泣くことはない、今はまだ。

5,469 文字

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 特別な日の晩のことだった。
 厳密には、特別な日の、前の晩である。明日は彼らが六年間学んだ学び舎を巣立つ日であった。
 授業も終わり、卒業試験も揃って合格して、開放感に浮かれたのは数日前のこと。それから委員会の引き継ぎや長屋の掃除などに追われているうちに、感傷など感じる間もなく、門出の日は明日に迫っていた。本当に、湿っぽいことを考える暇もなかった。もしかしたらこの学園は、そういうことまで計算のうちで、卒業生が長屋を去る日取りを決めているのだろうかと訝しんでしまうくらいだった。
 最後の日の晩は仲の良い者同士集まって宴会をするのが、誰が決めたわけでもない学園の伝統であった。あるいは誰もそのような伝統があることを知らないのかもしれない。それでも、彼らは毎年毎年習いのように自然と集い、どこからかくすねてきた酒とつまみを持ち寄って、思い出話を肴にひと騒ぎするのである。それは、今年の六年生も例に漏れなかった。
 上の学年からは揶揄われ、下の学年からは羨望された仲良し五人組は、じょろじょろと雷蔵と三郎の部屋に集まった。部屋の掃除が一番最後までかかったのは八左ヱ門で、掃除に手間取ったというよりは委員会の引き継ぎが長引いたというのがその原因である。餞別とばかりに生物委員会所属の生き物たちが揃いも揃って大脱走したのが大きい。
 捨てるか、それとも後輩にあげるか、はたまたどうにかして持っていくべきかといちいち悩むのが分かり切っていた雷蔵は、誰よりも早く部屋の掃除を始め、今日の午後までかかってなんとか片付け終わった。横から三郎が口出しすることは、もうなかった。その三郎はといえば、変装道具を除けば元々極端にものの少ない男だったから、いくつかを学級委員長委員会の後輩に下げ渡したほかはあっという間に片付いてしまった。
 勘右衛門と兵助はそういうことはそつなくこなすい組であるからして、空いた時間に食堂のお勝手を借りてつまみまで作って持参した。もちろん、半分は豆腐料理であった。
 飲んで食べて、喋って歌って踊って笑って。そうして最後の夜は過ぎた。笑顔が絶えることのない夜だった。忍者の学校を卒業する前の晩の正しい過ごし方というのがどういうものかは想像しがたいが、別れの前夜とは思えぬいつもどおりの馬鹿騒ぎは、正解であるように思われた。
 この時代、別れはほんとうの意味で別れである。互いの居場所を知らせる術は少ない。あちこちで戦が勃発する世では、文一つ無事に届くか怪しい。ましてや忍びなどという職につく若者たちにとってはなお、再会は難しかった。しかし、だれもそんなことをおくびにも出さない。永遠に続く日常の延長のように普段通りであることが、まるで願掛けであるかのように。
 その日はそういう晩であった。そういう、特別な日の晩のことであった。

 鉢屋三郎は今、十五年の人生の中で最大に緊張していた。忍術学園に足を踏み入れたあの日よりも、初めて忍務をもらったときよりも、雑渡昆奈門と相対したあのときよりも、である。
 宴が終わり、酔いつぶれた者を寝床に返し、酒瓶やら杯やら食べかすやらを片付けてしまうと、部屋は元通りにがらんとなった。片付いた床に雷蔵が二人分の布団を敷いている間、三郎はそれを手伝うこともせずにただじっと、自分の文机の前に座っていた。午前中にはすっかり片付けて空にしたはずの引き出しの中には、実は一つだけ残っているものがある。三郎はそれを今夜、どうしても同室の友人に渡さなければならないのであった。
「三郎、どうかしたの」
 布団を敷き終わった雷蔵が、不思議そうな顔でこちらを見ている。それを見て三郎は意を決した。実際のところ、もっと早く済ませてしまうはずだったのだ。それを、もう少し、もう少しと引き延ばしているうちに今夜が来てしまった。本当ならばこの晩は、すべての心残りを捨てて平穏安らかに過ごすはずであったのに。何もかも己の未熟さのせいである。
 それを手放すことは三郎にとって恐怖であった。それをなくした瞬間に、なにか心の拠り所を失ってしまうような、とたんに迷子になってしまうような、一人っきりになってしまうような、それは三郎にとってそういうものなのであった。
 返さないでいられるならそうしたいが、しかし三郎を形作るもう一方――忍びとしての直感は、それを手放すことが正しいのだと告げている。明日には卵から孵る身であるから、三郎は返したくないと泣き喚く子供の部分からそれを取り上げなければならない。忍術学園の六年間で培われ、今まで何度も三郎を危機から救ってきたこの直感に逆らってしまえば、それは忍びとして身を立てようとする自分自身を否定することにもなる。
 三郎は引き出しを開けた。
 そうして、できるだけ平静に、いつもどおりを装って、雷蔵、と名を呼ぶ。
「実は今日掃除していたらひょんなところから出てきたんだけど」
 そんなのは嘘だった。借りたその時から、三郎は肌身離さずこれを持ち歩いていた。
「随分昔のことだからきみはもう忘れているかもしれないね」
 忘れていてくれたらいいと、この期に及んで思っている。
「でも、確かに君から借りたものだから」
 本当はこのままもらってしまいたい。
「返すよ。これ」

