三郎が実習から帰ってきた。
個人別の課題で開始の時期も期間もバラバラ、三郎は五年生の中でも一番最後で、たしかここ三日ほど学園内で姿を見かけていなかった。
彼の帰還にたまたま居合わせたのが尾浜勘右衛門である。学園長の言い付けで事務員の小松田さんの手伝いとして正門脇の事務室で書類の分別を手伝っていたところ、くたびれた様子の三郎が門をくぐって入ってきた。
「あ、三郎!」
事務室から顔を出してすかさず声を掛けると、三郎は絡げた荷を解こうとする手を止めて勘右衛門を見やった。
「なんだ勘右衛門、こんなところで」
「いやあ、実は学園長先生がさあ」
小松田さんが入門票を持ってくる間、雑談をしつつ三郎を観察する。全体的にくたびれてはいるが、まあ怪我もなく、やつれてもおらず、元気そうだった。あの鉢屋三郎に限って実習でしくじるなんてことありそうにないが、それでも一応、念のため。
今回の実習は過去一の難易度で、肉体も精神も酷使するのだ。勘右衛門もまた、それを経験済みだった。
同級生の無事を確認してひとつ安心した勘右衛門は、両手を伸ばして書類仕事で凝った体をほぐしたあと、頭の後ろで組んで改めて三郎に笑いかけた。
「あーあ、にしても、タイミング悪かったねお前。雷蔵はちょうどさっき出たところだよ」
入門票に記帳していた三郎の筆を持つ手が一瞬止まった。が、本当に一瞬のことである。
「雷蔵、どこか出かけたのか?」
「うん。詳しくは聞いてないけど、出門票に中在家先輩と一緒に名前が書いてあったから委員会の用事じゃない? えーと、帰りの予定は……あらら」
近くに置いてあった出門票の束から手に取った一番上の一枚を覗き込んで、勘右衛門は瞠目する。
「帰りは一週間後、だってさ」
「……そうか」
「会えなくて残念だね」
「うん、まあ……そういうこともあるさ。ところで勘右衛門、委員会のほうは?」
「つつがなく」
「ならいい。じゃ、またあとで」
記入した入門票を小松田に返し、三郎が事務室を出て行く。
その背中が先ほどよりも元気なく見える気がして、勘右衛門は頭を掻いた。
「大丈夫かなあ」
三郎は普段から雷蔵にべったりで、不破雷蔵あるところ鉢屋三郎あり、なんて自分で決め台詞を作り有言実行しているようなところがある。まあ、それがなくとも、一人きりの実習から戻ってきて同室がいなければ、勘右衛門だって気落ちするだろう。やはりクラスメイト、同室の仲というのは、顔を見るだけで安心するから。気のせいならいいが、と勘右衛門は小さくなる背を見送った。
このときの勘右衛門の心配は、実に正しかった。
結論から言うと、これがまったく大丈夫ではなかったのだ。
◆ ◇ ◆
忍たま長屋の自室に戻った三郎は、部屋の中に級友の姿がないことにほのかに落胆を感じていた。勘右衛門から聞いたとおり、雷蔵は留守だった。
「……」
ただいまを言う相手もいないので、無言のまま部屋に入る。障子を閉めると、室内は僅かに薄暗くなった。授業は終わっているが、外はまだ日が高い。埃っぽい体を風呂で流したかったが、今の時間では準備はできていないだろう。
綺麗に片付いた自分のスペースにすとんと腰を下ろして、あぐらをかいて座った。部屋の反対側の雷蔵の文机は、図書館で借りた本やら書き付けの反古紙やら、使いかけのまま墨が固まった硯やらで雑然としていた。手ぬぐいが端から覗くつづらの上には、制服が脱ぎ捨てられている。天日干しでもするつもりだったのか、枕だけ片付け忘れたかのようにぽつねんと床に落ちている。
たった今出て行ったかのような、雷蔵の気配を強く残したその様をぼんやり眺めながら、三郎は後ろ手に手を突きなおした。
雷蔵がいない。
当たり前の事実を再確認すると、実習で溜まった疲れが体中に重くのし掛かってくるような気がした。
「……」
三郎はそのまま後ろに倒れ込んでしまうと、やはり無言のまま天井を見上げた。
