龍のうたた寝

4,142 文字

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 午後五時。その日の夜の営業開始に合わせ、英子はBBラウンジ二階事務所の扉を開けた。フォース・キングダムが正式に発足してから、英子はアルバイトではなくゲストシンガーとしてステージに立っている。英子が歌うのはフロアが賑わいを見せる午後八時過ぎだが、それまでの間、事務所の空きスペースで新曲の構想を練ろうと、時間より早めにやってきたのだ。
「はよーございまー……って、あれ」
 明かりが付いていたから、中に誰かいるのだろうと何も考えずに扉を開けたが、部屋の中はしんと静まりかえっていた。そういえば今日は土曜日、詩乃や東海林といった事務スタッフは、イベントでもない限りは休日だ。不定休のアルバイト生活が長かったこともあり、こういうところで世間とのずれを感じる。
 しかし、事務所は静かなだけで、電気は皓々と灯っていた。だから、扉を開けるまで留守だとは思わなかったのだ。それに誰も居ないのに鍵が掛かっていないのもおかしい。そう思い改めて室内を見渡すと、大して広くもない事務所の一角、書棚とパソコンラック、さらに積み重なった段ボール箱に囲まれた席のパソコンだけ、ファンが回っていることに気がついた。
 しかも、段ボール箱の陰からは、見慣れた白い服の裾が覗いている。
「孔明……?」
 そこに居るのが思い描く人物、英子の軍師その人なら、挨拶にはすぐ返事を返してくれるはずだ。さてはヘッドフォンで音楽でも聴いているのだろうか。
 英子はそっとデスクの反対側に回り込み、パソコンラックの脇に立って、その奥を覗き込む。そして、目に飛び込んできた光景に、わ、と小さく驚きの声を上げた。
 孔明が、寝ている。
 といっても、行儀悪くデスクに突っ伏すようなことはしていない。いつでもぴんと伸ばされた背筋は全くそのままに、微かに首を傾けて、俯きがちに目を閉じている。トレードマークの羽扇は膝の上、片手はその羽扇に添えられており、もう片手はだらりと横に垂れていた。変な形の帽子もきちんと頭に乗っていて、ただ目を閉じて瞑想しているのだと言われたなら、それはそれで納得しそうな雰囲気。けれど、英子の挨拶に反応しなかった、その事実だけで、ああ孔明は寝ているのだと、すんなりと理解できてしまった。
「めっずらし……」
 思わず呟いて、まじまじと寝顔を眺める。
 なんだかんだ、孔明の寝顔を見るのは久しぶりだった。
 ハロウィンイベントのあの日、道端で寝こけていた孔明を自宅まで運んだのは英子だ。あのときは「酔っ払いの髭のおじさん」くらいにしか思わなかったし、よく知らない男性の寝顔を見るような趣味もなかったから、あまり印象に残っていない。打ち解けてからも、どうにも胡散臭いドジョウ髭と顎髭、加えて衣装の奇抜さ、言動の奇天烈さにばかり気を取られて、やはり「変な人」のイメージが拭えなかったが、改めてこうして見ると、意外と綺麗な顔をしているのだ。
 衣装はいつも通りなのだから、何が違うのかと言えばやはり、口と目を閉じているのが大きいのだろう。あの、立て板に水を流すように弁舌滑らかな口。いったいどこまでが本心でどこからが建前なのだか、容易に想像させない技は、一体どこで身につけたのだか。それに、人の心の裏側まで見透かすような鋭い目。鳶色か、琥珀色と言った方がいいような、一般的な日本人より明るい瞳の色を、英子はこっそり気に入っていた。そうは言っても、あの眼光の鋭さにはたまに英子も腰が引ける。全体の雰囲気で中和しているが、目力の強さは相当なものだ。ただ者ではないオーラがバシバシと感じられる。
 そういうわけで、その二つが封じられた今の孔明は、普段とはまるで違って見えるのだった。癖の強さがすっと引いて、本来の顔の造作の良さが際立つ。肌の色が白いこと。鼻筋がすっと通っていること。唇が薄いこと。眉の形が良いこと。うっかり嫉妬しそうなくらいまつげが長いこと。
(髭を剃って髪を切って着替えたら、いい感じになりそうなんだけど)
 背も高いし、この衣装からはわからないが、きっと足も長い。どんな服が似合うだろうか。ナチュラル系? ストリート? それともトラッド? だめだ、どれもピンとこない。
「おーい……英子ー……」
 うんうん唸っている英子の耳に、誰かの声が聞こえた。慌てて顔を上げるが、孔明、ではなさそうだ。相変わらず寝息も立てずに眠っている。
「英子ー、こっちだ、英子ー」
 先ほどよりはっきりとした声。振り返ると、薄く開いた事務所の扉の向こうから、誰かが手招きしている。誰か、というか——
「オーナー?」
「月見さーん、しーっ」
 さらにはKABEの声まで聞こえる。静かに、と言われたのでなるべくそっと扉の方へ近づくと、上段に小林、下段にKABEが、扉の隙間から顔だけ覗かせて事務所の中を窺っていた。
「……なにやってんの、二人とも」
「だからしーっ」
 今度は小林に注意され、釈然としない気持ちになる。抑えていても、小林の声の方が五月蠅い。英子が憮然としたのに気がついたKABEが、間を取り持って弁解した。
