その人は意外なほどにあっさりと出迎えてくれた。
「遅かったな」
大瀑布を背にした玉座が、絨毯に長い影を落としている。ここに立つのは久しぶりだった。久しく忘れていた景色を目にして、ジェイドは今更、帰ってきたことを実感した。
この部屋は日光が背後から差すような構造をしているため、謁見者は玉座の主の表情をつぶさに読み取ることができない。反対に、玉座からはこちらの表情からなにから、審らかに見えることだろう。よく計算されているものだ。
今も、玉座にゆったりと腰かけた主の表情は窺えない。ただ、斜に構えた瞳がジェイドを射抜いているのは分かった。口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
気取ったところの一つない、しかし確かに王者の風格を持つ唯一無二の姿。緩く組んでいた足を組みなおす所作はその身分にしては些か粗雑で、そんなところまで何一つ変わっていない。
そのことに、知らず知らずのうちに安堵する。
ジェイドはゆっくりとその場に跪き、面を伏せると、帰還の口上を口に乗せた。
「ジェイド・カーティス大佐、ただいま帰還いたしました。この度は長らくの不在、お許しください」
「許す。……さて、まずは報告してもらおう。お前も疲れているとは思うが、この後すぐに緊急会議を開く予定だ」
そう言って皇帝が玉座から立ち上がる気配がした。ジェイドは顔をあげる。
瑠璃色の髪留めが日光を反射して、きらりと目を刺した。
彼らのやり取りを、フリングスは少し離れたところで見ていた。
謁見の間には主と彼と、自分のほかに近衛兵が数人いるのみだ。急遽の謁見であったために大臣や参謀の姿はない。
数日前フリングスが自らの手で睡眠薬を飲ませた主君は、翌日には何事もなかったかのように振舞った。彼は何も言わない。だから自分も、何も言わない。相変わらず眠れてもいないようだし、食事もわずかしか喉を通っていないようだが、あれ以降ごまかすことはせず、厨房にはそれなりの食事、また医官からは睡眠薬を処方してもらっているようだ。
ケテルベルク知事から知らせが届いたのは、今朝早くのことだった。
「少将」
フリングスが今朝のことを回想したその時、玉座から声がかかった。
「はい」
「すぐに大会議室に人を集めてくれ。外務大臣と軍部の……」
必要と思われる人物の名を上げながら皇帝が歩を進める。その刹那、ぐらり、と彼の頭が大きく揺れた。揺れた、気がした。倒れる――そう見えたのだ。
「あ」
思わず一歩、彼の方へ踏み出す。届くわけもないのに、支えようと手を伸ばす。
自分では届かない。カーティス大佐の方がずっと近くにいる。彼なら支えられる。そう思って彼に目で合図を送ろうとして、――戸惑う。
彼は、なぜ慌てていない? 主が倒れようとしているのに、なにを突っ立っているのだ。なぜそんな無表情でいられるのだ。そもそも主がこれほどまでに憔悴しているのはほかならぬあなたのせいではなかったか。それが、どうして、一番近くにいて……
「? どうしたアスラン」
フリングスははっと我にかえった。
その場にいた少ない人数の視線がすべて自分に向けられている。愛すべき主の視線さえ。怪訝そうな声に問われ慌てて首を振る。
皇帝は何事もなく、しっかりと自らで体を支え立っていた。
「――失礼いたしました。すぐさま各大臣に召集をかけます」
「ああ、頼んだ」
深く一礼し、謁見の間を後にする。
疲れているのは主でなく、どうやら自分のほうだ。フリングスは内心で自嘲した。
*
その後すぐに開かれた緊急会議で、大佐の報告と先日発表されたキムラスカ・ランバルディア王国からの声明も踏まえたうえで、一応の今後の方針が打ち出された。
フリングスはあらかじめテオルの森にカーティス大佐の客人を迎えに行くよう指示を受けていたものの、予定外の事態が発生したのもあり、再び王宮に戻ったのはその日の深夜に近い時間になってからだった。