少しだけ目の端が湿ってきて、慌てて瞬きを繰り返す。なんで泣きそうになっているのか、自分でもよくわからなかった。疲れているせいだ、と深呼吸を繰り返す。
雷蔵と離れることなんて、これまでいくらでもあったことだ。それこそ夏休みなどは一月近く離れているのだから、たかだか三日会えていないからって、なんだというのか。
(でも、雷蔵に会いたくて、頑張ったのに)
またじわり、と目頭が熱くなってきたので、慌てて目元を腕で覆い隠した。
実習は本来、四日間の予定だった。それを、早く雷蔵に会いたい一心で無理して、三日間に縮めて来たのだ。帰ったら雷蔵に「お疲れ」と言ってもらうのだ、「よく頑張ったね」と褒めてもらうのだ、そう思って、寝る間も惜しんで働いた。それなのに。
(雷蔵がいない……あと七日も会えない)
実習中まともに眠れていなかったせいで、からだは休息を欲していた。暗くなった視界に、意識がだんだんとぼやけてゆく。
(雷蔵にただいま、って、言いたかったのにな……)
瞼の上の袖が熱く湿っていくのを感じながら、三郎の意識は闇に溶けた。
翌朝からすぐ、三郎は授業に戻った。
昨日のうちに勘右衛門から聞いていたのだろう、教室に入ったとたん八左ヱ門が大きな声で「三郎!」と名を呼ぶ。
「食堂で会わなかったじゃないか。戻ってたなら声くらいかけろよ」
「すまない。疲れて寝入っていた」
嘘だった。昨日はおかしな時間に眠ったせいか夜半に目が覚めてしまい、その後は暗闇でじっとして過ごした。それに朝も食欲が湧かなかったので、実習用に貰った忍者食のあまりで済ませてしまった。
「ならいいけど。これ、いない間のノート取っといた」
「ちゃんと読めるように書いてあるんだろうな」
「おいおい、誰が取ったと思ってんだ」
押しつけるように渡された帳面をパラパラとめくると、そこに並んでいるのは全て、大きめで止め撥ね払いが大雑把な雷蔵の字である。八左ヱ門がしてやったりと笑った。
「へへ、俺のノートだと思ったか? 雷蔵からお前に渡すようにって預かったんだ。だから代わりに、雷蔵がいない間はお前がノートとれよ」
「……言われなくとも」
そのとき教科の担当教師が入ってきて、八左ヱ門は慌てて席に戻ってゆく。三郎も自分の席に座り、級長として始業の号令を掛ける。
出席を取る間も、授業が始まってからも、三郎は一ページ一ページ、雷蔵の字の並んだノートの隅から隅まで目を通した。雷蔵の字は大味だが、図書委員らしく難しい語彙を知っているし、漢字も間違えない。それでも時々書き損じがあって、ぐちゃぐちゃ、と上から塗りつぶされて目玉を掻かれて蓑虫になっていたり、眠気が限界だったのか線が蛇行していたり、涎の後が残っているところもあった。
(ふふ、雷蔵らしい)
船をこいでかくん、と首が落ちた瞬間に目を覚ます雷蔵を思い浮かべて、三郎はそっと微笑んだ。
そうしながら三日分のノートの最後のページまで辿り着く。これで終わりかと、念のため次のページをめくったところに、
——三郎まだかな。
と落書きがしてあって、三郎の目が丸くなる。くすり、と息だけで笑って、三郎は板書を写し取る振りで、その横に自分の几帳面な字を並べた。
——雷蔵まだかな。
雷蔵が帰ってくるまで、まだあと六日もある。
◆ ◇ ◆
昼休み、兵助は見慣れた同級生の後ろ姿を食堂に見つけた。
赤茶けたふわふわの髷が群青色の頭巾からぴょんこと飛び出ている。しかし、それが二つ揃いでなく、一つだけというのは、少し見慣れない光景だった。確か三郎が、個人実習に行っているのだったか。あれは大変だったなあ、と兵助は自分の時のことを思い返してげっそりした。
そんな兵助自身も、ここ数日は重たい宿題が立て込んだり、委員会の仕事が忙しかったりで他の組の様子まで気にしている暇が無かった。昼休みに食堂に来る暇も無く、おばちゃんに作ってもらったおにぎりや、自作の高野豆腐で食を繋いでいた有様である。
