結界というのはまず内なるものを外敵から守るために張られるものであるから、外側からの侵入は不可能であってもその逆、つまり内側からの脱出と言うのはひどく容易い構造をしている。
当り前である。ここを出ていく者があることなどだれも想定していないのだ。結界はなにも閉じ込めるためにあるのではない。ただ守るためだけに張られている。
リウ・シエンはその結界の境に立ち、見かけ上内側と何の変わり映えもない外の世界を見据えた。
昼間であってもなお薄暗い森は、このまま果てまで続いているかのようだった。ノスロウの森、とりわけこの結界の近くには、昼間にも夜の鳥が啼く。昼の鳥がどういう声で鳴くのか、知識としてしか知らぬそれを想像しながら、今は陰鬱な啼き声に耳を澄ませた。
行く手に道はない。獣道すらない。ここから先は何人たりとも入り込むことの叶わぬ場所。続くものがないのは必然だ。
常緑の木々が立ち並ぶ隙間を、自分の背丈と同じくらいの下草が埋めている。葉の縁がのこぎり状のそれらは、直に触れたら自分の薄い膚など簡単に破けてしまいそうだった。
本来は敷布用に織られた厚手の生地をマントに仕立て直して、全身を覆っていなければ疾うにそうなっていただろう。自分で縫ったマントは不格好だったが、その点きちんと役目を果たしてくれた。
リウ・シエンは背後を振り向いた。そこには道ができていた。自分で作ったものだ。ナイフで薙ぎ払い、自分の体で分け入りながらここまでたどり着いた。そして、この先の道もまた、自分が作るのだ。
鳥の鳴き声はいつまでたっても規則的で、その乱れのなさが、ここに危機をもたらす大きな獣がいないことを知らせていた。今ならこの結界を越しても大丈夫だ。
そうやって覚悟を決めながらも、リウ・シエンはほんの少し躊躇した。
一歩、距離にしてみればたかだか三十センチ、踏みだすだけで済んでしまう。それだけで自分はこの閉ざされた土地から、閉鎖的な部族から解放される。
たったの一歩。そのはずであるのに、その一歩が途方もなく大きいものであるように錯覚した。
スクライブの子供たちの中でも人一倍賢かったリウ・シエンはもう、この結界がただの優しさでできているとは思っていない。リウ・シエンにとって、これは檻である。頑迷であるが故に堅牢な、古臭い澱んだ空気に満ちた檻である。
覚悟はずっと前に決めていた、はずだった。
ふと風が吹いた。すべての木と草を揺らして通り過ぎてゆく風に、リウ・シエンもまた揺れた。その風に押し出されるように、リウ・シエンは踏み出した。
一歩は、いとも簡単だった。
背を押した風は結界を越えた瞬間、凍える北風に変わった。
はっとして振り返る。空気が違った。集落よりずっと冷たい温度が、そこには待っていた。
ノスロウの森は緯度が高い。地図の上で見るに温暖な気候ではないはずのこの土地で、スクライブがあれほど薄着で安穏と暮らしてこれたのは、それすらも結界の恩恵だったのだ。
何も変わらないように見えた世界が、今はすべて違って見える。
厚手のマントを知らずのうちに握っていた拳が、きりりと痛んだ。
もう帰ることはない、あの穏やかで静謐で、変化のない世界。何もかもが閉ざされた、薄っぺらい平穏でできた世界。
優しいだけの腕ではなかった。たとえそうであったとしても。
それでもあのかいなは、やはり温かかったのだ。


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