妙に肩が寒々しくて目が覚めた。
一番目覚まし鳥もまだ鳴いていないが、分厚いカーテンの隙間から薄らと光が差しているから、太陽が昇るのもそう先のことではない。
むくり、と片腕を使って体を起こす。
シーツがずり落ち、服を纏っていない上半身が冷えた空気に曝された。
肌寒さにシーツを引き寄せようとして、はたと気付く。
いない。
隣で共に眠りについたはずの人がいない。
どこか幸せぼけしていた意識が、急速に覚醒した。
「猊下?」
横には大きな枕があるだけで、そこに貴色を散らばせて眠りの世界へ旅立っているはずの人物の影は欠片もない。
その人がいたはずの場所に手を這わせてみても、ただ冷たく乾いた感触が返るだけだ。温度がない。
「猊下?」
もう一度彼のひとの敬称を呼び、答えるもののない室内を見回す。
「……?」
ベッドの上、ヨザックの足元近くのシーツに、不自然なふくらみを見つけた。
今まで気がつかなかったのは、探し求める人の大きさとは明らかにかけ離れていたため。両手で抱えられるほどの塊に、彼が潜んでいるとも思えない。
その塊が、ヨザックの見ている前でもぞり、と動いた気がした。
部屋の外に探しに行こうか否か迷っていた頭が、そこから離れなくなる。
ヨザックはベッドから起き上がり、枕とは反対側に回り込んで、えいやっとシーツをはぎ取った。
外からけたたましい鳥の鳴き声が響いた。
カーテンの隙間から入り込む光の量が増す。
生まれたての太陽が照らし出したのは、ベッドの上に丸くなる黒い色の子猫だった。
「………………」
子猫が寝床にしているのは誰かの衣服だった。
――誰か、などとぼかすのもやめよう。それは村田の寝巻だった。
ヨザックはちょっと考えるのをやめ、散らかしっぱなしにしていた服をきちんと着て、カーテンも開け、こもった空気を入れ替えるために窓まで開けて、寝る前に二人で飲んだワインのグラスも片付けた。
そこまで忙しなく立ち働いて、ふとベッドの上を振りかえる。
明るくなった室内に、ますますはっきりと綿の寝巻と子猫が浮きたっただけだった。
「えーと……」
光がまぶしかったのか、丸くなっていた子猫が一度起き上がり、ぐぐっと伸びをした後向きを変えてまた丸くなる。
その隙に下敷きにされていた寝巻を回収する。
――たしかに村田のものだった。
寝る前に着せかけたのと同じ、それどころかヨザックが嵌めてやったボタンまでかかったまま――かかったまま?
まるで人がそのまま抜け出したみたいに、綺麗な形のままの寝巻。
その寝巻に埋もれるようにしていた猫。
毛並みはこの国の貴色と歌われる黒。
いつの間にか、子猫が目を開けてヨザックのほうを不審そうに見つめていた。
瞳まで黒かった。
「……猊下?」
返ることのなかった返事に、今日初めて答えが返った。
「猊下なんですか、本当に!」
「めえー」
「なんでそんなお姿に!? 昨日変なもんでも食べましたか!? それともアニシナちゃんが何か――」
そこで思い出したのだが、そういえば領地に帰っていたフォンカーベルニコフ卿アニシナは、昨日のうちに血盟城に戻ってきていた。
……タイミングがよすぎる。
「アニシナちゃんですね!? また猊下、興味本位であの人の作った魔道装置か新薬かを試されたんでしょ!?」
ぎゃーぎゃーと騒ぎたてるヨザックを一瞥した子猫は、煩いとばかりに大欠伸をかまし、すたすたとベッドを横切る。
とん、と絨毯敷きの床に降り立って、背筋を反らせて伸びた後、とことこと歩き出す。
「どこに行くんですかー、ちょっと猊下、そんなのん気にしてないで下さいよー」
部屋の外に通じる扉に向かった子猫は、自分の目の前に聳える障害物をしげしげと眺めた後、立ち向かいようがないと判断してかりかりと引っ掻き始める。
「わーっ、猊下、だめです、そんなとこで爪といじゃー! 外行きたいんならちゃんとお連れしますからー! ……って、こんな状況どうやって報告すればいいんだ……」
廊下の外には、早くも人が立ち働く気配がする。血盟城のメイドさんは働き者が多い。
爪とぎをやめさせるためにひょいと持ち上げると、子猫は従順にヨザックに抱かれた。
足をだらんとさせてされるがままになっている様は非常にお可愛らしい、のだが。
鼻先同士をくっつけるようにしてその黒い瞳を覗き込む。
「とりあえずしばらくは部屋でおとなしくしててくださいよ? 陛下がたには病欠ってことにして……ああ、こんなこと王佐にでも知られたら俺どうなっちゃうんだろう……親分は喜ぶかもしれないけど……。……ってね、あんた、なに喉なんて鳴らしてるんですか」
そっとベッドの上に戻すと、子猫は不満そうにめえと鳴く。
仕方がないので隣に座って、宥めるように耳のあたりを掻きながら、こちらは必死にこれからのことを考えて暗くなっているというのに、なんでそんなにのん気なのか。
それでも、手に触れる毛並みは滑らかでその感触は手放しがたく、撫でる手は耳から喉から背中から、なかなか止めることができない。
可愛いもの好きの上司のことが、今なら理解できる気がした。
ヨザックが少しでも手を止めると、子猫はもっと、と首筋を手に押し付けてくる。
そればかりか、最後にはヨザックの膝に飛び乗ってきた。
「猊下ぁ、なんで今日はそんなに積極的なんですかー。どうせなら人間の姿でやってくださいよー」
ああ、これでは仮病工作も元に戻る方法を探すのもできないじゃないか。
そればかりか、なかなか部屋から現れない大賢者を不審に思って、誰かが探しに来てしまうかもしれない。