久しぶりに出来たての湯気を立てる定食を受け取って、豆腐の小鉢があることにほくほくしながら、同級生の元に向かう。空いている正面の席に座ろうと回り込んだところで、兵助はようやく間違いに気がついた。
「なんだ、雷蔵じゃなくて、三郎か」
「なんだとはなんだ、兵助」
箸を動かす手を止めて、兵助を見上げて文句を言うのは、三郎に違いない。
昼定食の焼き魚の身を丁寧にほぐし、骨を一本一本取り除いているのを見れば一目瞭然。雷蔵だったらここまでしない。適当に身と骨とを分けて、口に入れたあとに見つけた骨は大きければ吐き出して、小さければそのまま飲み込む。雷蔵の横にいるときは三郎も真似してそのように食べることもあるが、一度骨が喉に引っかかって大騒ぎになってからは、流石に加減を覚えたようだ。
「三郎は実習だって聞いてたから。えっと、いつ戻ったんだ?」
「一昨日だな」
三郎は魚をほぐす手を再開しながら答えた。
「雷蔵は?」
「雷蔵はおつかいで、あと五日は戻らない」
「そうか。……八左ヱ門は?」
いつも雷蔵と一緒にいるイメージの強い三郎だが、同じくろ組の八左ヱ門とも仲が良い。雷蔵がいないなら八左ヱ門と一緒にいそうなものだが、と回りを見渡しても、彼の姿はない。
「さっきまでそこに座ってたが、また虫が逃げたとかで飯を掻き込んで出てったところ」
そこ、と顎で兵助の座る席を指し示し、三郎はまた一つ、小骨を魚の身からより分ける。
そんな様子を見ながら席に着いた兵助は「いただきます」と手を合わせると、まずは豆腐へと箸をのばした。醤油も薬味もつけずとも、お豆腐はおいしい。大豆の風味を口いっぱいで感じていると、呆れたような視線が目の前から飛んできた。
「うまそうに食うなあ……」
口の中のものを飲み込んで、もちろん、と兵助は頷く。
「美味しいのだから、当然」
「それは重畳。なら、わたしの豆腐も食べるか?」
「いいのか!?」
三郎は自分のお盆の上の、手つかずだった豆腐を、小鉢ごと兵助の盆の上に載せた。
「ありがとう! お礼になにか別のおかずと交換しよう」
「いや、いい。もう腹一杯だから」
「え、でも」
三郎はそう言うが、盆の上にはきれいに骨を取り除いただけの、まだ手つかずの焼き魚が丸々一尾残っているし、青菜のおひたしはなくなっているが、きんぴらには箸を付けた形跡がない。白飯に至ってははじめから一口分かそこらしかつがれておらず、その一口を味噌汁の残りで流し込むようにして食べて、三郎は「ごちそうさま」と手を合わせた。
「おい、お残しは……」
「乱太郎、きり丸、しんべヱ! ちょうどこっちの席が空くぞ!」
兵助の言葉を遮って立ち上がった三郎は、今し方食堂に入ってきた一年生に向かって手を上げた。たしかに、昼時の食堂は混雑していて、三人が揃って座れる席は見つからない。もともと隣の二席が空いていたここならば、確かに三郎がどけば三つ席が空くことになるが——。
「これとこれ、お前が食うか、そうでなきゃしんべヱにでもやってくれ」
焼き魚の皿ときんぴらの小鉢をむりやり兵助のお盆に載せて、三郎はさっさと背を向けてしまう。
「えっ、あ、ちょっと、三郎!」
呼び止めるも虚しく食堂を出て行ってしまった三郎と入れ違いに、一年は組の三人組が兵助の前と隣にやってきた。こんにちは、だの、席ありがとうございます、だの、口々に挨拶しながら、三人は空いた椅子に座る。
「あれ、久々知先輩のお盆、随分豪華ですねえ」
所狭しと皿や小鉢の並んだ兵助の盆の上を見て、乱太郎が無邪気な声を上げた。
◆ ◇ ◆
実習から帰ってきて三日。指折り数えて雷蔵の帰りを待っているが、雷蔵が隣にいないだけでこんなにも一日が長い。
だからといって日々の生活をおろそかにはできず、昨日のうちに散らかっていた雷蔵の私物を片付けたのだが、それもよくなかった。ただでさえ雷蔵がいなくて戻る気の起きない自室が、綺麗に片付いたせいでさらに味気なくなった。後悔してももう遅く、せっかく片付けたものを元に戻してしまおうかとも思ったが、それはそれで虚しいだけの気がしてやめた。他人行儀な部屋で過ごす夜は、なかなか三郎に安眠を齎さない。
