「ゴメン! このまま直でスタジオ籠もるからあとお願い!」
そう言って駆けだした英子が、ふらりと蹈鞴を踏み、そのまま床に倒れ込むまでは一瞬だった。だれも咄嗟に手を差しのばすことさえできなかった。ライブが終わり、人が捌けたあとのホールは音がよく響く。大きな音を立てて倒れた英子を、その場にいた人々が振り返り、刹那の後、あちこちから悲鳴が上がる。
「英子さん!?」
「英子!」
「どうした、なにが——」
「倒れた!」
「なんで——」
「だれか、救急車!!」
うろたえる者、急いで駆け寄る者、スマートフォンを取り出す者、右往左往するだけの者。俄に、ホールは騒然とした気配に包まれる。
そんななか、孔明だけが一人、目を見開いてただ立ち尽くしていることに、誰が気付いただろうか。普段ならば誰よりも冷静に、的確な指示を出しそうな彼が、呆然と、凍り付いたようにその場に立ち尽くしている異様さに、一体誰が気付いただろうか。
「……英子、さん?」
ふらふらと、英子の元へと進める歩みはまるで幽鬼のようで、実際その白皙は血の気を失って青いほどである。そこでようやく、皆の視線が孔明へと集まった。幾人かが身を引いてその場を開けたのは、彼ならば適切な処置をしてくれるだろうと期待したからだ。仰向けに寝かされた英子の横で、何も物言わず、すとんと膝を落とした孔明は。おもむろに意識のない彼女の頬に手を触れる。
「英子さん……」
「おい? 孔明?」
オーナー小林が、まず最初にその異変に気がついた。診察をしている風でも、脈を確かめているわけでもない、ただ触れるだけの仕草。おかしく思って振り仰げば、孔明は物事の理非もわからぬ子どものような顔をしている。
「英子さん、起きてください。英子さん」
ぺちぺち、と二度三度、軽く頬を叩いたかと思えば、次には両手で肩を掴んだ。
「どうしたんです、英子さん。英子さん?」
容赦なく英子の肩がくがくと揺さぶる孔明を、小林が慌てて止めに入る。
「やめろ! 頭を打ってるかもしれない。不用意に動かすな」
たった今気がついたとばかり、孔明が小林を認識する。常に遠い未来まで見透かすはずの琥珀色の瞳が、霧の向こうを見つめるように茫洋と小林を捉えた。
「ですが、英子さんが」
「ああ、だから、」
「英子さんが……っ」
ひっ、と喉の奥で息を吸い損ねた音がした。これはよくない、と瞬間的に判断する。小林は英子から孔明へと体ごと向き直り、彼の両手をとって力を込める。
「落ち着け、孔明!」
触れた手は氷のように冷たく、微かに震えていた。そこに熱を分け与えるように、強く強く握りしめる。小林の手の中で、孔明の手がぎくりと強ばるのを、そうさせまいとぎゅうと握った。
「大丈夫だ。英子は、お前の主は、大丈夫だよ」
「……」
一呼吸、二呼吸。誰もがなにも言い出せずにいるなか、遠くからサイレンの音が聞こえてくる。まるでその音に呼び覚まされるかのように、徐々に孔明の瞳が焦点を結んでいった。
ホールの扉を押しのけて救急隊が駆け込んでくるころには、孔明はすっかりいつもの冷静さを取り戻していた。
先ほどまでが嘘みたいに普段の卒のない所作でもって、孔明が彼らのためにすっと道を開ける。ストレッチャーに乗せられて英子が運ばれていくのに付き従い、倒れる前後の状況、最近の彼女の様子、血液型や内服薬の有無まで、すらすらと水の流れるごとく証言する。
隊員たちが英子の状態や搬送先の病院を無線で確認し終わり、振り返って同乗者を募るのに、当然孔明が付き添うものかと思ったが、彼は「準備がありますので」と辞退する。代わりに詩乃と小林が乗り込んだ。
サイレンの音が再び鳴り響き、ゆっくりと救急車が動き出す。車が向きを変える瞬間、窓の先に白い衣が見えた。厳しい表情をしている。あの途方に暮れた子どものような顔はどこにもない。
一体あれはなんだったのか。揺れる車内で考える。
英子の青白い顔をみつめながら、小林はふと思うのだ。
——本物の諸葛孔明も、劉備が病に倒れたときには、あのように取り乱したりしたのかもしれないな、と。


コメントを残す