存在証明

3,891 文字

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「——いぞう。……雷蔵」
 名を呼ばれながら体を揺すられる感覚に、眠りの淵から意識が浮かび上がる。そのそよ風のようなささやき声とやさしい手つきから逃げるように、んん、と呻きながら寝返りを打った。雷蔵は寝起きは悪くないが、睡眠時間はきっちり確保する方だ。頭でなく体が、まだ起きる時間ではないと言っている。そうすると、どうも目を開けるのが億劫に感じられ、布団の中に頭まで潜って言外に拒否を示す。
「起きて、雷蔵。起きてくれ」
 それを見た三郎がもう一度名を呼ぶ。徐々に覚醒しだした頭で、珍しいこともあるな、と雷蔵は思った。
 三郎は雷蔵より朝が早い。身支度に時間が掛かるせいだ。低学年の頃は、あまりに起きるのが早いので、本当に寝ているのか、それとも自分が起きるのが遅すぎるのかと悩んだ末に、三郎より早く起きようと頑張ってみたこともあったが、いくら雷蔵が頑張ろうが三郎はそれより早く起きる。何度か繰り返して、これはいたちごっこというやつだな、と気付いてからは、雷蔵は雷蔵の時間に起きるようにしている。その判断は正しかったようで、三郎も、雷蔵が目覚めるのに合わせて仕度を終えるようにしているらしい。変装の過程で見られたくない部分でもあるのだろう。やたらな早起きはお互いのためにならないと、気付いてからは雷蔵も気が楽になった。
 その経験からすると、これは妙だ。三郎が雷蔵を起こすなんて、滅多とあることではない。例外は、例えば抜き打ちの早朝訓練が入った時や、学園に侵入者が入ったなどの緊急事態、あとは雷蔵が寝坊した時くらい。だとしたら、こんな小さな声で、そっと体を揺すられている場合ではない。何でこんなに遠慮がちなのか、その理由が分からない。
「らいぞう……たのむ、起きてくれ」
 三度、もうほとんど泣きそうな声で名を呼ばれて、雷蔵はようやく覚醒した。前例のない、なにか三郎が途方に暮れるようなことが起こっている。そう認識すると、頭にかかっていた眠気はすっと覚めて、雷蔵はがばりと布団から身を起こした。
「三郎? どうかした?」
「雷蔵……!」
 部屋の中はまだ薄暗い。日も昇らぬ早朝だった。寝間着のまま、顔とかもじだけは雷蔵のものをつけた三郎が、目覚めた雷蔵にほっと安堵の息を吐く。
(あれ……?)
 と雷蔵は、三郎の姿の違和感に気がついた。なんだか肩幅が、いつもより狭い。寝間着姿のせいかとも思ったが、雷蔵の面を付けた頭と体のバランスが、どうもちぐはぐだ。それに、さっきから三郎の声が妙に高く聞こえて仕方がない。声変わり前の、下級生の頃を思い出す。この違和感は、一体なんだ。
 雷蔵がその正体に辿り着く前に、三郎が動いた。泣きそうな顔で無理に笑って、膝の上で握っていた両手を、寝間着のあわせに持っていく。
「驚かないでくれ、変装じゃないんだ。悪戯でもない。頼む、雷蔵。私を三郎だと、信じてほしい」
 何を、と尋ね返す暇もなかった。三郎はためらいもなくあわせを解いて、裸の上半身を雷蔵の前に晒したのだ。
「へっ——」
 そんな間抜けな声を出したきり、雷蔵はしばし目の前に現れた三郎の体を凝視した。最初は夢でも見ているのかと思ったのだ。
 夜明け前の薄暗がりに、ほのかに白い三郎の肌が浮かぶ。決して分厚くはないがしっかりとついていたはずの筋肉は消え失せ、代わりにそこにあったのは、腰から続くなだらかな線、あばらの浮いた薄い腹、丸みを帯びたささやかな二つの丘、そのそれぞれに、つんととがった鴇色の、——
「わーっ!? さ、さぶろ、ばか、おま! しま、しまえ! ばか! はやく!!」
 網膜に映ったものを、ようやく脳が認識する。夢であっても、これはまずい。ぼ、と顔に血が上るが早いか、雷蔵は諸肌脱いだ三郎に飛びかかって、寝間着のあわせを元のように閉じた。ゆるんだ帯を素早く巻いてぐいぐい絞める。そのときに手に柔らかいものが当たった気がするが、深く考えてはいけない。
 不格好ではあるがなんとか体が着物の下に仕舞われたのを確認して、雷蔵はようやくほっと息を吐いて三郎から離れた。その間されるがままだった三郎は、ぽかんと間の抜けた表情で、ようやく口を開いたかと思えば、
「馬鹿って二回言われた……」
「馬鹿なものは馬鹿だろ! なんでそんな躊躇なく見せるんだ!」
 喚く雷蔵を見ても、まだピンときていない様子である。三郎の方が夢でも見ているみたいだった。
「きみは、……私が三郎だと、信じてくれるのか」
「はあ?」
 うっかり腹の底から呆れた声を出してしまって、三郎の肩がびくりと震える。どこか途方に暮れたようなその声も相待って、いつもより頼りなく見える。だめだだめだ、と心を落ち着けて、雷蔵は布団の上で居住まいを正した。
「とりあえず、説明して」