そのせいだろうか。今日の放課後は委員会の活動日だったので、久々に庄左ヱ門と彦四郎と顔を合わせたのだが、二人揃って体調を心配されてしまった。
「鉢屋先輩、なんだかお顔の色が良くない気がします」
「何を言っているんだ、庄左ヱ門。これは私の顔ではなく雷蔵の面なんだから顔色が変わるはずないだろう」
「でも……」
「うーん、それともなにか、面の手入れを間違ったかな。どれ」
一年生の手前、不眠を悟られるわけにもいかず、三郎は怠るはずもない面の手入れを言い訳にする。自分の顔に付いている面を八左ヱ門のものに取り替えて、もちろん鬘も早替えして、顔から外した雷蔵の面を確認した。
目と口のところを開けた雷蔵の面。持てる技術を全てつぎ込んで、観察にも惜しみなく時間を使い、素材にもこだわって作った特製品だ。特徴的な長い鼻はもちろん、穏やかに弧を描く眉も、毎年微調整を重ねている頬の線や顎の形も、もちろん肌の色だって、雷蔵そっくりに作ってある。
「別に、どこもおかしくはないと思うが……」
そう言って撫でた面の表面。額の真ん中に、小さなへこみを見つけた。手で慎重に撫でないと分からないくらいの、ほんの僅かなへこみだった。
「ん、これは」
なんだったか。指で強く押されたのが残ったような、この跡は。
(ああ、あのときの……)
すぐに思い当たったのは、実習に出る直前の雷蔵とのやりとりだ。
あのときは確か、雷蔵は座学の課題のことでいつもの迷い癖を発揮していた。それも本題ではなく、解答を紙面に書く際に先生が直しやすいように一行ずつ間を置いて書くべきか、詰めて書くべきか、それとも下に隙間を空けるべきか、なんてことで迷っているのを、隣で頬杖付いてにこにこと眺めていて怒られたのだ。
三郎としては、クラスの誰よりも深い課題への考察が既に頭の中にあるのに、それをなかなか書き出せないでいる雷蔵のことを、むしろ尊敬の目で見ていたというのに、視線に気付いた雷蔵は三郎の額を人差し指で強く押して「もう!」と憤った。指先一つとはいえそれが思いのほか強い力で、うっかりバランスを崩し無様に床に転がった三郎を見て、雷蔵は自分でやったことなのに、声を上げて笑った。
そのときの跡に違いなかった。
触れていた雷蔵の面に、ぽた、と一滴、雫が落ちた。
「あれ……」
「は、鉢屋先輩!?」
「どうなさったんですか!?」
後輩二人が慌てて飛んできて三郎の顔を覗き込む。三郎は自分でも、何が起きたのか分かっていない。ぽた、ぽた、と雫で濡れて行く雷蔵の面を、これはまずいと慌てて遠ざけた。
「鉢屋先輩、どうして泣いているんですか?」
泣きそうなのはお前のほうだろう、と彦四郎に笑いかけようとしてうまくいかない。それでようやく気がついた。頬を辿って下瞼をなぞる。雷蔵の面を濡らす雫は三郎の目から落ちていた。
「わたし……泣いて?」
「尾浜先輩、尾浜勘右衛門先輩! 大変です、早く来てくださーい!」
普段冷静な庄左ヱ門が、大声出して勘右衛門を呼んでいる。
やがてやってきた勘右衛門が驚きと呆れの溜息を吐いて手拭いを押しつけるまで、三郎はただぽたぽたと、表情も変えずに泣き続けた。
◆ ◇ ◆
三郎が限界だ。
雷蔵が戻ってくるまでまだあと三日もあるのに、なんというか、もう本当に、限界なのだ。
昨日なんて、三郎の手を引いた勘右衛門が八左ヱ門の部屋までやってきて、「見てらんなくて連れてきた」とのたまった。聞けば、委員会中に後輩の前で突然泣きだして、一年生を混乱の渦に落とし込んだという。泣いている本人にも涙の理由が分からないようだったが、八左ヱ門の変装をして、手に雷蔵の面を持っている三郎を見れば、なんとなく察するものがあった。
