貪欲

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「姓は諸葛、名は亮、字を孔明と申します」
 古代中国の世界からそのまま連れてきたような男だった。冗談みたいなコスプレ衣装、うさんくさい笑み、時代掛かった口上。どれをとっても不審者と切って捨てるには十分で、しかしキドはそうしなかった。
 妙に質の良いたっぷりとした布地の下、長い手足が優美に礼の形を取る。妙に堂に入った、作り物ではない所作。さらりと流れた黒髪はどんな手入れをしているのか、女が臍を噛む艶。髭でやや中和されてはいるが、なお隠しきれない秀でた容貌。白い肌、通った鼻筋、薄い唇。そしてなにより気に入ったのが、切れ長の瞳にはめ込まれた宝石のように輝く瞳。
(欲しい)
 一目で気に入った。子どもがおもちゃを欲しがるように、キドは自身の欲求に素直である。やりたいことは全部してきたし、欲しいものは全て手に入れてきた。これからも、今までも、そうするつもりだ。
「孔明ね。三国時代の軍師が、僕に何の用?」
 そんなことをおくびにも出さず、キドは目の前に現れた男を、気のない素振りであしらった。
 ホテル最上階、東京の夜景を見下ろすバーの一角。客たちは窓の近いボックス席に集まりがちで、カウンターにはキド一人、おかしな仮装の男が現れても注目は集まらない。
「アレンジをして欲しい歌手がいます」
「へえ? まあ、座りなよ」
 隣を指し示せば、軽く目礼してそばへと寄ってきた。背が高いからかスツールに腰掛ける所作にもどこか余裕がある。
 バーテンダーがオーダーを取りに来る。目で促すと、彼はやや思案する仕草の後、ジントニックを頼んだ。
「じゃあ僕は、ラムコーク」
 ちょうど二杯目が欲しかった頃合いだ。一杯目のグラスを干すついでにカウンターに肘をついて、孔明と名乗る男を下から見上げた。彼はまるで背中に定規でも入っているみたいにぴんと背筋を伸ばし、キドの態度を気にかけない。それをいいことに、キドは存分に彼の容姿を堪能した。薄暗い照明の下、長いまつげが頬に影を落としている。うっすらと開かれた唇の隙間から、並びの良い前歯がちらりと覗く。伏せられていた瞳がつい、とキドを流し見て、だが何も言わずに微笑する。
 出来過ぎだった。《作り物》だとしたら、あまりに気合いが入っている。そこまでする合理的な理由が思いつかない。「本当に本当の諸葛孔明だ」と言われた方が、まだ納得するくらいだ。
 やがてグラスが運ばれてきて、キドはだらしなく肘をついたまま、孔明に向かってグラスを掲げた。孔明もまた、片手でグラスを持ち、もう片手でグラスの底を支える慇懃な所作で答える。
 甘やかな味わいを束の間舌の上で楽しんで、ようやくキドは本題に入った。
「あれこれ聞いても仕方がない。単刀直入に行くよ。どうして僕に頼もうと?」
「理由は様々ありますが、一言で申し上げるなら……」
「うん」
「あなたが、変人だからです」
「ふっ」
 キドは素直に吹き出した。こんなにおかしなことはない。どう考えたって、変人は相手の方だった。諸葛孔明を名乗る、やたらにクオリティが高いコスプレ男。それが、アレンジをして欲しい? 支離滅裂にもほどがある。
 だが、その支離滅裂に耳を貸そうとしているのだから、やはり孔明の言うとおり、キドは変人なのかもしれない。率直に言って、興味が湧いた。彼自身に対してはもちろん、彼がそこまでして支える歌手とやらに。
「いいね。そういうの嫌いじゃない。でも、それだけで『やってあげる』とは言えないな。ていうか、僕、高いよ?」
「ああ、それは困りました。実はあまり持ち合わせがありませんので」
 よよ、と急に演技じみた仕草で袖で顔を覆った孔明は、しかしその袖口からきらりと瞳を光らせる。ああ、まただ。また、あの瞳。長い年月樽の中で熟成させた、ブランデーのような琥珀色。キドを酔わせて止まない色。
(欲しいな)
「それでは、こういうのはいかがでしょう。今回のオファー、あなたが納得できる曲を作れたならば、無料。そうでなければ、あなたの願いを一つ叶えます」
「なんでも?」
「ええ。なんでも」
 まるでこちらの本心を見透かされているよう。——否、確実に見透かしている。餌をちらつかせて、相手が食いついてくるのを待っている。何を餌にしているのか、彼はわかっているのだろうか。いったいどこからが彼の手の内だ? はじめから? この欲望さえ、計算され、利用するというのなら。
(乗ってやろうじゃない)
 ラムコークで唇を湿らせ、宣言する。
「じゃあさ、僕が勝ったら、君が僕の軍師になるかい」
「それがあなたの願いならば」
 キドの言葉に、孔明は動揺一つ見せなかった。目を伏せ、静かな微笑みさえ湛え、策が成ったのを確信している。
 全部が全部、彼の手のひらの上だった。わかっていて乗ったのは自分だが、それでも少しばかり気に食わない。
 欲しいのは、全てだ。緻密な脚本の上で踊る、お綺麗な人形を手に入れたって仕方がない。欲望は果てない。ラムコークのカクテル言葉は「貪欲」。その貪欲さが、キドを世界の舞台まで導いた。
 欲求にあらがわず、キドは孔明に手を伸ばした。直前で、はっと孔明が目を開くが間に合わない。整えられた美髯ごと顎を掴み、そこから喉へと手を滑らせる。はっきりと浮き出た喉仏。滑らかな皮膚の感触を辿り、襟の下まで手を入れる。最後に鎖骨に指を這わせてから、するりと抜き取った。
「こういうことだよ、僕の軍師って。君の、君という存在の、まるごとを貰う」
 襟元を押さえた孔明は、ぎらぎらと目を輝かせてキドを見つめている。先ほどまでの、波のない湖面に映る月のような静かな輝きとは違う。それ自体が光を放つ、強烈な輝き。強い意志、そのもの。
 ぞくりとした。
(ああ、やっぱり)
 欲しい。——でも。
(今はまだ、そのときじゃない)
 スツールから立ち上がり、キドは孔明に名刺を放った。
「それでもいいなら、ここに詳しい話、連絡しておいでよ。予定は空けておいてあげる」
 向けた背中にじりじりと焼けるような視線を感じる。そのことに言いようのない興奮を覚えながら、キドはバーを後にした。
 エレベーターから見る今宵の月は、とりわけ美しく感じられる。
 竜の逆鱗が喉にあることを、微かな浮遊感と共に、キドはふと思い出していた。

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