何かと情勢の落ち着かない近年でも、この数週間は特に緊張した空気が王宮内に流れている。深夜であろうと王宮が寝静まることはなく、軍部を含め明かりが皓々と灯った部屋は多い。
ここもそんな部屋の一つである。
ノックに対し扉の奥から誰何が返り、それに答えるとすぐに内側から扉が開いた。
薄いガラスごしの赤眼がフリングスを迎える。
「お手間をお掛けしましました、少将」
死霊使いと恐れられている彼にも疲労や睡魔は等しく襲うのだろうか、とフリングスは一瞬考えた。常日頃から青白い面相に、すぐにわかるような疲れの跡は見えない。
「……私の顔になにか付いていますか?」
人の顔をまじまじと眺めてしまったことについてフリングスは曖昧に笑うことでごまかし、どの士官執務室にも共通の固いソファに腰を下ろした。ジェイドは立ったまま報告を聞く。
彼の客人たちが今夜は城下に宿をとったことを含め、数点について報告してしまえば、フリングスがこの部屋でやることはすぐになくなってしまう。ジェイドも急ぎの仕事が山積みのようだ。執務机に大量の書類が乗っている。
部屋を出る際にフリングスは無事を確認するのがすっかりおろそかになってしまっていたことを思い出し、口を開いた。
「変わりないようで、安心しました」
「ああ……。ご心配をおかけしました」
今日一日で何度も口にした言葉だろうと窺える形式的な返事にフリングスは苦笑する。
「それは陛下に言ってください。……正直なところ、私も絶望的だと思ってました。信じていたのは陛下くらいなものです」
「それはケテルブルク知事からも言われました」
確かケテルブルクの知事は彼の妹だった。陛下がここ数週間の間に何度かケテルブルクと連絡を取っていたのは、それもあってのことだろう。
それではこれで、と暇を告げようとしたところだった。
「陛下も変わりないみたいで安心しました」
それを聞いて、我知らず、声が一段低くなった。
「――変わりないですって?」
感情をひとかけらも反映しない赤い双眸が、ガラス玉のようにフリングスを見つめる。そこに疑問や不審や、またそれ以外の何かが宿っている様子はない。
あなたはあなたがいない間の陛下を見ていないからそんなことが言えるんです、とほとんど喉から出そうになった。言ってしまえばよかったのに、そうしなかったのはなぜだか、自分でもよく分からなかった。
フリングスはともすれば荒げそうになる声を、矜持だとか見栄だとか、そういうくだらないものまで全て使ってかろうじて抑えることに成功した。その分、声は聞きとりがたいほどに低くなった。
「あなたは何もわかっていない」
「どういうことです?」
失礼。それだけ言い置いて、フリングスは直ちに部屋を出た。
*
翌日、ルークたちの謁見が済んでからジェイドは一人皇帝の執務室を訪れていた。
帰還して一番にここ最近の陛下の勤勉な執務態度を耳にしたときはまさかと一笑に付したものだが、どうやら本当らしい。今も脱走も居眠りもブウサギと戯れることもせず、きちんと机に向かっているではないか。
「なんの用だ?」
「痩せましたね」
ジェイドは前置きひとつせずに、しかし明日の天気を話すような調子で言った。
ピオニーもまた、軽く片眉をあげる程度で視線を書類から上げることもしなかった。
「そうか? 気付かなかったが――」
「ブウサギは少し肥えたようです」
「……お前、人が悪いぞ」
「いいと思ったことはありませんよ」
全て筒抜けのようだと理解した皇帝はようやくペンを手放した。ごしごしと眉間を揉んで気の抜けた声を出す。
「なんだ、アスランか? いや料理長か」
「昨日は薬を取りに来なかったそうですが、よく眠れましたか?」
「はあ、医官もか。お前は諜報部へやったほうがよかったのかもな」
「なにを言いますか。皆彼らから私に報告に来たまでです。少将にいたっては説教までされましたよ」