ただでさえここ数日、あまり笑わないし、悪戯もしない、どこか顔色も冴えないで、まったく精彩というものに欠けていた三郎である。こうなったとして、おかしくなかった。
鉢屋三郎が不破雷蔵のことを比翼の翼、連理の枝と、まるで己の半身のように思っていることは学園中が知ることだが、それでも忍術学園の五年生ともなれば、一人で実習や忍務にあたることもあれるし、委員会の上級生として頼られる存在で、同級生とばかりつるんではいられない。一週間やそこら離れていたからって、本来こんな風になるなんてあってはならないことなのだが、しかし、タイミングが悪かった。
五年の個人別実習は、課題がその生徒ごとに違う。遅れた生徒には遅れた生徒なりの、優秀な生徒には優秀な生徒なりの、レベルに応じた課題が宛がわれる。また、各生徒の特性を封じ、弱点を敢えて突くような内容だったりもする。例えば八左ヱ門であれば、得意の虫獣遁の使用を封じられ、逆に罪のない生き物の命と己の忍務の遂行とを天秤に掛けるような、ひどく意地の悪い課題を出された。なんとかこなして学園に帰ってきたときには肉体的にも精神的にも消耗しきって、体力には自信のある八左ヱ門でさえ一晩二晩は調子が戻らなかったほどだ。
それが、学年でもトップクラスの優秀さで天才の呼び声も高い三郎であれば、一体どんな高難度の課題をこなしてきたのか、八左ヱ門には想像もつかない。ついでに、鉢屋三郎の弱点と言えば、言わずもがなそれは——。
(もしかして、今雷蔵が学園にいないのは……?)
勘ぐりすぎかもしれない、しかし、可能性として考えられないことではない。だからといって八左ヱ門に何ができるというわけもなく、昨日は三郎の部屋に押しかけて、無理矢理隣で眠った。雷蔵の気配のない部屋はやけに殺風景に感じられ、知らない部屋のようだった。どうせ睡眠もまともに取れていないに違いない。案の定三郎は、八左ヱ門がもう寝ようと言ってもなかなか眠ろうとはせずに、明かりを落とした後も隣からは何度も寝返りを打つ音がした。
日付が変わり、今朝のことである。
「おい三郎、飯行くぞ」
「……いかない」
「はあ?」
「食べたくない」
「食べたくないって、お前……」
目が覚めて、既に仕度を調え終えている三郎を待たせ、自分も顔を洗って身支度をして、さて食堂に行こうと三郎を呼んだところ、これである。まるで子どものわがままのような駄々をこねて、部屋から出ようとしない。
「いらない、腹が減らないんだ」
「は、減らないって、——いつから」
「……」
黙っている、ということそれ自体が答えだった。少なくとも今朝に限って、というわけではなさそうだ。一歩食堂に足を踏み入れればおばちゃんの目があるから、お残しは許されない。誤魔化しのきかない状況だからか、三郎はそのよく回る舌で嘘八百を並べ立てもせず、開き直って黙秘の姿勢を貫くつもりのようだ。
埒があかないので無理矢理にでも引っ張っていこうとすると、掴んだ手を本気の力加減で振り切られた。
「いらないって、言ってるだろ!」
「っ!」
振り払われた衝撃でじんじんと痺れる手を庇う。三郎はそんな八左ヱ門を、空虚な瞳で見下ろしている。後悔も、悲哀もない、ただ醒めた目がこちらを見ている。その視線がふい、と逸らされ、そのまま三郎は食堂とはまったく反対方向へと出て行ってしまった。
「あいつ、大丈夫か?」
八左ヱ門は嫌な予感を感じていた。茶碗に張られた水が、縁のぎりぎりでなんとか零れずに耐えていたのが、ついに限界を超えて溢れだしてしまったような。川幅一杯に増水した水がついに堤防の堤を崩して、田畑へ流れ込んでしまったような。
だとしたら、溢れてしまった水は、一体どこへいくというのか。
「雷蔵……早く帰ってきてくれよぉ……」
八左ヱ門はらしくもなく、今ここにいない同級生へと弱音を吐いたのだった。
◆ ◇ ◆
