祝宴は深夜を回る前にお開きとなった。BBラウンジとしては異例の営業時間であるが、朝から丸一日、今日というXデーのために動き回った主役たちへの配慮と、「店のオゴリ」などと大盤振る舞いをしてしまったため、客たちに店の酒を飲み尽くされないようにとの打算も少し。
後にその日の出来事が《109の戦い》として語り継がれることになるなど思いもよらぬ当事者たちは、大勢の客が捌けてがらんとしたBBラウンジのホールで改めてお互いをねぎらい合った。
「今日はほんと、ありがと。孔明も、KABEくんも。10万イイネが達成できたのは二人のおかげだよ」
「いや、俺はなにも」
「KABEさんのライムと、英子さんご自身の歌の力によるものかと」
英子のねぎらいを恐縮して受けるKABEに対して、孔明は両手を目の高さで組むと涼やかに一礼した。
「うおーいお前ら。今日は片付けはこっちでやっておくから、さっさと帰れよ。明日からまた頼むぜ」
スタッフルームから小林が顔を覗かせ、しっしと追い払う仕草をみせるのに、英子ははぁい、といい子の返事を返し、「ちょっとお手洗い」と廊下の奥へ消える。それを見送るともなし、先に出入口へ向かおうとするKABEを、孔明が後ろから呼び止めた。
「KABEさん。これを」
「ん? なに?」
鶴氅衣の袂に手を入れ、取り出した物を差し出す。KABEは戸惑いながらも素直に受け取ったあと、手の中のそれをまじまじと見た。
「タクシークーポン?」
十枚綴りで大きく額面の書かれた、よくある形のクーポン券。だが、KABEはタクシーにもクーポンがあることを初めて知った。そもそも、タクシーなどあまり乗る機会がない。
「私は英子さんを送っていきますので、KABEさんはそれを使ってお帰りください。それから、しばらくは遅くなるときはお使いになってください」
「いや……いいって。この時間ならまだ電車動いてるし」
スマホを取り出して確認すると、まだ零時を回ったばかり。急げば十分終電に間に合う。わざわざタクシーを使う必要はないだろう。
返そうとする手を遮って、孔明は笑顔で再度繰り返した。
「お使いください」
「あ……はい」
有無を言わさぬその笑みに押し負けて、KABEはすごすごとクーポン券をポケットにしまう。タクシーアプリが便利ですよ、というアドバイスに従いアプリを入れて、言われるがまま、その場でタクシーを呼ぶところまでしっかり見届けられた。
「じゃあ……入口で待っとく」
「はい。お気をつけてお帰りください」
頭にはてなを浮かべながらも、まあいいかと出入口へ消えてゆくKABEの背中。羽扇をひらめかせてそれを見送る孔明に、どこから見ていたのか、小林が声をかけた。
「わかってなさそうだぜ、あの様子じゃ」
「こういうことは、回りが気にしておけばよいことですから」
「プライド刺激しそうだもんなあ」
本人の目の前で言うのは憚られるが、事実として、KABEは小柄で線が細い。ディスやビーフ(ディスり合い)が日常茶飯事のラッパーは赤兎馬カンフーのように見た目から強面であったり、近寄りがたい雰囲気を演出する者が多いが、KABEは陰キャ、パンピーと揶揄される程度にはかけ離れた見た目をしている。
今まで、そのことが大きなトラブルに発展しなかったのは、彼がヒップホップ界隈では名の知られたラッパーであっても、一般に認知度がそれほど高くなかったせいであろう。
しかし、今日、彼はAZALEAというメジャーバンドに対して、正面から喧嘩を売った。ディスというヒップホップ文化が、文化としてどこまで通用するかというのは、受け手によるところが大きい。
——全員アンチになっちゃったけどね。
その感情の矛先が、KABE太人個人に向かわないとは言い切れない。ラッパーとしての自信を取り戻した今のKABEなら、顔の見えない烏合の衆によるネットの誹謗中傷などは、柳のように受け流せるだろう。しかし、過激なファンというのどこにでもいる。彼の精神ではなく、肉体を傷つける暴挙に出ようとする輩が、いないとは限らないのだ。そんなとき、彼の見た目は抑止力にはなる、とは到底言えない。むしろ——
と、小林はそこまで考えて、頭を振った。あまりに胸糞悪い想像である。
孔明は、小林の胸の内を読んだ上で、まるで宥めるように、ふわりと羽扇を扇いだ。
「そうならないようにするのが、大人の役割です」
軍師でもなく、マネージャーでもなく、大人、と孔明は言った。
酒も飲める、煙草も吸える、夜中に歩いても咎められない。彼らはそういう年齢かもしれない。だが、小林から見たらまだまだ若造だ。英子も、KABEも。ステージではあんなに頼もしく見えたとしても。
「そうだな」
小林が頷いたところで、「ごめん、お待たせ」と英子が戻ってきた。
「あれ、KABEくんは?」
「先に帰られましたよ」
「ええー、駅まで一緒にいこうと思ってたのに」
「私がお付き合いしますので、ご容赦ください」
「孔明が? ……うーん、じゃあ、付き合ってもらうか!」
「はい」
「気ぃつけて帰れよ!」
「うぃー」
すっかり人気がなくなったホールに取り残されて、小林は肩を竦める。散らかり放題のフロア。空のグラスが山になったバーカウンター。酒の在庫を確認し、今日の大盤振る舞いにかかった費用も見積もらねばならない。
「これも、大人の役割、かね」
それも悪くないか。呟いて、手始めにモップをかけるべく、小林は再びバックヤードへ引っ込んだ。


コメントを残す