サマーソニア開幕前夜。
前夜祭ステージの後のEIKO陣営で、KABEと一緒に焚き火を囲んで話し込んでいた孔明が、厳しい表情から一転、ふと顔を緩ませた。
「ところで、最近胃の調子はいかがですか?」
「はい?」
さきほどまでスパイがどうとか、百叩きがどうとか、怖い話をしていたところだった。急に体調を気遣う発言をされてKABEは困惑する。その白皙を焚き火の色に照らしながら、うっすらと微笑む孔明の真意がわからない。
「別に……悪くないっすけど」
わからないが、特に誤魔化す必要もないので素直に答える。
実際、慢性的に悩まされていた胃痛はラッパーとしての活動を再開してからすっかり良くなっている。精神的なものが大きかったのだろう。腹を括ったせいか、英子や孔明といった愉快な仲間たちのせいかはわからないが。実は、孔明とのフリースタイルバトルの後、彼直々に《胃に効く煎じ薬》とやらを手渡された。薬草っぽい苦みの強い、一言で言えば非常に飲みづらい代物だったが、不思議とどこかで飲んだ気がする味でもある。甘みのないトニックウォーターのような。正体不明の薬ではあったが、胃痛の改善には多少役立っていたのかもしれない。
そんなことを思い出しながらのKABEの返事に満足げに頷いた孔明は、おもむろに袖に手を入れるとちょうど手の中に入るくらいの大きさの小瓶を取り出した。
「それならよいですが、念のためこちら、お持ちください」
「えっと……なに?」
澄ました顔で、孔明は言った。
「胃に効く煎じ薬です」
◆
——そういうことね。
と、ケイジが取っているスイートルームの洗面所で、KABEは洗い終えた顔を上げる。鏡には、唇を真っ赤に腫らした自分が、なんとも言えない表情で映っている。不満ともつかない、あきれ顔だ。
ケイジもダイナーも部屋を出て行って、今はKABE一人だ。タオルで顔を拭きながら、昨晩ポケットに突っ込んでそのままだった、例の小瓶を取り出してかざす。中身の液体がちゃぽんと揺れた。
「ったく、あの人……」
昨日孔明が語った「苦肉の計」とやらは、敵に仲間割れを信じさせるために裏切り役を痛めつけて放り出すというやり方だったはずだ。孔明に暴力を振るわれるとは思っていなかったが、「それなりの痛みを伴う」と言われて何をされるのかと内心怯えていた。
しかし、蓋を開けてみればその「痛み」とやらは、デスソース入りたこ焼きロシアンルーレット。しかも、本来であれば痛みを分かち合う必要のない孔明まで、しっかりデスソースに痛めつけられている。自分と同じくらい顔を赤くして、唇を腫らした孔明の顔を思い出す。正直、あれは見物だった。
「もしかして、マゾ?」
鏡の中の自分がくっと笑う。そうではないことをわかっていて、それでもなお笑みがこぼれる。
事前に胃薬を準備してくるくらいだ、サマーソニアが始まる前からもう、孔明はこの展開を読んでいたことになる。前園ケイジが英子を妨害すること。KABEを引き抜こうとすること。それに対する反撃として、逆にKABEをスパイとして送り込むということ。
一体どれだけ先まで読んでいるのだろう。あの人の頭の中がどうなっているのか、恐れすら湧くレベルだ。予知能力がある、あるいは未来を見透かす秘密道具を持っている、といわれた方がまだ納得できる。
詐欺師、悪党と呼ばれていることを知っている。敵に回したら怖い人だ、ということもわかる。目的のために手段を選ばない。平気で人をスパイに仕立て上げる、その根性だってどうかと思う。
でも、絆されてしまうのだ。
英子の歌の力を信じ、本気で世界を目指す情熱。音楽とそれを生み出す者に対するリスペクト。意地の悪い計略を用いながら、KABEだけに痛みを強いずに分かち合う誠実さ。策を誰にも秘密にしておくくせに、事前に胃薬を渡すような不器用さ。
そこまですべて計算だというなら、もうお手上げだ。喜んであの人の手のひらの上で踊ってやろう。だとしても、悪い気はしない。
ぱき、と小瓶の蓋を開け、KABEは勢いよくその中身を呷った。形容しがたい苦みが舌を刺す。喉を通って、胃に落ちて、そこからふわりと温まる。
「あ〜〜〜、まずっ」
今頃、彼も同じものを飲んでいるだろう。澄ました顔で、なんともない振りをして。なのに唇だけを赤くして。
想像とともにこみ上げる笑いを、口を拭う手の甲にこっそりと零した。


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