「ほら、孔明さん、寝てるからさ」
「うん? ……うん。そうだけど……てか、二人ともいたんだね」
「俺は午後からな。夕方、ちょっと別室で電話して戻ってきたら、これでさ」
「俺はオーナーと入れ違いで事務所に入っちゃったみたいで。まじびびったー」
「ん? どうして?」
 KABEの言い方が気になって、尋ねる。英子に聞かれたKABEは、えっ、と逆に聞き返した。
「いやいや、びびるっしょ、あの人が居眠りって」
「確かに、珍しいかもだけど、そういうこともあるんじゃん? 人間なんだしさ。てゆうか、二人とも事務所になんか用あってきたんじゃないの?」
「えー、なんで月見さんそんな普通なの?」
「なんでKABEくんはそんなびびってんの?」
 KABEは人差し指で頬のあたりを掻きながら視線を彷徨わせた。
「うーん、なんつうか、あの人も眠ったりするんだなって」
「はあ?」
「なんかイメージないっつーか」
「あはは、さすがに言い過ぎ……って、オーナーもなに頷いてんですか」
 KABEの言い様には思わず苦笑するが、その上で腕を組んでうんうん首を縦に振っている小林には一言突っ込みたくなる。が、小林はあくまでも神妙な顔つきだ。
「西暦二三四年、魏と蜀が五丈原で対陣したいわゆるの『五丈原の戦い』の最中、孔明が陣中で没したのは、実は過労が原因だったって説もある」
 またいつもの三国志トークが始まった、と聞き流そうとした英子の耳に、穏やかでない単語が入ってくる。
「は? 孔明が過労!?」
「三国志の話な」
「だとしても、変なこと言わないでよ!」
 過剰に反応した英子を宥めるためか、小林は両手を挙げて弁解する。
「まあ、あいつはまだ若いから大丈夫だろうけどさ。でも、疲れてんだよきっと。寝かせといてやろうぜ、な?」
 小林は同意を求めるように英子を見た。それが、英子を呼んだ理由、と繋がるわけだ。
 そんな風に言われたら、従うしかないじゃないか。英子だって、孔明に無理をさせたいわけではないのだから。けど、KABEや小林が言うように、孔明が特別人間離れした存在だとは思わない。多少変人で、結構奇抜で、頭がやたら切れはするけれど、人間だから、ご飯も食べればお酒も飲む。居眠りだってする。気を遣うのは大切だけど、そんなに遠巻きにする必要はなくない?、と。
 まあ、別に、いいけどさ。しぶしぶ英子が外に出ようとすると、今まで黙っていたKABEが控えめに二人に合図を送った。ちょいちょい、と部屋の中を指す仕草。視線は、かなりの急角度をつけて、英子の頭を通り越しさらに上へと注がれている。
「「?」」
 二人が同時に首を傾げる、それと同時。
「私が、なにか?」
 いつもの、低くて落ち着いた絹のような声がした。振り向けば、さらり、衣擦れの音がして、胸の前でゆったりと羽扇が揺れる。怖ろしいものでも目の前にしたかのような、小林の悲鳴が割って入った。
「げぇっ、孔明! いつの間に!」
「模範的な反応、恐縮でございます」
 孔明は優雅に一礼して、それからおもむろに、壁掛け時計を指し示す。
「ささ、皆様、こんなところでたむろしていないで、もう開店の時間では?」
 劇画風に驚いていた小林も、こっそり部外者を装おうとしていたKABEも、それを見て急に我を取り戻したかのように動き出した。
「あっ、そうだった! フロアの鍵を取りに来たんだよ俺は」
「俺も、ちょっとパソコン借りたくて」
 いそいそと事務所の中に入ろうとする二人に道を空けて、英子は脱力したい気分だ。
「なによ、めちゃくちゃ事務所に用事あるじゃん、二人とも……」
 今までのやりとりが急に馬鹿らしく思えて、呆れた目で二人の姿を見るとも無しに追う英子。孔明は、そんな英子にも声をかける。
「英子さんも、なにか用だったのでは?」
「私はまあ、別にいいんだ。今すぐやらなきゃいけないわけじゃないし」
 そう答えてから、孔明の顔をじっくりと見つめた。
 涎の跡のひとつでもあればと思ったが、流石に卒がない。先ほどまで居眠りをしていた素振りなど欠片も見せず、孔明はいつもの、あるかなしかの笑みを浮かべている。
 確かに、孔明はあまり他人に、弱いところを見せない。疲れていたり、悩んでいたり、落ち込んでいたり、休んでいたり。そういった姿を人に見せることをしない。
 だから、居眠りする姿を見たときは、英子は逆に、嬉しかったのだ。ここでなら休んでいいと、そう思ってくれたということ。英子たちの前でなら、素を見せていいと思ってくれたということ。
 そう理解して、いいんだよね?
「ねえ、孔明」
「はい」
「疲れてんだったら、ちゃんと休みなよ?」
 英子の言葉に、孔明は恭しく拱手した。
「ありがたいお言葉、痛み入ります。ですが、」
 一度言葉を切った孔明は、小林とKABEに視線をやり、再度英子に向き直る。人の心を見透かす瞳が、微かに細められる。
「ええ、ここが一番、私の気が休まる場所ですよ」

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