指に挟んだ鏢刀を三枚、立て続けに放つ。指の先、その先の空中にまで意識が通っている感覚。どう投げたらどういう軌跡を描いて、どのように標的を切り裂くのかが、手に取るように解る。
想像した通りの動きで、三枚の鏢刀は的へ吸い込まれるように向かい、その中心に深々と突き刺さった。それを見ても、何の感慨も湧かない。当然の結果としか思わない。
間髪を置かずさらに二枚。今度は利き手と逆を使って、背を向けたところから振り向きざまに、その後は高く飛び上がって打つ。いつになく身が軽い。無駄なものがそぎ落とされて、まるで風になったように自由自在に体が動く。
実技の授業中だった。おのおの、得意の飛び道具を的に当てる授業だ。三郎が五枚の鏢刀全てを的の中心に当てると、おお、と控えめな賞賛の声がクラスメイトの間から漏れた。その中に、八左ヱ門の姿もある。彼だけは、感嘆ではなく心配の目でこちらを見ている。
(そんなに心配しなくていいのに)
昨日からさらに過保護になって、やれ食事をちゃんと取れやら、眠れないなら医務室に行けやら、口うるさく言うようになった八左ヱ門を、おせっかいなやつだとは思うだけで、従う気にはなれなかった。
雷蔵がいなくて、たしかに精神的には不調を感じていたが、それと裏腹に体調はそう悪くないのだ。体力は落ちているかもしれないが、元々三郎は長期戦より短期決戦型、パワーよりスピードタイプなので、身が軽くなり、神経が研ぎ澄まされる感覚は、そう悪いものではない。
それに、体を動かしている方が気が紛れる。雷蔵のことも、自分が何者かも忘れて、ただ無心に的を狙っていると、自分の体が透明になって、一陣の鎌鼬にでもなったようで、それはどん底まで落ち込んだ三郎の心を僅かに浮上させた。
——雷蔵がいないのなら、自分もいなくなってしまえばいいのだ。
それはとてもいい考えのように思われた。
五年生で一番きついといわれる、個人実習課題。忍者のたまごなら内容は他言するなときつく教師から言い含められている。だから互いに何をしてきたのかは知らないが、それぞれに皆厳しい課題が与えられたようだ。
その課題で、三郎は雷蔵への変装を禁止された。その代わり、年若い農夫、壮年の商人、旅の女芸人、物乞いの老婆。体格を変えることはできないが、老若男女ありとあらゆる姿に化けて、二つの敵対する勢力に潜り込んで互いに関する噂をばらまいた。ものの値段、人の動き、風呂屋の混雑から、流行の歌まで。目的は一つ、二つの勢力の間に新たな第三勢力が存在することを匂わせ、均衡が崩れることを予見させることだ。
結果、二つの勢力はありもしない第三勢力を噂の中に見出して、現状の拮抗した力関係によって保たれる均衡が脅かされるのを懸念し、それぞれ一時的に戦線を後退させる決断をする。
そこまでを見届けて、三郎は実習を終えた。最後まで気の抜けない、難しい課題だった。
実習中、雷蔵の面を付けることは一度もなかった。くるくると変装を変える内に、自分が何者なのかを、何度見失いそうになったことか。そういうとき、三郎は服の上からそっと、懐に隠し持った雷蔵の面を撫でるのだ。それで三郎は、五年ろ組の変装名人で、普段級友の顔を借りて過ごしている、お調子者の学級委員長である鉢屋三郎を思い出すのだった。
帰ろう。早く帰ろう。雷蔵のいる学園へ。彼の隣で、彼の顔を借りて、そうして自分を取り戻す。どんな立派な鎧よりも雷蔵の姿をしているときが一番安心できる。自分の顔よりも雷蔵の顔の方がもはや、一番身近であった。
学園というよりも、雷蔵の隣こそが三郎の帰る場所だった。
だというのに、戻ってきた学園に雷蔵はいない。
それではここは、三郎の帰る場所とはいえない。
食事も睡眠もなぜかうまく取ることができないのは、ここが安心できる場所ではないからだ。まだ敵地のど真ん中にでもいるように、体が警戒を解いてくれない。ずっと精神が高揚して、緊張し続けている。
