ある日の放課後、庄左ヱ門がクラス委員の仕事を片付けて長屋へと戻ると、部屋の中では同室の二郭伊助が文机の前で、ううん、ううんと唸って頭を抱えていた。
庄左ヱ門が帰ってきたのにも気が付かないのでそっと横から顔を覗きこむと、目が真ん中によっていて、これは伊助が授業中やら宿題の最中やらによくする顔だった。つまるところ「むずかしくてわからない」。
「どうしたの伊助、難しい顔して」
「わっ、庄ちゃん。帰ってたの」
おかえり、と律儀に挨拶してくれる伊助に、ただいまと返した庄左ヱ門は、伊助の手元に視線を移した。初めは冊子のように見えたが、よく見るとそれは色とりどりに染め抜かれた布を綴じたものである。
「なあに、それ」
「これは色見本なんだ」
「色見本? って、染物の?」
「そう。この間の長期休暇でうちに帰った時に、父ちゃんから宿題って言われて渡されたんだけど、この色と色の名前を、今度の休みまでに覚えてくるようにって言われててさあ……。こんなにたくさん、覚えられるわけないよ」
確かにその色見本は十や二十で済まされない数がありそうだ。しかし――
「伊助ねえ、この間の長期休みって夏休みだろう? 一体何日経ってると思って……」
こつこつやっていれば覚えられる量を伊助の父上もちゃんと考えていたに違いない。
「だってえ! 庄ちゃんお願い! なんか覚えるコツみたいなのってないの?」
「そうは言っても、暗記って近道はなかなかないものだから……やるとしたら、語呂合わせ? 例えば色の名前の頭文字で何か文章を作るとか。でもなあ」
ちょっと貸してみて、と庄左ヱ門は伊助から色見本を受け取ってパラパラとめくった。美しく染め上げられた布の上に、墨で雅な名前が添えられている。こんなにたくさんの色のそれぞれに名前があるのか、と庄左ヱ門は驚いた。
「うーん、例えば、覚えやすい順番に並べて――。……」
「……急に黙って、どうかした?」
不自然に言葉を切った庄左ヱ門は何かを探すように見本をめくった後、伊助に「物は相談なんだけど」と切り出した。
「協力してあげるから、僕のお願いも聞いてくれる?」
***
委員会のある日でなくとも委員会室に行けば大概一年生が宿題やクラスの雑用をやっていることを知っている三郎は、暇を持て余した時などによく理由もなく委員会室を訪れた。一年生をつついて遊ぶのは三郎のこの上もない道楽である。
そんな理由で今日も三郎は委員会室を訪れたのだが。
戸を開けると部屋には庄左ヱ門がひとりきり、宿題をやるでもなく床の上に座って、そこに広げたものを嬉しそうに眺めている。喜怒哀楽の感情が薄いとは言わないがなにかと冷静だと言われる後輩のこと、無人の委員会室でにこにこしているのは少し珍しい。
「なに、どうしたの庄左ヱ門。それ」
「鉢屋先輩」
それどころか庄左ヱ門は三郎の顔を見てさらにぱあっと顔を輝かせた。これには三郎も思わずたじろぐ。普段なら「何しに来たんですか邪魔しないでください」と言わんばかりの表情で出迎えられることが多いので。
とにかくそれだけ嬉しいのだろう。彼の周りをぐるっと囲む、彩りも豊かな何枚もの手巾が。
「伊助に染めて貰ったんです」
「へえ」
伊助、というのは庄左ヱ門の同級生で、そういえば実家は染物屋をしていたっけ、と思い出した三郎は、庄左ヱ門が喜んでいるわけに納得した。
「綺麗に染まってるなあ」
「はい」
そこに広げられているのの一枚をつまんで日に透かしてみると、なるほど二郭屋の将来は安泰そうだ。きっと何がしかの未熟はあるのだろうが、素人にはプロの仕事と見分けがつかない。
「先輩、それ。何色だかわかりますか」
そう言われて三郎は、何を言うのやらと自信満々に答えた。
「青だろう」
「違いますよ。縹(はなだ)色です」
「青じゃあないのか?」
「青にもいろいろあるんですって」
庄左ヱ門は面白そうに笑った。三郎は床に広がった白っぽい緑の一枚を指して、
「それじゃあこれは?」
と尋ねると、打てば響くように答えが返る。
「千草色です」
「これは」「山吹」
「こっちは?」「珊瑚」
四年生の制服の色みたいな紫は「葡萄(ぶどう)色」で、六年生の制服に似た緑は「緑青(ろくしょう)」。
「これは、桜みたいな色だなあ」
要領のわかってきた三郎がそう言うと、庄左ヱ門は我が意を得たりと頷いた。
「薄桜です」
「はあ……色にもいちいち名前がついているのだねえ。……それにしても」
三郎はふと疑問を抱く。
「どうしてこの色を選んだの?」
「それは」
――縹(はなだ)、千草(ちぐさ)に、山吹(やまぶき)、珊瑚(さんご)。葡萄(ぶどう)、緑青(ろくしょう)、薄桜(うすざくら)。
それらの色に囲まれて、庄左ヱ門は満足そうに微笑んだ。
「僕の大好きな色だからですよ、《はちやさぶろう》先輩」
(2012/11/24 十忍十色9発行 フリーペーパーより再録)
作中の色名は和色大辞典(http://www.colordic.org/w/)様を参考にさせていただきました。


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