サイン

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 涙なんて、所詮は人間の生理現象の一つにすぎない。
 なぜ涙が流れるのか。この体が、人間を模してつくられているからに決まっている。人間の仕組みが完全に解明されていない以上、この涙に理由などあるわけがない。
 とまれ。私が涙を流す必要はない。意味はない。理由はない。どう念じてもあとからあとからこぼれ続ける涙のおかげで、顔はみっともなく汚れ、それだけでなく鼻水まで垂れそうになって、ひどく惨めだ。
 とまれ。言うことをきけ。涙よ、とまれ。

「知ってるかティエリア。涙ってのは、自分が今悲しんでいるってことを自分自身に知らせるために流れるんだってさ」
 その時ティエリアは、大層苛立っていた。人革連のガンダム鹵獲作戦を危ういところで切り抜けた、あの日のことだ。甘い戦況予測をしてくれたスメラギ・李・ノリエガにも、迂闊なことをしてくれたアレルヤ・ハプティズムにも苛立っていたが、それよりなによりヴェーダの意思に背いてしまった自分自身が許せなかった。
 涙の跡を消せぬままコックピットから降りたティエリアの様子に、あのお節介な男は目聡くも気付いたらしかった。しかも、声をかけるタイミングを見計らって、わざわざ周囲に誰もいなくなるのを待っていたらしいと来た。全く持って余計なお世話であり、かえって気に障る行為だ。言いたいことがあるならばその場で言えばいいのだ。
 そうして口にしたのが、よりにもよって前述の台詞である。
 それを聞いたティエリアは、今まで胃のあたりで燻っていた苛立ちを一瞬忘れてしまうほどに呆れた。ぽかんと、とんでもなく無防備な顔をした自覚がある。もっとも、それは自覚だけで、周りから見れば一ミリたりとも隙など窺えなかったが。
 当然、いくら聡いロックオンといえどもティエリアの心境の変化には気づかなかった。軽い口調で講釈を続ける。
「あとは、コミュニケーションのためだ。お前が悲しんでいることを、周りに伝えるために涙は流れる。そのおかげで俺にも、お前が今何を考えているのかが少なからず理解できるようになるってわけだ」
「……それで、なんだっていうんです」
 いい加減にしてほしかった。
 彼の言いたいことがわからないわけではない。要は、慰めたいのだ。彼がよく刹那・F・セイエイを構っているように、自分のことも同じに扱おうとしているのだ。彼と自分が同列だなんて、どうかしているとしか思えない。じわじわと、苛立ちが再燃する。

 はは、とごく軽い笑い声を立てて、ロックオンはまだ続けるつもりらしい。彼はまるで、わがままばかりで頑是ない子供を宥めるように、ティエリアに笑いかけた。
「だからいいか。涙が出るときくらい素直に泣けよ。お前は今悲しいんだ。認めてやれよ。お前の頭が何を考えていても、おまえの体は休息を求めている。泣いてやればそれも少しは収まるからよ」
 無視してさっさと自室にとって返すこともできた。実際、ティエリアは踵を返しかけ——ふと思いついて動作を止めた。
 気に食わないことにそんなティエリアの態度すらある程度予測していたらしい彼は、逆にそのまま立ち去らなかったことに驚いたらしい。振り返ったティエリアに、おや、といわんばかりの顔をした。
「あなたは」
「ん?」
「あなたは、泣かないじゃないですか。私はあなたが泣いているところを見たことがない」
「んー、そうかー?」
「……」
「うん、まあそうかもな。俺は——」
 人はものを考えるときに無意識に上を向く。彼もご多分にもれずそのしぐさをして、しかし言いかけた言葉は彼の中で何か別の言葉と取って代えられたようだ。不自然に切れたあと、何でもないようにつながった。
「俺は、気付いてほしい時はちゃんとそう言うからよ。お前らは、誰かに気付いてほしいってことにも気づかないから、サインが必要なんだ。それがないと俺は気づいてやれない」
 納得できたわけではないが、これ以上の議論は無駄だった。今度こそ、ティエリアは無言でその場を立ち去る。
 背後で苦笑する気配がしたのが、気に食わなかった。

 涙はサインだと、彼は言った。
 それならばこの涙は、誰に気付いてほしいのだろう。
「ああ、あああ……ッ」
 気付いてくれる人は、もういないというのに。
 悲しみを自覚して、そうして、いったいどうすればいいのか。
 彼は教えてくれないまま。

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