貸し一つ

2,244 文字

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 ある日の図書室で。
「三郎はいるか?」
「いるぞ」
「おっ、雷蔵もいた」
「あれ、僕に用事?」
「いや、ちょっと三郎貸してくれよ」
「いいよー」

 またある日の廊下で。
「おーい、雷蔵、三郎!」
「どうした?」
「ちょうど良かった。雷蔵」
「なに?」
「三郎借りるぞ」
「どうぞー」

 またある日の長屋で。
「雷蔵、三郎!」
「なんだ騒がしいな」
「どうしたの?」
「それがもうかくかくしかじかで」
「それは大変だね」
「自業自得だろ」
「ということで雷蔵、三郎借りてくな」
「はーい」

「……納得いかない」
 八左ヱ門の毒虫探しを散々手伝わされて、くたびれた姿で返ってきた三郎は、長屋の自室に戻ってくるなり憮然とした表情で呟いた。
「おや、おかえり三郎」
「ただいま雷蔵」
 すぱん、と戸を閉めて、頭巾を取って首に掛けた三郎は、くたびれているのにもかかわらずなぜだか改まった様子で雷蔵の前に腰を下ろした。
 三郎が連れて行かれてからかれこれ二時間ほど、その間一人で心ゆくまで読書に勤しむことができた雷蔵は、ちょうど本も読み終わってそろそろ風呂にでも行こうと思っていたところだ。目の前に座り込まれてしまっては、三郎を置いて自分だけ立ち上がるわけにもいかず、仕方なく雷蔵は自分も改まって座り直した。
「えーと、お疲れ様?」
「……なぜ」
 ねぎらいの言葉を掛けた雷蔵に対して、俯いた三郎がぼそりと言う。雷蔵は素直に聞き返した。
「うん?」
「……なぜ、みんなして、わたしを雷蔵から借りようとするんだ」
 なるほどな、と雷蔵は得心がいった。二時間前のあのやりとりが、三郎のお気に召さなかったらしい。さらに言うと、確かに雷蔵にも、ここ最近いろんなところで同じやりとりをした覚えはあった。八左ヱ門だけでなく、勘右衛門しかり、兵助しかり。
「それは——」
「それに! なぜ雷蔵はいつもいつも簡単にわたしをみんなに貸してしまうんだ!」
 答えようとした雷蔵を遮るように、三郎は急に声高に叫んだかと思うと、よよ、と雷蔵にもたれかかった。おいおいと鳴き真似を始める三郎を抱き留めて、ああもう、よしよしと宥めるように背を叩く。生物委員会の毒虫探しでよほど疲れたのだろう。三郎の首もとからは、化粧と、土と、汗の匂いがした。
「三郎はみんなの三郎だし、僕だけが借りっぱなしなのは悪いよ」
「悪くない! わたしは雷蔵だけのわたしだ! 存分に独り占めしてくれ!」
「また、そんなこと言って」
 じっさい、三郎は人気者だ。五年ろ組の学級委員長だし、学級委員長委員会でも中心的な役割を担っているから他の学年にも顔が広い。事あるごとにいろんなところから声が掛かる三郎を、雷蔵が独り占めするわけにはいかない、というのは常日頃から雷蔵が思っていることだ。
 しかし、三郎の方はそうは思っていないらしい。
「だって、わたしは雷蔵の顔を借りているんだもの。顔を借りている以上、わたしのことは君が一番優先で借りてくれないと、わたしの借りっぱなしということになる」
「そんな気にするなよ、顔くらいで」
「顔くらい!?」
 ヒステリックな声を出して三郎が頭を抱えるので、雷蔵は笑ってしまう。ああもう、楽しそうだな。三郎が楽しそうで、よかったな。

 つまりまあ、言ってしまえば、こういうやりとりがしたいのだ、三郎は。
 いたずら好きで、変装名人で、天邪鬼で、かっこつけしい。でもその実、人なつこく、甘えたで、面倒見が良い。誰かになにかを頼まれたら、うんと言わずにはいられないくせに、特に親しい仲間たちにはごねたり、気のない振りをしたり、つまらぬ言いがかりを付けたりしたい。そうやって人とじゃれるのが好きなのだ、三郎は。
 それを、雷蔵がひとことで貸し出してしまうので、ここ最近は鬱憤が溜まっていたのかもしれない。ここぞとばかりぐだぐだと甘えてくる姿に、雷蔵は頑是無い子どもでも相手にしているような気分になる。
 時間があるときならいいが、急いでいるときにこれをやられたら、溜まったものではないだろう。だから正直、仲間たちの気持ちもわかる。急ぎの用で三郎の手を借りたい時に、雷蔵から三郎を借り受けるのは、彼らの編み出した時短テクニックの一つなのだ。
「まあまあ、これからは皆にもあまり僕に三郎を借りないようにと言っておくからさ」
「……ほんとう?」
「ほんと、ほんと」
 雷蔵は一応、口ではそう言うことにした。まさか本人に対して時短のためにやってます、とは告げられない。程度の問題だろうから、三郎の気に障らない頻度に抑えてくれればよい。
 それに、これは三郎にも、仲間たちにも告げられる話ではないが、じつは雷蔵も、皆のためだけに三郎を貸しているわけではないのだった。だから、完全に貸し出しがなくなってしまうのも困ってしまう。

 三郎いるか、と声を掛けられて、獲物をみつけてぴんと耳を立てる狐みたいに彼の意識が他人に向かうその瞬間。いままで雷蔵にだけ向けられていた興味や関心が、楽しげな、あるいはやっかいな話に引き寄せられてよそを向く、その瞬間は、自分だけが独り占めはできないとわかっていても、それでも少し寂しいので。
 雷蔵に貸し出されたと知ってしゅんと尻尾が垂れ下がり、とぼとぼと小さくなる後ろ姿に、密かに溜飲を下げているなんて、誰にも知られるわけにはいかない。
 これではどちらが子どもか分かったものではないが、それは綺麗に覆い隠して腹の中に飲み込んで、雷蔵はにっこりと笑うのだった。

「貸し一つ、ね」

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