きみの隣にいなくても

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「おつかれっしたー」
 図書委員会の活動を終えたきり丸は、図書室を出るとぐんと伸びをした。
 よい天気だった。まだ日は高く、時間は十分にある。こんな日は町に単発のアルバイトを探しに行くか、それとも乱太郎やしんべヱを誘って団子でも食べに行くか。とりあえず部屋に戻ってから決めようと廊下の角を曲がったところ、先ほど別れたばかりの先輩の姿をそこに見つけて、おやときり丸は足を止めた。
 壁に背を預けて、外廊下に片足を伸ばし、もう片足を抱くようにして、そこに腕をもたれて本を読んでいる。うつむきがちな目元は優しげで、口元にはうっすらと微笑みを浮かべている。
 不破雷蔵先輩、と声をかけようとして、いやいやそんなわけはない、と首を振る。不破先輩は今も図書室の中で中在家先輩と図書の整理をしているはずだ。今日は校外学習に出ている学年が多いから、本を借りに来る生徒も少ないだろうと、これから書棚の見直しをすると言っていた。本当はきり丸も図書当番だったのだけれど、人が来ないからもう帰っていいよと、その不破先輩に言われたのだ。いくら何でも、急に外で本を読んでいるのはおかしい。
 だからこの人は不破先輩ではなく、いつも不破先輩に変装している——
「鉢屋三郎先輩」
「おや、きり丸。図書当番ごくろうさま」
 本を広げる手はそのままに、顔をあげた先輩は、どこか機嫌よさそうにきり丸に声をかけた。なにかいいことでもあったのかな、と頭の片隅で考えつつ、それよりもきり丸が図書当番だったことをずばり言い当てられたのが気になった。図書室から出てきたところは、この位置からは見えなかったはずだ。
「なんでおれが図書当番だって知ってるんすか?」
 三郎はちょいちょいときり丸を手招きして、座るように指で指示をする。そしてあっさりと種明かしをしてくれた。
「こうしてると、ちょっとだけ中の声が聞こえるんだよ。さっきまできり丸の声も聞こえていた」
「へえ」
 言われるがまま、きり丸は先輩のすぐ横に先輩と同じように座ってみる。背中を壁につけると、確かに言うとおり、中の物音がかすかな振動となって伝わってきた。目を閉じて耳を澄ます。二人の足音。本をどかして机の上にのせる音。棚を移動する音。くぐもってはいるが、不破先輩らしき声も聞こえた。しかし、話の内容まではわからない。先輩ならわかるのだろうか。
 きり丸が目を開けると、鉢屋先輩はいつの間にやら再び本の文字に目を落としている。近くで見ても不破先輩にそっくりなその横顔に問いかけた。
「何言ってるかわかるんですか?」
「そこまではわからないな」
「ふうん」
 釈然としない思いを相づちに込める。
 きり丸が図書当番だと知っていた、その理由はわかった。だがまだ、先輩がここで本を読んでいる理由がわからない。話が聞こえるわけでもないのに、姿が見えるわけでもないのに、どうして先輩はここで本を読んでいるのだろう。
 図書委員会の直属の先輩である不破先輩とこの変装名人が、「五年ろ組の名物コンビ」と呼ばれているのを知っている。「不破雷蔵あるところ鉢屋三郎あり」と言って、不破先輩にくっついて図書室に押しかけるところも散々見ている。この学園の生徒なら、同じ顔が二つ並んでいることを驚くものはいない。それくらい、この二人はいつも一緒にいる印象があった。
「図書室、開いてますよ。今は不破先輩と、中在家先輩しかいませんが」
 読書の邪魔をするのは悪いかと思いつつも再び話しかけると、鉢屋先輩は気を悪くした様子もなく、きり丸にちらと視線をやった。
「知ってるよ」
 きり丸は怪訝な表情を隠さない。
「入らないんですか?」
「ここがいいんだ」
「……不破先輩に用があるんじゃないんっすか?」
「いいや。別に」
 それからまた本へと視線を戻す。その姿は相変わらず、きり丸の目に機嫌良さそうに映った。そんなに面白い本なのだろうか。ちらと覗き見た紙面にはまだ習っていない漢字がたくさん並んでいて、難しそうな本だった。