帰ってきて最初の内は、それでもどうにか緊張を解こうと頑張った。食堂にも行った、眠る努力もした。雷蔵ならそうしろと言うと思ったからだ。だが食事は喉を通らず、無理をして食べても気持ち悪くなるばかり。眠気は一向に訪れず、時たまうつらとすることがあると、寝入り掛けたことを咎めるように動悸が止まなくなる。
これはもう却って努力する方が体に悪いと諦めてからは、実習中と割り切って過ごすことにした。実際そうしてみて、そのほうが楽に過ごせることに気がついた。
三郎は想像する。
もし忍術学園を卒業して、雷蔵と袂を分かってプロ忍になる日が来たら。きっと己はこのようになるのだ。鎌鼬のように、姿も形も曖昧で、雷蔵の顔も、自分の顔も失って、目に見えず、音もなく、誰にも気付かれず人を傷つける、ただそれだけの生き物になるのだ。
図らずもそれは、一種、忍びの理想の姿ともいえるのかもしれなかった。
だが、己がそうなることに、三郎はひとつの喜びも、哀しみも湧かない。感情さえもどこか遠くへ置いてきてしまって、三郎は途方に暮れた。まるで、帰り道が分からぬ子どものようだった。
そのときである。
「三郎!」
◆ ◇ ◆
すっかり戻るのが遅くなってしまった。雷蔵は焦燥を押し隠して中在家の後について学園の門をくぐる。
百年に一度のご開帳でしか一般公開されないという宝物庫。そこに収められている稀覯本の写本を是非この機会に作ってきてほしいと学園長に頼まれて、図書委員会の上級生である二人が指名された。それ自体は図書委員会の仕事でもあるし、なんら問題ないのだが、なにぶん時期が悪かった。
なぜなら明日にでも、三郎が実習から帰ってくるかもしれないのだ。そのときに一番に迎えてやるのは自分でなければいけないと、雷蔵はそう心に決めていた。
五年生で一番難しいとされる個人別課題。雷蔵も自分の番の時には散々な目に遭った。終わってからもひどく惨めな気持ちが尾を引いて、やっぱり僕は忍者に向いていない、もう忍者になるのなんてやめてしまおうか、帰ったら退学届を出そう、なんて半ば本気で考えながら帰り着いた。
だというのに、そんなこと何も知らない三郎が、帰ってきた雷蔵に向かってこう言うのだ。
「雷蔵、待ってたぞ! 君がいてくれないと、まったく話にならないんだ!」
話の中身は、五年ろ組の次の夕食当番の割り振りとか、そんなくだらないものだったけれど、三郎の「心底助かった」とでも言いたげな安堵の表情と言葉は、確かに雷蔵を救った。
五年生の中でいつも一番の成績をたたき出す、変装術でも武術でも右に並ぶものはそうはいない三郎が、雷蔵を必要だと言う。単純かもしれないが、それだけで雷蔵は、もう少し頑張ってみようと思うのだ。自分にもまだできることがあるんじゃないかと思えるのだ。
皆、雷蔵のことを、「三郎に顔を貸してやるなんて大したやつだ」「自分の顔が使われるのを許せるのはおまえくらいだ」などというけれど、実際に大したやつなのは三郎だし、迷い癖で優柔不断な自分をなんの理由も根拠もなく肯定してくれる三郎に救われているのは、いつだって雷蔵のほうだった。
だからこそ、こういうときには、三郎の支えになりたい。優秀な三郎は、もしかしたら一人でも大丈夫なのかもしれないけれど。少しでも三郎の助けになれるなら、そうすることが雷蔵の歓びだった。
入門票にサインをして、そこで中在家とは別れた。サインのついでに数日入門票を遡ると、一週間近く前に三郎が帰ってきているのを見つける。ちょうど雷蔵と入れ違いになったとしか思えずに、雷蔵はますます焦りを募らせる。
長屋に戻るのももどかしく、荷物もそのままに学園の中を歩き回る。五年ろ組の教室は空っぽで、それなら実技の授業中のはずと目星を付けて校庭へと向かった。だが、校庭では一年生がサッカーをしているだけで、そこにも三郎の姿はない。今度は手裏剣の練習場に向かう。そこにもいなかったらどうしよう、裏裏山だったらもうお手上げだ、そのときはおとなしく部屋で待っているしかない。そう思って向かった場所に、確かに三郎は、いた。
