三郎食堂 一、鮭茶漬け

5,416 文字

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 山犬のように野を駆け、山を越え、学園への道をひた走る。
 補習からの帰り道、八左ヱ門は補習を終えたという達成感とは別の感情に心を惑わされぬよう、ただひたすらに山道を走り続けていた。
 見開いた瞳で前方を射抜くように見据えながらも、しかし人の頭は、真に獣のように無心にはなれない。
(考えるな。補習は終わったんだから、喜べ。ほら。嬉しいだろう。ああ、嬉しいさ。だから、考えるな)
 今回の実習、ろ組では自分だけが補習になった。
 指定された屋敷の見取り図を作る実習は、ただの潜入ではなく、空間を把握し要所を記憶し、それを図面に起こすところまでが求められる。八左ヱ門は無難に侵入を果たし、持ち前の視力と空間把握能力で屋敷の全容をつかんだが、規模的にあって然るべき部屋を見落とし、図面にも反映できなかった。
 下されたのは「不可」の評価。低学年の頃はなんとも思わなかったが、五年になってまだ補習を課されるとは。それも、ただ一人、自分だけが。
 補習を言い渡されてから今晩まで、そのことについて深く考える暇はなかった。評価は妥当で、自分の力が及ばなかったことに言い訳の余地はない。足りない部分を補うため、前回の反省を踏まえて忍たまの友を読み返し、次に活かす準備をしてきた。
 けれど今、ようやく補習を終え、おそらく問題ないだろう図面を懐に携えて学園に戻るうちに、達成感とは別の思いが胸の内からじわじわと広がってくる。いくら考えるまいとしても、緊張から解き放たれた頭は余計なことばかりを巡らせる。
(どうして俺は。雷蔵と三郎は……違う。そうじゃなくて。俺が。俺は——)
 雷蔵は、あいつは、おっとりした性格で人より一歩出遅れることが多く、低学年の頃は補習の常連だった。頭はいいのに、頭を使う課題ほど補習になる。
 自分のように「頭が悪いから補習」というなら納得もできるが、なぜ雷蔵までもが、と、毎度不思議に思った。
 蓋を開けてみれば、彼は豊富な知識ゆえに課題の想定外のことまで考え込み、迷ったり、最善のさらに先を求めて自分の力量を超えてしまったりと、八左ヱ門とは真逆の理由で補習になっていたのだ。
 年月が経つにつれ彼も塩梅が分かってきたのか、こういった理由で雷蔵が補習を受けることは減った。今では「頭脳明晰」「成績優秀」が枕詞になるほどで、八左ヱ門と一緒に補習になることは、もうない。
 三郎は——あいつはよくわからないやつだ。地頭が良くて機転も利くくせに、授業をちゃんと聞いておらず、教師の言葉を聞き逃して課題の提出日を忘れたりする。八左ヱ門や雷蔵と一緒に補習を受けるのも、そのせいだと思っていた。
 だが今にして思えば、あれは雷蔵と一緒にいたいがため、わざと聞き逃したふりをしていたのかもしれない。なぜなら、補習が決まると毎回、雷蔵や八左ヱ門の引っかかった箇所を探り出し、ここはこう、そこはこうしろと、教師よりもずっと腑に落ちる形で説明してくれたからだ。寂しがり屋の一面があって、皆と同じでいたいという子どもっぽさもある。それでわざわざ、補習に付き合っていたのだろう。だが委員会活動が忙しくなるにつれて、三郎が補習を受ける回数は減った。雷蔵の補習が減ったからというのも、あるいは理由の一端かもしれない。
 翻って、自分はどうだ。
 八左ヱ門は、ぐっと奥歯を噛みしめた。成長していないわけではない。視力や聴力、体力といった天性の能力だけで乗り切っていたあの頃とは違い、今では頭を使うことも覚えた。知識を積み重ね、目に見えるものだけでなく、その背景や因果まで思いを巡らせ、判断の材料にできるようになった。
 それでも——足りない。補習になるのは、その「足りなさ」がまだ残っているからだ。一生懸命やってるはずなのに、何がいけない? 努力が足りない? 要領が悪い? それとも——才能がないのか。
 苦しい。悲しい。否、悔しい。
 仲間に置いていかれる自分が、追いつけない自分が、心底いやになる。
 見開いた瞳に映る景色がぼやける。目元が熱い。それに抗うように、さらに目を見開く。風が、こぼれた涙を乾かしていく。
(馬鹿野郎……泣くな)
 泣いたら終わりだ。立ち止まったら終わりだ。弱い自分を認めてしまったら、もう走り続けることなんてできやしない。

 そうこうしているうちに、ぱっと視界が開けた。裏山の頂に出たのだ。