 結局、先輩がここでなにをしているのかはわからずじまいで、きり丸は空を見上げた。庇の陰になっていて、空が青いのがよく見える。
 ぽかぽかと温かな日差しが、投げ出したきり丸の足の上にも注いでいた。鉢屋先輩が図書室に入らない理由はわからないけれど、確かにこんな日には、外で読書するのもいいのかもしれない。特にここは、図書室の近くだから静かだし、今日は人もあまり通らない。
 このままここにいたら眠ってしまいそうで、それはそれで魅力的だな、なんて、穏やかな空気に身を任せようとした、ちょうどそのときだった。背中越しに、不破先輩の笑い声が聞こえたのは。
 屈託のない笑い声だった。図書室で大きな声を出すなと一年生を叱るのはいつもなら不破先輩たち上級生の役目だが、今日は人がいないからよいのだろう。図書室ではあまり聞かない大きな笑い声は、やはりくぐもっていて、なんで笑ったのかまではわからない。でも、ひとりでに笑うはずがないから、きっと何かお話されているのだ。
 不破先輩と、もう一人中にいるのは中在家先輩。ただでさえ小さくて聞き取りづらいあの人の声は、壁一枚隔てた場所ではどんなに耳を澄ましても聞こえそうにない。それでも、中在家先輩の話は面白い。物知りだから、いろんな話を知っている。ちょっとした噂話一つとっても、中在家先輩にかかれば物語になる。
 一体どんな話をしているのだろう。もう少し一緒に当番の仕事をしていればよかった。楽しそうな中の様子にきり丸は疎外感を感じた。先ほどまで同じ場所にいた先輩たちがきり丸抜きで楽しそうにしているのは、どうにもつまらなかった。
 そうしてはっと気がついた。きり丸でさえそうなのだ、不破先輩と仲のよい鉢屋先輩にとってはもっとつまらないのではないか。先輩の機嫌が傾く瞬間を見るのは、後輩としては避けたいところだ。
 怒ったり、悲しんでいないといいけれど、と横目で伺った鉢屋先輩は。
「きりちゃーん! 委員会終わったの?」
「一緒にお団子食べに行かなーい?」
 目に映るものになにか思うより先に、名前を呼ばれて顔を上げる。声の先には、手を振っている乱太郎としんべヱ。もうすっかり私服に着替えている。出かける前に、きり丸を迎えに来たようだ。それでようやくきり丸は、この後何をしようかと考えながら廊下を歩いていたことを思い出した。
「今行くから、ちょっと待ってー!」
 立ち上がって手を振り返す。そのまま駆け出そうとして、先輩がいるのを忘れていたことに気付き振り返る。ぴたっと立ち止まったきり丸を、鉢屋先輩は面白そうに眺めている。
「行っておいで」
「失礼します!」
 元気に礼をして、今度こそきり丸は駆け出した。走りながら、先ほどの先輩の顔を思い出す。
 不破先輩の笑い声を聞いても、鉢屋先輩はちっとも変わらず微笑んでいた。
 目を伏せて、耳を澄ませて、きり丸と同じものを聞いたはずなのに、その面には怒りも、悲しみも、もちろん寂しさのかけらも浮かんではいなかった。むしろ口元に浮かぶ優しげな笑みが、より深くなったようにさえ見えた。
 鉢屋先輩の本は、さっきから少しもページが進んでいなかった。やっぱり本を読みたかった訳ではないのだ。不破先輩に会いに来たのだ。それなのに、ただ黙って近くにいるなんて。それであんなに幸せそうだなんて。
 きり丸にはよくわからなかった。会いに来たなら顔が見たい。近くにいるなら話したい。そういうものじゃないんだろうか。迎えに来てくれた乱太郎としんべヱを見て、さらにその気持ちは強くなる。
「悪いな、お待たせ!」
「もう、早く着替えてきてね。ぼく、おなかぺこぺこだよ」
「しんべヱ、さっきもそう言って、お菓子つまんだでしょ」
 乱太郎としんべヱの隣に並んだきり丸は、ほっと息をつく。置いていかれなくてよかったと思うと同時、やっぱりここがいいなと思う。
 声が聞こえて、顔が見える場所。大好きな友達のすぐ隣。
 そこにいるのが、なにより幸せに違いないのだ。

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