 それは一本の組紐だった。蘇芳に縹に萌黄に白と、色とりどりの紐で組まれた、可愛らしい髪結い紐。

***

「うーん、どうしよう……」
 その時、雷蔵は悩んでいた。明日の、初めての変装実習のせいである。
 実技の先生の「よく予習をしておくように」の言葉のとおりに、生真面目な雷蔵は忍たまの友を何度も読んで、図書室から本も借りて、変装に必要そうな道具はきっちり前の週のうちに街で買い揃えた。準備だけは完璧で、雷蔵はそれで安心してしまっていた。道具だけあっても、それを使ってどうやって変装するのか、そこまで考えなければいけないことに気づかずに。
 一年生の初めての変装の授業といえば、女装であると決まっているのだそうだ。雷蔵が街で買ってきたのは、女の人が化粧に使う白粉や貝殻に入った紅。それから、どちらがいいか選べなくて結局二本とも買ってしまった髪結い紐。着物は作法委員会から借りてきた。自分に似合うとは到底思えない、桃色と橙色で麻の葉模様が入った着物だ。
「うーん……」
 それで、これを使って、どうやって女装すればいいのか。化粧の仕方にしろ髪の結い方にしろ教科書や本には何通りも書いてあって、ただでさえ迷い癖のある自分にはそこから一つ選ぶというのは至難の業であった。かれこれ一刻近く、道具と教科書とを前にして悩んでいるが、さっぱり決まらない。夕飯を食べ終わってすぐに始めてというのに、これでは夜が明けても決まらないかもしれない。
 とその時、なんの断りもなく部屋の引き戸が開いたので、雷蔵は同室の子が帰ってきたことを知った。
「おかえり三郎」
「……」
 返事はなかったが、いつものことですっかり慣れっこなので気にもならなかった。
 そういえば、彼は明日の女装の授業、どうやって出るつもりなのだろう。雷蔵がそう考えるのは、彼が四六時中変なお面をかぶっているせいだった。それは入学式のときから変わらないことで、昼間はもちろん、夜寝るときもきっちりとお面と頭巾をかぶって、髪の一筋すら他人に見せようとしない。そのことは、同じクラスで同室の雷蔵が一番良く知っている。そんな変わり者であるのに、授業ではいつも一番早く課題を終わらせるし、テストは百点しかとらない優等生だというのも、風変わりに拍車をかけていた。そんな彼が、お面をかぶっているからといって変装の授業で手を抜くとも思えない。もしかして、お面のまま女装するのかしらん。
 雷蔵は気になって、机の前に座ってなにやら書き物を始めた三郎に、好奇心のまま尋ねた。返事が帰ってこないとわかっていても、雷蔵はめげもせず、よく三郎に話しかけたものだった。
「ねえ、三郎は明日の女装の授業、どうするの?」
「……ひとの心配をしている場合かい」
「! ……あ、ああ! そうだよね!」
 まさか答えが帰ってくるとは思わなかったので、雷蔵は夜だというのに大きな声で返事をしてしまった。それだけ、とても珍しいことだったのである。
 三郎は筆を置くと、くるりと雷蔵に向き直った。
「あ、書き物はもういいの?」
「ひとの心配をしている場合じゃ、ないんだろう」
「そうだけど……」
 お面の真っ暗な目がこちらを向いている。クラスメイトの中には、お面のせいで何を考えているかわからないから怖い、という者もいたけれど、雷蔵は三郎を恐ろしいと思ったことなど一度もなかった。本当はすごく優しくて、気のいいやつなんだと、理由はひとつもないくせにそう確信していたのだった。
「それで」
「え?」
「それで、女装をするのに何を迷うことがあるんだい」
「迷ってるって、そんなにわかりやすかったかな」
「君は簡単なことでもすぐに迷う癖がある」
 痛いところを疲れて雷蔵はうっとなった。
「今回は、簡単なことじゃないんだよ! だって女装なんてやったことがないし、教科書にはいろんなことが書いてあるし、迷っても仕方がないじゃないか!」
「そんなに難しく考えなければいいのに。例えば、」
 この時だって三郎はしっかりとお面をかぶっていたけれど、なぜだか雷蔵には、彼がにやりと笑ったように見えたのだ。
「ちょっと《貸して》ご覧よ」
 そう言うが早いか、三郎は雷蔵の手の中から買ったばかりの結い紐、蘇芳に縹に萌黄に白の色が組み合わさった一本をするりと抜いて、ばさりと頭巾を――今まで一度も取らなかった頭巾を――解いたかと思えば、
「ああ!!」
 その下から出てきた見覚えのある髪に、雷蔵は大声を上げた。ふわふわの、まとまりづらくて雨が降るとすぐに爆発してしまう、雷蔵が誰よりも一番良く知った髪。それが、自分の頭ではないところに付いている。結い方はいつも雷蔵が結う場所と違って、項のあたりで一つ結びにしてあった。
 続いて振り返った顔には、お面の代わりにまんまるの目と長い鼻。唇にほんのりと色が乗っているのが違うくらいで、それはそのまま、雷蔵自身の顔だった。桃色の唇が、にこっと綺麗に弧を描く。
「すごい!!」
 雷蔵は興奮した。興奮して、勢いのまま三郎に飛びついた。
「僕の顔なのにちゃんと女の子に見える!」
 雷蔵が興奮したのは、三郎が初めて面を外したことでもなければ、三郎が自分そっくりの姿に返送していることでもなかった。ただ、自分の顔がうまく女の子の顔に化けているという、その一点だけ。
 そのことに雷蔵の顔をした三郎は一瞬、戸惑ったように言葉をつまらせたが、やがて気を取り直して胸を張った。
「そうさ、私達くらいの年齢じゃ、女装するのに白粉や紅で厚化粧なんてする必要はないのさ。大事なのは観察することだよ。同年代の女の子がどういうふうに髪を結っていて、どういうふうな仕草をするのか、そういうことに気をつければ簡単さ」
 雷蔵はうんうんと形ばかり頷いて、三郎の周りをくるくると回ってはしゃいだ。
「三郎、君ってほんとうにすごいんだね! すごい、すごいや――」