 眼下に広がる学園の明かりはまばらで、振り仰げば上弦の月が西の空に傾きかけていた。どちらも、真夜中が近いことを告げている。
 八左ヱ門はほ、と一つ息を吐いて、ゆっくりと裏山を下り始めた。この時間に起きている者は少ないだろう。八左ヱ門にとっては好都合だった。乱れた心のまま級友と顔を合わせたくはない。咄嗟に笑ってごまかせる自信もない。
 裏山から校庭へと出る。この時刻なら、小松田さんもさすがに眠っているだろう。だが、万一騒ぎになって入門票を持って追いかけ回されるのは避けたい。足音を忍ばせ、五年長屋へと向かった。
 そのまま部屋に戻るつもりだったが、ふと炊事場の明かりが目に留まった。
 学年ごとの長屋に設けられた炊事場は、主に夕食の準備に使われる。学園の食堂は朝と昼しか営業しないため、夜は各自で食事を用意する必要がある。それでも今は夜半過ぎ、灯りが点いているのは不自然だった。
 くぅ、と腹が鳴る。部屋を探せば兵糧丸くらいは見つかるだろうから、それで済ませるつもりだった。だが、その明かりに心が揺らぐ。もし温かい食事にありつけるのなら、それに越したことはない。
 とはいえ、明かりが点いているということは、誰かがいるということ。今は誰とも会いたくない。わざわざ自分から顔を出すこともないだろう。
 食事か、体面か——迷いながら炊事場に近づく。もしかしたら、誰かが明かりを消し忘れただけかもしれない。それなら安全のためにも確かめたほうがいい。そう自分に言い訳しながら、そろそろと歩を進める。中に誰もいなければ、少し火をおこして、湯だけもらって戻ろう。
 そんなはずがない、必ず誰かがそこにいる。頭ではわかっているのに、羽虫のように明かりに誘われる。ふらふらと近づいて、それでもまだ中に入る勇気は無くて、戸口のすぐ脇で立ち止まった。その時である。
「何してるんだ。早く入ってこい」
 三郎の声だった。
 びくり、と肩を震わせて、逃げ腰になる。なんなら今一番会いたくない相手がそこにいるとわかって、今からでも黙って自室に戻ってしまおうかと、一歩踏み出す。
「おい、逃げるなよ」
 それすらも見破られ、八左ヱ門はとうとう観念して戸口に姿を現した。
 覆いのついた灯明に照らされた炊事場。竈の火があかあかと燃えている。そこに、雷蔵の顔をした鉢屋三郎が、寝間着の上にたすきを掛けて、菜箸を持って立っていた。
「おかえり」
 三郎は八左ヱ門を見ようともせず、素っ気なく言った。その態度に毒気を抜かれ、八左ヱ門の肩の力が抜ける。
「……ただいま。何してるんだよ、こんな時間に」
「はあ? 何してるって……見てわかんないのか」
 当たり前のことを聞くな、と言いたげな視線がようやく八左ヱ門に向けられた。もちろん、言われずともわかる。竈の鍋からは、先ほどから出汁のいい香りが漂っている。皿の上には、夕飯の残りと思しきおかず。加えて、炊いてから時間の経った飯が、釜の隅に寄せられていた。
「夜食?」
「そ。いい時間に来たな」
 にやりと笑って、三郎は竈から鍋を下ろす。ふつふつと湧きかけた鍋の中には既に昆布のだしが引いてあった。そこにぱらりと鰹節を加える。途端、甘い昆布の匂いに、華やかな鰹の香りが重なり、炊事場の中に湯気と共に立ちこめる。思わず深呼吸して、それを見た三郎が笑みを深くする。
 続いて三郎は、皿のおかずをまな板の上にあけた。沢庵と柴漬け、それに鮭。漬物は包丁でとんとんと細かく刻み、鮭の切り身は、ほぐしながら太い骨を丁寧に抜いてゆく。冷や飯を茶碗によそい、その上に刻んだ漬物と鮭のほぐし身を載せる。沢庵の黄色、柴漬けの紫、鮭の赤が、菜箸と指で形よく盛りつけられる。
 仕上げに、熱々の出汁が茶碗に注がれると、出汁の海に、色とりどりの具が浮かんだ。
 横から覗き込んでいた八左ヱ門は、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「うお、鮭茶漬けか。豪華だ」
「たまたまな、いいのが手に入ったんだ。そんなことより、ほら」
「?」
「そこに座れ」
 三郎が視線で調理台の脇に転がっていた木箱を示す。言われた通りに腰掛けると、箸を手渡された。それに、できあがったばかりの鮭茶漬けまで。
「……いいのか?」
 じんわりと手のひらに熱を伝えてくる器と、三郎の顔とを見比べる。三郎は何も言わずに、じっと八左ヱ門の顔を見下ろしている。
「じゃ、じゃあ……いただきます!」
「ふ……たんとお食べ」
「それ、俺が生物に餌やるときの台詞」
「なるほど、悪い気はしないな」