「説明も何も……目が覚めたら、こんな姿になっていたんだ。上半身だけじゃない、下半身も。見るか?」
「見ない!! ていうか、ねえ、なんでさっきから見せようとするの!?」
 また帯に手を掛ける三郎を、わっと大声を出して止める。なんでそうすぐに脱ごうとするのか、雷蔵には訳がわからない。いや、確かに、突然三郎が女になるなんてことのほうが、まずもって訳のわからないことではあるのだけれど――。
 止められた三郎は、あわせをぎゅっと握りしめて俯いたままに口を開く。
「だって、私は、変装名人だから……」
 また突拍子もないことを言い出した、と頭を抱えたくなるのをぐっとこらえ、雷蔵は黙って続きを促す。三郎は雷蔵から頑なに視線を逸らして、こう続けた。
「こんな姿になってしまって、どうも夢でも幻でもないと悟って、それからまず、きみになんて説明しようかと考えた。体が変わって、声も高くなってしまったし、私が私である証明ができないんだ。顔も女になっているが、そもそもきみにも素顔を見せたことがないんじゃ、見せてもなんの意味も無い。いっそ黙っていようかとも思ったが、ここまで体型が違うと誤魔化せないし、それなら全部見てもらって、それで雷蔵に判断してもらおうかと」
「判断って、なんの」
「私が、鉢屋三郎であるか、否か」
 聞き終えて雷蔵は、はあ、と大きな溜息を吐いた。やっと合点がいったからだ。頭が良いはずの三郎は、たまにどうして考えをこじらせすぎて突拍子もないことをする。悩み癖のある雷蔵でさえ思いつかないことを考える。今回のこともその類いだった。
 溜息の意味をどう取ったのか、三郎はようやく雷蔵のほうを見ると、ムッとして挑むように言い放った。
「いいか雷蔵。私は、体が女になったのではなく、鉢屋三郎でなくなったのかもしれないんだぞ」
 だが、何をどう聞かれても、雷蔵の答えは変わらない。
「おまえは、鉢屋三郎だよ」
「どうして――」
 雷蔵は三郎の肩に手を伸ばした。さっきから、そこが細かく震えていることに、雷蔵は気付いていた。引き寄せた肩は強張って冷えている。体温を移すように、薄い寝間着ごしに肩から背中に掛けてをゆるゆると撫でてやる。
「言わせてもらうけどね、おまえが素顔を見せないのなんて今更だし、今言ったことは、男であっても同じだろ。おまえがおまえであるかどうか、僕が声や体で判断してるとでも思ってるのか?」
 言葉を紡ぐうち、三郎の体がゆっくりと弛緩していくのが、まさに手に取るようにわかった。
「僕はね、三郎。この部屋でおまえでない誰かに起こされたら、その瞬間すぐ飛び起きるよ」
 とどめとばかり、雷蔵はしっかりと三郎の顔を見て、告げた。
「だから、おまえは鉢屋三郎で間違いない。……安心した?」
 照れた三郎が視線を逸らす。
「……はは、ばれてら」
「これくらい、分からいでか」
 ようやく三郎が笑った。その笑顔を見ると、雷蔵も安心する。
 三郎の笑顔が好きだ。自分の顔なのに、自分とは違う笑い方をする。先輩に挑みかかる時の不敵な笑みも、悪戯が成功した時の得意げな笑みも好きだが、本当に嬉しいとき、三郎は口をむずむずさせて、くしゃっと目元で笑う。その笑い方が、雷蔵はなにより好きだった。
 すっかり肩の力が抜けた三郎が、雷蔵の腕から身を起こす。改めて己の体を見下ろすので、その視線を追って雷蔵も三郎の体を見る。と、先ほど眼前に顕わにされた三郎の裸体が思い出されて、今度は雷蔵が慌てて目をそらした。
 いつの間に、夜はすっかり明けている。朝の光の中で、薄い寝間着が薄らと三郎の体の輪郭を透かしているのだ。雷蔵が適当に着せかけたせいで乱れた着付けと相まって、普段だったらどうも思わない景色が、ひどく淫らに感じられて仕方がない。
「しかし、困ったな。これでは雷蔵の変装ができない」
「……じゃあ、くのたまの変装でもしたら良いんじゃない?」
「はっ、それだ! それがいい! せっかく女体になったことだし、普段はできないことをしようじゃないか! そうと決まれば早速シナ先生にくのいち教室の制服を借りてこよう!」
 適当なことを言ったのに、名案とばかり喜色を浮かべて今にも飛び出していこうとする三郎を、慌てて呼び止める。まさか、この姿のまま外に出るつもりではあるまいが、万が一ということがある。どうも三郎は、雷蔵に認めてもらったことで安心して、もう己の今の姿が他人にどう映るかなど、変装の研究の二の次三の次だ。
「三郎、制服に着替えてから行きなよ」
「おう!」
「うわ!? だからって僕の前で今すぐ脱ぐな!」
 そう来るとは思っていなかった雷蔵は、三郎が躊躇なく寝間着を床に落としたのを見て目を塞ぐ。
 塞いだ隙から僅かに覗いた透き通った肌色は、朝日よりもなお眩しく、雷蔵の目を刺すのだった。

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