飛び道具の授業中だった。三人ずつ的について手裏剣を投げるはずが、両側の二人はすっかり三郎の技に見とれて手元がおろそかになっている。中央の的についた三郎だけが、ひらり、ひらりと舞うようにして、的の中心に連続して鏢刀を当てている。
全ての手持ちを打ち尽くして、演習場に一人立つ三郎。その背は痩せて、横顔は能面のように無表情で、雷蔵とはまるで似ても似つかない。ああ、やっぱり、と雷蔵は恐れていた事態に歯噛みする。こんなのはとても雷蔵の変装とは言えない。普段の三郎なら指を指して笑うくらいの出来だ。
であるのに、それでもまだ、何かに必死にしがみつくように、彼は雷蔵の姿をしていた。
彼我の距離はまだ大分あった。しかし雷蔵はもう堪らなくなって、大声で彼の名を呼んだ。
「三郎!」
突然の大声に、自分の番を終えて見学していたクラスメイトたちがざわりと揺れる。八左ヱ門などはその最前列で、雷蔵の声に誰よりも早く反応して振り返った。
それとは対照的に、三郎はごくゆっくりと、蝸牛のような速度で振り返る。まるで夢の中のようにぼんやりとしていた視線が、ぴたりと雷蔵と合う。そして夢ではないと確かめるため、その名を呼ぶのだ。
「雷蔵」
呼ばれた雷蔵は、ひとっ飛びで三郎の元に辿り着いて、両脇にだらりと垂れ下がった手を取る。冷たく薄い手が、雷蔵の温かい手に触れられてぴくり、と反応した。そっと持ち上げて、宥めるように撫でながら、雷蔵はもう一度三郎と視線を交わす。
「おかえり」
そう言ったのがどちらだったか。
「ただいま」
答えたのがどちらだったか。
雷蔵は後で思い返しても、よく覚えていないのだった。
そのときちょうど、終業の鐘が鳴った。実技担当教師の呆れたような「解散」の声で、今が授業中であることを思い出す。雷蔵も三郎も慌てて背筋をただすが、その教師の声も心なしかほっとしているように聞こえたのは、気のせいだろうか。
教師がいなくなると、いの一番に八左ヱ門がすっ飛んでくる。
「雷蔵! あーもう、遅かったなあ! 大変だったんだぞ、こっちは!」
雷蔵と三郎の間に入り、二人の肩にそれぞれ腕を回して、ぐっと体重を掛けてくるものだから肩が重い。大変だったというので、その重さは甘んじて受け入れて、雷蔵は八左ヱ門に苦笑を返した。
「ええっ、そんなこと言われても……これでも早く帰ってきたんだけど」
「うんうん、いいんだ。ちゃんと帰ってきてくれればそれで。な、三郎」
「……」
「三郎?」
雷蔵の反対側で同じように肩に腕を回されて斜めになった三郎は、しばらく黙っていたかと思うと、八左ヱ門から目一杯視線を逸らして、ほのかに首を赤らめた。
「どうしたの、三郎」
雷蔵がやさしい声で尋ねる。すると、
「なんだか急に、腹が減った……」
とようやく蚊の鳴くような声で呟いた。あんぐりと口を開ける八左ヱ門。三郎の痩せた背も相まって、何があったかは大体察したが、雷蔵は何も言わずにただ同意する。
「そうだね、僕もお腹がすいた。久しぶりにおばちゃんのランチが食べたい!」
「……おう、そうだな! 食堂行こう、食堂!」
八左ヱ門も、敢えて言及することはせず、三郎の肩に回していた手の位置を変えて彼の頭をぐしぐしと撫でくり回す。
「やめろ、ばか、頭が取れる!」
「取れるわけあるか!」
鬱陶しがりながらも、三郎もまた、その手を遠ざけようとはしない。
「おーい、雷蔵、三郎、八左ヱ門!」
校舎の方から、同じく授業を終えたばかりだろう勘右衛門と兵助が走ってくる。名前を呼び返しながら、雷蔵は二人に大きく手を振る。
「兵助、勘右衛門!」
五人の声が、青空の下に交互に響く。
「おかえり!」
「ただいま!」


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