浜辺にて

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「うーみーはぁひろいーなーおおきーいーなぁー」
 久しぶりに王都ではなくヴォルテール領に流された僕らは、海に面したこの土地でつかの間の休暇を楽しもうと海岸へやってきていた。
 休暇だ骨休めだと声高に主張したのは、僕ら、というより主に有利だ。彼とその婚約者、護衛兼名付け親はフォンヴォルテール卿のプライベートビーチでもキャッチボールなどしている。多分ビーチボールがなかったからなんだろうけど。
 僕はと言えば、彼らから少し離れ、波打ち際をゆるゆると散歩していた。
ヴォルテール城の書庫を借りようとしたのを、その城主にぽいっと放り出されたせいで。
 なんで、とフォンヴォルテール卿でなく彼のすぐ下の弟の方へ視線をやれば、返ってきた答えは、
「彼は小さくて可愛いものが大好きだから」
 どうでもいいけど、僕にはどうも彼の笑みは胡散臭く思えてしょうがない。
 それはさておき、フォンヴォルテール卿が無条件で優しくする「小さくて可愛いもの」の範疇に、どうやら僕もしっかり含まれていたらしい。普段は欠片も見せないくせに。
 そういうわけで、何もすることがない僕にできることと言ったら散歩くらい。キャッチボールのお誘いは丁重にお断りした。有利だけならともかく、あの二人に挟まれるのはごめんだ。
 時折足元を掬っては去ってゆく波が心地よい。
 靴は初めに脱ぎ捨てていたから、裸足の足裏にダイレクトに感触が伝わってくる。
 まだ泳ぐには冷たい海水の温度がなんだか新鮮で、知らずふわふわと気持ちが落ち着かなくなる。
 思わずこぼれた鼻歌を、逃がさずとらえた男の声がした。
「チキュウの歌ですか、それ」
 後ろから当然のような顔をしてついてくるオレンジ色の彼と、恋仲と呼ばれる関係になってまだ一カ月ちょっと。地球に帰っていた僕にしてみたらそれくらいで済むけれど、季節の移り変わりを見るに、こちらでは半年以上が過ぎている。
 離れていた間、なかったことにされてないか、もう忘れられていたらどうしよう、などとあれこれと悩んだのがバカみたいで、すぐ手の届く範囲にいると思うともうそれだけで安心している。水をくぐってやってきた僕にふかふかのタオルごと抱擁をくれた、その事実だけで満たされた。僕ってこんな安い男だったんだ。
 そう、と振り向きもせずに答える。近すぎず、遠すぎない距離。
 僕には彼がどんな顔をしているのか、顔を見なくても理解できた。
 急にこみあげてきた気恥ずかしさをごまかすように、歌の続きを口ずさむ。
「つーきーはーのぼるーしーひはしーずーむー」
 おお、意外にいい歌だ。
 歌に飽きれば砂浜にしゃがみこみ、木の枝で適当な絵を描き始める。
 優秀で有能なお庭番は、今日だけはそこらのあんちゃんと大差ない。僕の横に同じようにしゃがんで、指の先で僕の描く絵に横から線を付け足した。
 出来上がった不可思議な絵を前に、二人で顔を見合わせて笑う。
 唐突に思った。
 ああ、なんて平和な日。
 これほどまでに魂が安らいだ日が、記憶を受け継いで四千年の間に一度でもあっただろうか。
 僕は僕のままでいられる。
 途方もない記憶をもった僕を、誰に隠す必要もなく、また誰も否定しない。

 ざん、と大きな波がやってきて、足元に描いた絵を浚った。
 徐に立ち上がった僕を、足元でしゃがんだままのヨザックが眩しそうに振り仰ぐ。
 僕の力じゃとても彼を持ち上げることはできないけれど、手を差し出して少し引っ張れば、思惑を察したヨザックは自分から立ち上がった。
 木の棒を濡れた砂浜に差し込んで、ずるずると引っ張りながら歩く。
 あんまり波打ち際に近いところに線を引くと、すぐに波がやってきて消してしまう。僕は見極めるようにして、波が寄せる限界に線を引きながら歩いた。
 ヨザックは僕の好きにさせることに決めたようだ。まあ彼は、少々僕が奇行に走ろうともう慣れてしまっていて、ちょっとやそっとじゃ驚いたりしない。

 過去の記憶と自分の間に境界線を引く作業は、これと少し似ている。
 波が寄せる限界を見極めて慎重に線を引くけれど、気まぐれにやってくる大きな波が簡単に線をあやふやにする。
 もう一度引き直した線も、すぐに波にさらわれるけれど、何度でも引き直す。
 全部一緒に海の中に溶けてしまえば楽かもしれないけれど、引きとめる手が多すぎて僕はもうその選択肢を手放した。
 それに今は。
「さしずめ君は防波堤かな」
「なにか言いましたー? 猊下」
 振り向いた彼は僕の想像通りの顔をしている。
 なんて幸せな日。
 誰も見ていないことを承知で、僕は君と同じ色をした晴れ渡る空に感謝した。

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