こうしてしみじみと、昼の忍たま長屋の静けさに、心をやられているのである。
静けさと寂しさは似ている、と三郎はゆめうつつに考えた。夜のしじまと違って、昼の忍たま長屋の静けさはことさら三郎の胸を刺した。明るい日差しのせいで、おいてけぼりにされたような哀しみがある。どんなに耳を澄ましても、人の声ひとつ聞こえず、聞こえてくるのは秋の虫の音ばかりで、それがさらに淋しさに拍車を掛けた。ただでさえ秋というのは淋しい季節である。体が弱っているからか、なんていうことない風邪のはずなのに、もうこのまま死んでしまうような気さえしてきた。
「うう……」
熱くなった目頭を誤魔化すように寝返りを打つが、今度はその拍子に、雷蔵の面が取れそうになった。普段ならこんなことで面が外れることはないが、寝汗が顔と面との隙間に入り込んで、面を浮かせているのだ。両手で顔を押さえて肌に貼り付けようとしても、すぐにじわりと浮いてきてしまう。そんなことで、ますます三郎の心は弱った。
わっ、と、どこか遠くで歓声が上がった。それがとどめだった。あんなに人の声がしないか耳を澄ませていたのに、いざ聞こえてみると、それは自分が関わりようのない遠くのできごとで、誰の、何の声なのかもわからない。きゃらきゃらと笑い声がしている。自分はこんなに弱っているのに。どんどん気分が落ちてゆく。八つ当たりだと気づくことすら、今の三郎には難しい。
己がいなくても世界は回る。当然といえば当然の事実に、ひどく打ちのめされる。やはり風邪など引いて、いいことは一つも無かった。さみしい。世界に置いて行かれたみたいだった。面が上手くつけられないだけで、三郎は自分というものがぐずぐずに溶けて無くなってしまう気がした。もうとっくに、己などこの世のどこにも存在しないのかもしれないとすら思った。
どうせ、自分は初めからそのようなものだった。顔も、形もない、曖昧としたもの。何者にもなれるかわり、誰にも見つけてもらえない、透明な水のようなもの。すぐにでも溶けて無くなってしまう、春の雪のようなもの。
敷きっぱなしの布団の上に、寝間着と、雷蔵の面と鬘だけが残されている。何かがあったのかもしれない、布団の上はびしょびしょに濡れているが、それが何だったかはもう誰にもわからない。そういう風景を想像をした。
そのときだった。
「三郎、お昼だよ!」
「……っ」
すぱん、と戸が開いて、やたら元気な声で雷蔵が入ってきた。病人の部屋に入るにしては元気すぎる声だ。だがおかげで、鬱屈した空気が一気にどこかへ吹き飛んでいく。三郎は、被っていた布団に慌てて潜り込んで、どうにか顔面を取り繕った。しっかりと顔を押さえると、溶けた出していた意識がにわかに戻ってきた。
雷蔵の心配そうな声が聞こえる。
「三郎? ごめん、具合悪い?」
「だ、大丈夫だ……面の調子がわるいだけ」
「そう? お湯貰ってきたから、体を拭くといいよ」
「ありがとう……」
三郎はゆっくりと布団から這い出た。その様子をちらりと横目で見て、それから雷蔵は何の気なしに視線を逸らす。
「僕、おばちゃんにお粥頼んでるんだった。貰ってくるね」
わざとらしい、今思い出したと言わんばかりの台詞だった。三郎が面のことを口にしたから、彼なりに気を回したのだろう。だが、余計な気遣いだ。
「待って!」
今にも背を向けて立ち上がってしまいそうな雷蔵に、三郎は取り縋る。今また一人きりになったら、今度こそ跡形もなく溶け切ってしまうかもしれない。そんなことを考えるくらいには、三郎はまだ熱で参っていた。
「も、もう少しここにいてくれないか?」
「でも……」
雷蔵は逡巡を見せたが、深く悩む前に「わかった」と頷いてくれた。そうと決まれば雷蔵は、ほっと息を吐く三郎には気付かぬ様子で、行李から手ぬぐいを何枚か取り出して、持ってきたお湯に浸し始める。絞ったそのうち一つを持って背後に回ると、ほら、と三郎を促して座る。
「拭いてやるから、脱いで」
「え、それくらい自分でやるよ」
「背中はできないだろ。いいから」
このままだとまた問答無用で剥かれてしまいそうだったので、おとなしく諸肌を脱ぐ。汗だくの肌が空気に触れて冷えるより先、熱いくらいの布が首筋に押し当てられる。
うなじから、右肩。鎖骨の方まで手が伸びる。もう一度肩を通って、二の腕。肘。手のひらから指先まで拭われる。
「肩、とがってる」
「筋肉はあるのにね」
「指は僕より細いなあ」
ひとつひとつ、雷蔵が触れた場所から、徐々に体がもどってくる気がして、三郎は目を閉じた。手拭いを温め直して、次は左肩から。順に同じようにされて、さらに半分がもどってくる。もう一度手拭いを絞って、広げたそれを肩に掛ける。肩甲骨。背骨の上。両手で布の上から肩を揉むようにして、そのまま撫で下ろす。
そうして三郎は、ようやく人の形を取り戻していった。
手ぬぐいを渡されて促されるままに前は自分で拭いて、そのうちに新しい寝間着を着せかけてくれる。寝間着の帯を締め直したところで雷蔵は立ち上がった。
「お粥、貰ってくるから。その間に鬘と面も外して拭いておくと良いよ」
「……」
雷蔵がいなくなった部屋で、三郎は、置いていかれた湯桶を覗き込んだ。冷めた湯の中から、雷蔵が、三郎を見返してくる。まだ朦朧としているせいか、とうてい許せる出来の変装ではなかったが、雷蔵の顔がそこにあるだけでなんとなく安心した。
しかし、簡単に言ってくれる。君はまったくわかっていない。この面が、この鬘がなければ、三郎は自分の形を簡単に見失ってしまうことを、雷蔵はまったくわかっていない。
ぜったいに外すものか、と誓って、三郎は再度布団の中に潜り込んだ。
また溶けてなくなる前に、雷蔵が戻ってきてくれることを願いながら。


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