「アスランがお前に説教? そりゃ見たかった!」
執務机を回りこんで大げさに驚いて見せる幼なじみの横に経つと、彼が何か言う前にジェイドが口を開いた。
「何もわかっていない、と言われました」
「何が?」
「私が、あなたのことを、では?」
「……」
「少し、うぬぼれたほうがいいんでしょうか」
ハッ、と腹の奥から馬鹿にしたような息を漏らしてから、ピオニーはジェイドを見た。蒼い瞳が動揺に揺れている。
「俺は原因不明の災害で一万人近い死者を出した国の主だぞ? 心が痛まないわけはないだろう。それを、お前一人がどうのと悩んでいたように受け止められるのは非常に心外だ。バカにしてんのか。俺に対しても、死者に対しても冒涜だ」
「あなたにしては」
ジェイドはその無感情な双眸で主君を見下ろし、澱みなく続く言葉を遮った。
「――饒舌ですね。……何週間も食事が喉を通らず、睡眠もままならないほど繊細だと、皇帝を務めるのはさぞ大変でしょう」
「ッ、まだ言うのか!」
カッと、瑠璃色の奥に炎が宿ったように見えた。荒らげられた口調とともに振り上げられた腕を、ジェイドは片手でなんなく掴む。両者の動きはそこで止まった。
「……まるで病人のようだ」
手首はジェイドの手に悠々とおさまった。そのことに、ピオニーばかりでなくジェイドも少なからず動揺する。
「――やはり私は、何も分かってなかったようです」
ピオニーは腕を取られたまま、抵抗しなかった。わかった、と目で降参を伝えてくる。
ジェイドが腕を離すと、自分で手首を触って、最近鍛練の時間もとらなかったからな、と言い訳めいた独り言をつぶやいた。
「アスランも……あいつも少し、勘違いしてるんだ。俺はお前を信じてたわけじゃない」
ジェイドは無言で先を促す。
「今回は本当にお前が生きて戻ってきたからいいものの、一歩間違えば正気を疑われてたからな。お前の死を認められずにうだうだ言ってるのは、皇帝としちゃありえない失態だ。ほんとならお前が死んだのを――最悪の事態を前提としたうえで次の手を練っておくべきだった。信じてたなんて言えば綺麗だが、参謀総長あたりには甘い判断だと陰でこき下ろされていそうだな」
そう言って笑ってみせたのが、力ない笑みでは説得力がない。彼は執務机に肘をつき、さりげなくジェイドから視線を逸らして続けた。
「本当のところを言えば、かけらも疑わなかったわけでもないしな。お前が死んだと聞かされて、俺は……自分を思って悲しくなったよ。お前抜きで、俺は最悪何十年も、玉座(あそこ)に座り続けなきゃならんのか、ってな。笑いたきゃ笑え、こんな状況でも心配事はお前自身についてでもなく国についてでもなく、自分自身のことだ。とんだ自己中だ、俺も」
「今日のあなたは本当に饒舌ですね。……私は今ので少し、うぬぼれましたよ」
ジェイドはふと表情を和らげた。作り物でなく、口元が自然に笑みの形に歪んでいた。
彼が想像したように、ジェイドもまた想像する。自分のいなくなった世界で、あの椅子に座り続ける男の姿を。
きっと悠然と座るだろう。大瀑布を背に、本当の顔を光から隠し、王者の風格だけをよりどころにして、誰からも慕われる姿で座ることだろう。
あの椅子は、そういう風に作られているのだ。座るものを無欠の支配者とし、そしてそれ以外の姿を許さない――そういう風にできているのだ。座るものの意思がどうであるかなど関係なく。
「お付き合いしましょう、何十年でも」
そう言えば、孤高の皇帝陛下は本当に珍しく、赤子のように無防備な顔をしたあと泣きそうに見えるくらい破顔した。
「頼むよ、懐刀殿」
フリングス少将には少し、妬いていたんです。あなたは彼の前では弱みをさらけ出したというのに、私の前であまりに毅然としていたものだから。


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