 むう、と唇をとがらせるが、目の前の誘惑には勝てない。からかい口調にそれ以上文句は言わず、まずは出汁に口を付けた。昆布と鰹、それに鮭と漬物の塩気が混じりあって、いい塩梅だ。ふうふうと息を吹きかけて飯を一口。思ったより熱くはない。むしろ、冷えた飯と混ざってちょうど良い温度に下がっている。これなら、掻き込んでも口の中を火傷しなくて済みそうだ。
 ふと顔を上げると、手を拭きながらこちらを眺めている三郎と目が合った。夜食を作っていると言ったくせに、できあがったのは八左ヱ門の一人分だけで、三郎の分は見当たらない。
「……お前の分は?」
 まさか、八左ヱ門が来たせいで自分の分を譲ってくれたのだろうか。考えてみれば、最初から一人分の材料しか用意されていなかった。恐る恐る尋ねると、三郎は呆れたように肩をすくめて、仕方なさそうに笑った。
「誰が自分の夜食を作ってるって言った?」
「え?」
「はじめっからおまえの分しかないよ」
「私は夕飯、ちゃんと食べたしな」とさらりと付け足す。その表情にも言葉にも、含むところはなさそうだった。三郎は、よくわからないところのあるやつだが、実はあまり嘘をつかない。正確には、必要のない嘘はつかない、というべきか。
 となれば彼は、いつ帰ってくるかわからない八左ヱ門のために、こんな遅くまで炊事場の火を焚いて、夜食を用意して待っていたということになる。しかし、だとしたら、なぜ。
 八左ヱ門が訝しげに眉をひそめても、三郎は気にも留めない様子で、竈の片付けをしながら飄々と問いかけた。
「補習は? 無事終えたのか」
「ああ、まあ……」
「なんだ。つまらない」
 あっさりと返された言葉の遠慮のなさは、いつもの三郎だった。八左ヱ門も調子を取り戻し、思わず叫ぶ。
「おま……言うにこと欠いてつまらないはないだろ!」
「つまらないとも。この頃は雷蔵もおまえも……何でも一人でできるようになってしまって。補習の前だって、私に聞きにも来ないじゃないか」
「はあ? だって、お前、そんなの……」
 竈の火を消し、洗い物は桶にまとめて水に浸ける。洗うのは朝にでもやればいいから、もう片付けるものもない。手持ち無沙汰になった三郎は、拗ねた表情を隠しもせず、八左ヱ門を睨みつけた。
「昔は何に付けても私のところに聞きに来て、ちょっと教えてやっただけですごいすごいと褒めそやしたくせに。一人でできるようになったらもう用無しか。八左ヱ門の薄情者」
 思ってもみなかったことを言われて、八左ヱ門はあっけにとられた。それは、八左ヱ門の考えとはまるで正反対だったからだ。
 いつまでも三郎に頼っているようでは駄目だと思った。だから、一人で勉強して、一人で補習に臨んだ。上級生ともなれば忙しいはずで、八左ヱ門の面倒まで見させるわけにはいかなかった。置いていかれているのは八左ヱ門で、置いていっているのは三郎や雷蔵のほう。追いつかなければと、必死で一人でもがいていた。
 なのに、なんだその言い草は。その顔は。まるで、三郎が置いていかれたみたいな顔をして。
 ——そうだった。ずっと前から知っていたはずなのに。
「なんだおまえ。もしかして……寂しいの」
「…………」
 三郎はついに顔を背け、壁の方を向いてしまった。八左ヱ門はさらに畳みかける。
「寂しいんだ」
「うるさい。さっさと食って寝てしまえ」
 寝間着姿の三郎は頭巾もしていないので、耳の後ろや首筋の皮膚の薄いところが赤く染まっているのが、よくわかる。顔を面で隠しても、こういうところを隠しきれないのが、三郎の迂闊で、幼稚で、甘いところだった。
 八左ヱ門は、三郎が作ってくれた茶漬けの茶碗を、両手で大切に抱えた。
「なら、ゆっくり味わって食べよ」
「いいから早く食え!」
 ぶっきらぼうな言い方のくせに、声に刺はなかった。怒っているというより、照れ隠しだ。そういうところも、昔から変わらない。
 茶碗を手にしたまま、八左ヱ門は小さく笑う。
 鬱屈とした感情が消えて無くなったわけではない。これからも八左ヱ門は、壁にぶつかる度に落ち込み、足掻くであろう。悔しさに涙する日もあろう。しかし、置いて行かれると怯えることは、きっともうない。
 湯気の立ち上る茶漬けをひと口すする。温かな出汁と米が、つるりと喉を通り、胃の腑に染み入る。
 優しい味わいがさっきよりもずっとあたたかく感じられ、八左ヱ門は目を閉じて、それをじっと味わった。

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