まさにヨザックが懸念したとおりに、タイミングよく扉がノックされた。
「ほら、言わんこっちゃない! あーもう、とりあえずあなたはそこに隠れててくださいね。いいですか、絶対出てきちゃだめですからね!?」
シーツをかけて子猫を隠してから扉へと向かう。
このときのヨザックは、特殊な状況に追い込まれて混乱していたに違いない。
大賢者の寝室から、どこから入り込んだとも知れない子猫が出てくるよりも、護衛のはずのお庭番が顔を出す方がよっぽど問題になることに気がつかないだなんて。
「……っぷ、く、ははははははっ!」
扉を開ける寸前に、自分と猫以外には誰もいないはずの室内に聞きなれた笑い声が響いて、ヨザックは振り返った。
*
「あーもう、本当に信じるなんてねえ、君って最高だよ!」
「……」
「想像以上だ。僕は今まで君のことを過小評価してたね」
「……」
「何拗ねてんのさ。褒めてるのに」
「……ありがとうございます」
「君が不用心にも扉を開けようとしてるところを助けてあげたのに。あのまま開けてたら君、良くて謹慎、悪くて国外追放だよ、不敬罪で」
「……ありがとうございます」
「でも風呂場の扉を探さないなんて、それってどうなのお庭番」
「……ありがとうございま、す――ってねえ、あんた! そもそもは全部あんたの悪ふざけでしょうが! なんでこんなことしたんですか!」
「だから」
彼はくるりと瞳をいたずらっぽく輝かせて言った。
「悪ふざけ」
「はあああああ……」
あの後、寝室の続きに用意されている風呂場の扉から突然現れた大賢者猊下は、目を白黒させて何か言いたげなヨザックを入れ替わりに扉の向こうに隠してから、飄々とメイドを適当な言い訳で追い返した。
ベッドに腰掛けて、膝の上に乗せた黒猫をあやしながら、けらけらと笑い続ける村田に対して、じっと耐えていたお庭番は詰め寄った。解せないことがいくつもある。
「たしかに風呂場に気がつかなかったのは俺の失態ですけどね、俺はなんであんたが朝方ベッドを抜け出したのに気がつかなかったのか、そっちの方が失態だ……」
ちゃんと気がついていればこんな茶番に巻き込まれることはなかったというのに。
自慢じゃないが、どんなに安心した状況で眠りについていたとしても、隣にあったはずの気配が動いたりすればすぐに悟れるはずなのに。
「俺はそんなに平和ボケしてますかね……」
「いや、それは君のせいじゃないよ。えーと……あったあった」
「……なんです、その薬」
村田がポケットから取り出したのは、毒々しいまでの赤色をした粉薬だ。どこかのだれかを彷彿とさせる――
「まさかそれ……」
「そ、フォンカーベルニコフ卿の新薬。その名も『寝る寝る寝る子』~」
「なんか聞いたことが……」
「これを君のワインにちょっぴり入れといた。ちなみに新薬だから、気がつかないのも、君に耐性がないのも当たり前ー」
「でも俺、あれ飲んだ後猊下と一戦交えたじゃないですか」
「遅効性ー」
「……そーですか」
自分の下であんなに善がっていた彼が、頭の中でこんな計画を練っていたなんて、知りたくなかった事実だ。
「ちなみにこの薬、実地採用されるはずだから。そのうちフォンヴォルテール卿から君たちにも配られるだろうね。よかったじゃない、その効果を身をもって試せてさ」
「そーですね……」
もうなにも言い返す気力がなくなって、ヨザックはひたすら項垂れた。
「この子を探すのも苦労したんだよ? 毛色はともかく、目まで黒い猫なんてなかなかいないんだから」
この子、といいながら、手の中の猫を撫でくり回す。
普段ちょっと見られないような、優しい笑みだった。
貴族連中や血盟城務めのメイドや兵士には誤解されやすいが、彼は基本的に小さいもの、弱いものに対しては優しくて素直だ。
変装して城下に下りているときなど、子どもたちに大人気でいつでも引っ張りだこだ。
その手の中で、ごろごろと喉を鳴らす猫を見て少しむっとする。
子猫の姿の猊下は自分にも愛想があって、本当に可愛らしかった。
結局あれは勘違いだったわけだが、今彼が膝の上の小さな生き物に対して向けている愛情が、自分に向かないことが気に食わない。
「怒んないでよ」
「怒ってませんよ」
「怒ってるじゃない」
「怒ってませんって。だいたい、俺みたいな一介の兵士が猊下を怒れるわけありませんでしょ。例え薬まで盛られて悪ふざけに付きあわされたって、怒りません」
「やっぱり怒ってる」
そう言って、膝で丸くなっていた猫をベッドの上にぽいと放り出した。
「あ、そんな乱暴な」
「なに、君は僕より猫の方がいいわけ?」
「……それは俺のセリフですよ」
ぼそりと呟いた声は、自分にも聞こえないくらいの小声だったのに、まるで何もかもわかっているような顔で彼は笑った。
「今日は一日一緒にいてあげるよ」
「は?」
「聞いてなかった? さっきメイドさんに説明したんだけどな」
そのつもりで着替えてなかったんだけど。
その言葉の通り、悪戯のために寝巻を脱いだはずの彼は、何故か別の夜着を身に纏っていて。
「今日僕は、頭痛が直らなくて執務はお休み。看病にはグリエをよこして、って言ったから、君は早く自分の部屋に戻らなきゃね?」
その後、ヨザックが取るものも取り敢えず、最短コースで兵舎の自室まで戻ったことは、言うまでもない。


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