***

 懐かしい夢から覚めて雷蔵はまず、隣にあるはずの布団を確認した。しかしそこにあるはずの布団は綺麗に畳まれていて、彼がとっくに出立してしまったことを静かに伝えるだけだった。
 枕元には一本の組紐。蘇芳に縹に萌黄に白の、夢のなかより色あせたそれは、六年の時を越えて雷蔵のもとに帰ってきた。

 ――えーと、これ、僕のだっけ。
 ――そうか、君がそう言うなら、確かに僕のなんだろうけど。
 ――ごめん、よく覚えてないんだ。
 ――うーん。でもさ、

 ――君が持ってなよ。

 そう言った時の、三郎の顔と言ったら。
 もちろん彼の顔は雷蔵の顔だ。彼が六年前に《貸した》、そして今まで《貸しっぱなしになっていた》、鏡の中よりも見慣れた自分の顔は、雷蔵がそういった瞬間笑うのに失敗したような、今にも泣き出しそうな、覚悟をすかされて怒っているような、ほっと安心したような、とにかく雷蔵が見たこともない風に歪んだのだった。
 思い出して、くすくすとこみ上げてきた笑いはいつの間にかこらえることができなくなって、部屋にひとりきりだというのに雷蔵は高々と哄笑をあげていた。
「君ってば、本当に……!!」
 返したくないのに、返さなくてはいけないと思い込んで、それでもなお返し難く、あんな遠回りな言い方をして。変なところで義理堅くって真面目な君は、

 ――じゃあもうしばらく、借りておく。

 そう言ったのに結い紐だけを残していったのは、この紐にまつわるもう一つの《借り物》をすっかり忘れていた雷蔵に対する当てつけだろうか。
 お陰で思い出した。三郎が返したくなかった、それでも返さなければいけないと思い込んでいた、雷蔵の《顔》。
 もうとっくに君のものになっているけれど、でも君がそう思うなら、またいつか、返しにおいで。必ずまた、返しにおいで。
 笑いすぎて涙が出てきた。外から、雷蔵の笑い声を何事かと思った学友たちがざわめく気配して、慌てて息を整え目尻に滲んだ涙を指で拭う。
 泣くことはない、今はまだ。なぜなら君と僕はまた、きっと必ず会えるのだから。

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